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第26話 観測者の介入と、模倣された母なる海

1.観測者たちのアンカー


ヴィクトル・黒須の仕掛けによって開かれた、無間地獄の底へのアクセスルート。

数千人の観客の「負の感情」と、舞台上の極限の演技がシンクロしたことで生まれた巨大な特異点は、今まさに劇場の空間そのものを内側から崩壊させようとしていた。


ギシッ……、メキメキ……ッ。


物理的な軋み音を立てる劇場の壁や天井。

しかし、それらは完全に崩れ落ちることなく、目に見えない強固な力によってギリギリの均衡を保っていた。


二階のVIP席。

神野太陽は、座席に座ったまま、胸元の進化したEgo Cube漆黒と黄金の多面体から無数の『重力の糸』を、舞台の方へと放ち続けていた。

空間の座標を縫い止め、歪んだ物理法則を強引に正常な状態へと固定する『重力編纂グラビティ・コンパイル』。

彼の額には汗が浮かび、呼吸は浅く、早くなっている。

特異点から噴き出す膨大な圧力を、たった一人で物理的に押さえ込むというのは、並大抵の負荷ではない。


「……太陽、無理しないで。

あなた一人じゃ、長くは持たないわ」


隣に座る深海明日美が、不安そうに声を上げる。


「大丈夫だ。

ヴィクトルはこの事態を予想して僕たちを招待したんだろう。

……僕は彼らの舞台の枠組みを守る。

明日美は、観客のほうを頼む」


太陽の言葉に、明日美はハッと客席を見渡した。


舞台の物理的な崩壊は太陽の重力で食い止められているものの、空間に充満する「感情の特異点」は、無意識のうちに観客の精神を侵食し始めていた。

彼らの瞳から焦点が失われかけ、演劇への純粋な感動が、徐々に「理性のない熱狂」と「破壊衝動」へとすり替わろうとしている。

このままでは、葛城姉妹のロンドン公演の時のように観客たちが暴徒と化し、劇場は文字通りの地獄絵図となりかねない。


「……わかった。

観客の人たちを私のEgo Cube「母なる海」で包み込めば大丈夫よ」


明日美は、両手を胸の前で強く組み、自らの青く澄み切ったEgo Cubeを顕現させた。


『Spell……母なるマザー


彼女のEgo Cubeから、美しく透明な青い波紋が劇場全体に向かって広がっていく。

それは、数千人の観客一人一人の心にそっと寄り添い、特異点の闇から彼らの精神を保護する「薄くて強靭なフィルター」だった。

観客たちが抱える怒りや恐怖、そしてヴィクトルのパッチによって増幅された闘争本能。

明日美の海は、それらを決して否定せず、ただ静かに包み込み、中和していく。


「……ふうっ」


明日美の波紋が客席に行き渡った瞬間、観客たちの瞳に再び理性の光が戻り、彼らは自分が「素晴らしい演劇を観ている」という本来の認識を取り戻した。


太陽の『重力』による物理的防壁と、明日美の『海』による精神的防護。

二人の観測者が客席から放つ絶対的なアンカーによって、劇場の崩壊は間一髪で食い止められていた。


「これで、舞台の安全は確保した……。

あとは、彼らがこの舞台をどう結末に導くかだ」


太陽は、重力場を維持したまま、静かに緞帳の降りた舞台を見つめた。



2.第三幕、重圧の中の幕開け


ジリリリリリリッ……!


第三幕の開演を告げるベルが、再び劇場に響き渡った。

重々しい暗転の中から、ゆっくりと緞帳が上がっていく。

舞台上の空間は、特異点の発生による「見えない重圧」によって、まるで水底のように粘り気を帯びていた。

呼吸をするだけで肺が軋み、手足を動かすことすら鉛を引きずるように重い。


しかし、その極限状態の中にあっても、舞台中央に立つ三人の役者、陸、葵、豪鬼の瞳から、演技への情熱の火が消えることはなかった。

彼らは、誰かが重力でこの空間を支えてくれていることを理解し、その想いに応えるべく、自らの命を削って役を生き抜いていた。


『……退け!

俺はもう、誰の鎖にも繋がれない!』


ヴァレリウス(陸)が、血と汗にまみれた顔を上げ、鋼の木剣を構えて咆哮する。

Ego Cube『憑依』によって引き出された生への執着は、特異点の圧力に抗うように、さらに眩い黄金の光となって彼を包み込んでいた。


『貴様のような下賤げせんの命で、我が娘の痛みが少しでも和らぐのなら……喜んでその血を捧げるがよい!』


狂王(豪鬼)が、王としての威厳と、父親としての深い絶望の声で応じる。

彼はベテランの意地と矜持で、この異常な空間の重圧すらも「自らが背負う王の重み」として演技に取り込み、圧倒的な存在感を放っていた。


『……やめください!お父様!

