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第23話 開演のベルと、五年前の軌跡

1.熱を孕むロビーと、予想外の再会


初日プレミエを迎えた、都内の大劇場。

クリスタルガラスのシャンデリアが輝く豪奢なロビーには、ホールの開場を待ちわびる観客たちがひしめき合っていた。


「……すごい熱気ね。

みんな、この舞台を本当に楽しみにしていたのね」


少しおめかしをして、深いネイビーのワンピースを身に纏った明日美が、周囲を見渡しながら感嘆の声を漏らす。


「ああ。

……だが、少し異様だな」


隣を歩く太陽は、仕立ての良い黒のジャケット姿で、鋭い視線を群衆に向けていた。

彼の胸元にある進化したEgo Cubeが、空間に充満する『感情の波形』を正確に捉えている。

観客たちが発しているのは、単なる演劇ファンとしての純粋な期待だけではない。

日々の生活で抑圧されたストレス、不満、そして誰かに勝ちたいという言葉にならない渇望。

そうした感情が、まるで火を点けられるのを待つ火薬庫のように、劇場の空気を物理的に数度引き上げているように感じられた。


(ヴィクトル……。

意図的に、葛城姉妹の「マイナス感情の絶対値化」の波形が含まれる曲を聴いたことのある観客を集めたようだな。何を企んでいる?)


「おーい!

明日美ちゃん!太陽くん!」


不意に、人混みの向こうから野太い声が響いた。

二人が振り返ると、そこには、普段の油まみれの作業着とは打って変わって、少し窮屈そうにスーツを着込んだ大柄な男が、満面の笑みで手を振っていた。


「権藤さん!」


明日美がパッと顔を輝かせる。

太陽と明日美が五年前、世界を巡って『歌詞の欠片』を集めていた頃、下町で施設と町工場を運営し、彼らを温かく支援してくれた恩人、権藤武だった。


「いやぁ、まさかこんなところでお前さんたちに会えるとはな!

元気にしてたか?」


権藤が、太陽の肩をガシガシと叩く。


「ええ、ご無沙汰しています。

権藤さんもお元気そうで何よりです。

……もしかして、権藤さんもこの舞台を観に?」


太陽が尋ねると、権藤は「当たり前よ!」と胸を張った。


「俺は今日のこの日を、五年間ずっと待ちわびてたんだからな。

……お前たち、今日の主役が誰だか知ってて来たのか?」


権藤の言葉に、明日美は小首を傾げた。


「主役……ええと、ヴィクトルさんからの招待状には『市松陸』さんって書いてありましたけど」


「そうか、気づいてなかったか。

……明日美ちゃん、覚えてないか?

五年前、ウチの工場でいつも部屋の隅で膝を抱えて、泣きそうな顔をしてた生意気なガキのことをよ」


明日美の脳裏に、五年間の記憶がフラッシュバックした。

工場の隅。

親や大人たちの期待に押し潰され、「自分はどうせ出来損ないだ」と自暴自棄になっていた、痛々しいほどに不器用な少年の姿。

明日美は当時、彼のその孤独な感情に寄り添い、『役に立たなくても、完璧じゃなくても、あなたはそこにいていいんだよ』と、受容の言葉をかけたのだ。


「……あの時の、陸くん!?」


明日美は、驚きで両手で口を覆った。


「ああ、そうだ。

あの不器用なもやしっ子が、今日の主役の剣闘士よ」


権藤は、ロビーに飾られた巨大なポスターを見上げた。

そこには、泥と血にまみれ、鋭い眼光で前を見据える陸の姿がデカデカと映し出されていた。



2.呪縛を越えた少年


「陸くんが……あんなに立派になって……」


ポスターを見上げる明日美の瞳に、あっという間に涙が浮かぶ。


「あいつはな、名門『市松』の役者一族の家系で長男として生まれたんだ」


権藤は、ロビーの喧騒から少し離れた壁際に二人を誘導し、静かに語り始めた。


「物心ついた時から、後継者として次の看板を背負うための狂ったようなスパルタ教育を叩き込まれてきた。

少しでも上手くできないと、親父から激しい折檻を受け、周囲からは『天才の血を引いているのに』と異常な期