もう、誰も傷つかないで……!』


祭壇の上のリリス(葵)が、震える声で懇願する。

彼女の『硝子のEgo Cubeプリズム』は、陸の熱と豪鬼の絶望を吸い込み、限界ギリギリのところで哀しみの光へと変換し続けている。

彼女の全身は小刻みに震え、その瞳には本物の限界の涙が浮かんでいた。


闘争、絶望、そして悲哀。

三つの極限の感情が舞台上で激しく衝突し、特異点の闇と相まって、今にも爆発しそうな臨界点に達しようとしていた。

陸の木剣と、狂王の護衛兵たちの剣が交えられようとした、まさにその時。


『……そこまでです。その剣を、お収めください』


舞台の奥から、静寂を切り裂くように、しかし羽毛のように柔らかな声が響き渡った。



3.模倣イミテーションの真髄


舞台の袖の暗がりから、ゆっくりと歩み出てきたのは、奴隷として剣闘士の食事の用意をしている粗末な布の衣装を身に纏った奴隷、ヴァレリウス(陸)が想いを寄せている「名もなき始まりの女性」エルラを演じる、星野雫だった。


彼女が一歩、舞台に足を踏み入れた瞬間。

陸、葵、豪鬼の三人が放っていた極限の感情が、まるで凪いだ海に波が吸い込まれるように、フッと勢いを失った。


(……来る。

雫さんの、『海』が)


陸は、木剣を構えたまま息を呑んだ。

星野雫の持つEgo Cubeの特性は、『模倣イミテーション』。

過去に自分が見聞きした偉大な俳優の演技や、身近にいる人間の放つ強烈な感情を、自分自身のEgo Cubeに取り込み、完璧に再現して出力することができるという、極めて稀有な才能。

かつて子役時代から天才ともてはやされ、しかし他人の真似事しかできない自分に絶望しかけた彼女が、苦悩の果てに辿り着いた「女優としての究極の武器」だ。


雫は、自らの胸元で光を放つEgo Cubeに意識を集中した。

彼女が今、自らの器に模倣ダウンロードしようとしているのは、二つの強大なイメージだった。


一つは、歴史の真実を学ぶ中で彼女自身の想像力によって組み上げた、二千年前の『エルラ』という女性の姿。

そしてもう一つは……数日前の立ち稽古の最中に、彼女が密かに感じ取っていた、客席の奥で彼らを見守る深海明日美の『本物の母なる海』。


(……私の器は、空っぽのままでは役に立たない。

でも、何を注ぎ込むかは、私が決める)


雫の瞳の奥で、微かな青い光が瞬いた。

模倣イミテーション』が発動する。

彼女は、明日美の放つ絶対的な受容の波形を自身のEgo Cubeで完璧にトレースし、さらにそれを、役者・星野雫の「解釈」と「想像力」というフィルターを通して再構築した。


それは、単なるモノマネではない。

本物以上の説得力を持った、芸術としての『仮想の海』の顕現だった。


『……ヴァレリウス。

あなたのその剣は、一体誰の悲しみを断ち切るためのものなの?』


雫が、静かに陸の方へと歩み寄る。

彼女の周囲には、特異点の見えない重圧すらも押し返すような、広大で暖かな「受容の空間」がドーム状に展開されていた。



4.始まりの女性と、圧倒的な包容力


「……エルラ!

来るな、ここは俺が……!」


陸が、彼女を護ろうと前に出ようとする。

だが、エルラ(雫)は、首を横に振り、狂王とヴァレリウスの間に静かに立ちはだかった。

彼女の顔には、死への恐怖も、理不尽な運命に対する怒りもなかった。

あるのはただ、目の前で血を流し、傷つけ合う人間たちに対する、底知れぬ慈愛だけだった。


『王よ。

あなたが国を守るために流した涙の数も、その少女の額に石を埋め込んだ時の手の震えも……私は、知っています』


雫の透き通るような声が、狂王(豪鬼)の胸に真っ直ぐに突き刺さる。


「……貴様のような名もなき奴隷に、私の何が分かるというのだ!」


狂王が、台本にある通りに怒声を上げる。

だが、その声の裏には、彼女の放つ圧倒的な受容力に触れ、長年被り続けてきた「狂気の仮面」が剥がれ落ちそうになることへの、本物の動揺が混じっていた。


『分かります。

……愛しているからこそ、人は痛みを恐れ、誰かを犠牲にしてしまう。

あなたの絶望は、誰よりも深く、純粋なものでした』


エルラは、狂王に向かって深く、美しく一礼した。


『ですが、もう終わりにしましょう。

……あなたの罪も、この国を覆う哀しみも、全て私が引き受けます』


エルラ(雫)が、ゆっくりと振り返り、祭壇の上のリリス(葵)を見上げた。


『リリス。

……もう、大丈夫。

あなたはただ、愛するお父様の腕の中で、思い切り泣きなさい』


その言葉が響いた瞬間。

葵の『硝子のEgo Cube』の中で限界まで膨れ上がっていた痛みのノイズが、雫の放つ広大な『海』に優しく吸収され、すーっと消えていくのを感じた。


「……あ、あぁ……」


リリスとしての悲劇の少女の仮面が崩れ、葵の目から、せきを切ったように本物の涙が溢れ出す。

それは、悲しみの涙ではない。

長年の重圧から解放され、ついに自分を受け入れてくれる「母なる存在」に出会えたことへの、救済の涙だった。


『……やめろ、エルラ!

お前がそんなものを背負う必要はない!

お前が全てを犠牲にして手に入れる平和なんて……俺は認めないッ!!』


ヴァレリウス(陸)が、絶叫と共に木剣を振り上げ、雫に駆け寄る。

彼の『闘争の感情』が、最高潮に達して暴れ狂う。

愛する女性が、自ら巨大な呪い(虹色の石)を引き受けようとしている。

それを止めるためには、世界を壊してでも彼女を奪い返すしかない。


だが、エルラ(雫)は逃げなかった。

彼女は、振り下ろされようとする木剣の前に身を投げ出し、陸の胸に真っ直ぐに飛び込んで、その両腕で彼の背中を力強く抱きしめた。


ドンッ……!


木剣が、虚しく床に落ちる音が響く。

陸の放っていた狂暴な闘争の熱が、エルラ(雫)の胸に触れた瞬間、温かいお湯に溶けるようにして急速に静まっていった。


『……ヴァレリウス。

ごめんなさい。

でも、私はあなたと一緒に、光の下を歩くことはできない』


雫は、陸の背中を撫でながら、耳元で優しく囁いた。


『あなたが流す血は、私の心を切り裂くの。

……だから、もう武器を置いて。

あなたの痛みも、怒りも、私が全てこの胸に抱いて、深い海の底へ沈めてあげるから』


「……エル、ラ……」


陸の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。

抗うことを諦めたのではない。

自分のエゴよりも遥かに大きく、深い彼女の『愛』の前に、闘争という名の剣を置くことを、彼自身の魂が選択したのだ。


客席の数千人の観客もまた、この圧倒的な「受容」の光景を前に、誰一人として声を出すことができなかった。

彼らの心の中にあったストレスや不満は、雫の模倣した『母なる海』によって完全に洗い流され、残ったのは、ただ美しき「無償の愛」に対する、純粋で静かな感動の涙だけだった。



5.芸術への反逆


劇場の最上階、秘密の制御室。

巨大なモニターを前にしていたヴィクトル・黒須の表情から、先ほどまでの余裕の笑みが消え去っていた。


「……何という事だ。

波形が……変質している」


ヴィクトルの指が、コンソールを叩く。

モニターに映し出されていた、無間地獄の底へと突き刺さる巨大な「エゴ・クラスター(黒紫の光の柱)」。

それが今、根本からその色を変え始めていたのだ。


闘争と絶望が激突し、特異点を開くための「破壊のエネルギー」。

ヴィクトルが望んでいたのは、その破滅へと向かう混沌カオスの感情だった。

だが、エルラ(雫)が『母なる海』を完璧に模倣し、舞台上の極限の感情をすべて受容したことで、役者たちと観客の感情は、暴走することなく、一つの巨大で美しい「調和の光(芸術)」へと昇華されてしまったのだ。


「……特異点の重力が低下している。

無間の底へのアクセスルートが閉じ始めたのか……」


ヴィクトルは、銀縁メガネの奥で目を細め、モニター越しに舞台上の雫を凝視した。


「星野雫……。

実力派とは聞いていたが、

まさか深海明日美の『母なる海』の波形を、一介の女優が己の想像力と模倣の力だけで、ここまで完璧に再現できるとは」


ヴィクトルの口から、驚愕と、そして隠しきれない歓喜の溜息が漏れた。


「ええ。

これこそが、人間のエゴの可能性。

……私が仕掛けたシステムのハッキング(破滅のシナリオ)すらも、役者たちが自らの『演じ切る』というエゴによって、美しい芸術作品へと上書きしてしまう力を持っている」


ヴィクトルは、ハッキングの失敗を悔やむどころか、人類が辿り着いた新たな芸術の極致に、興行師として極上の快感を覚えていた。


「……素晴らしい。

若き役者たちよ。

あなた方の放つこの美しき感情の波形の前では、神の扉すらも霞んで見える」


舞台上では、いよいよ物語が真の結末へと向かおうとしていた。

狂王から託された『虹色の石』を額に受け、自らの身を犠牲にして世界の痛みを背負う「始まりの女性」となったエルラ。

そして、彼女を失い、それでも彼女が残した言葉を未来へ伝えるために、孤独に立ち上がる剣闘士ヴァレリウス。


特異点の脅威は去り、純粋な演劇の空間へと戻った大劇場で。

陸と葵、そして雫が紡ぎ出す、Gaeaの起源を巡る愛と闘争の物語は、観客の魂を根底から震わせる「言葉を綴る救世主」の誕生、最後のクライマックスへと進んでいた。

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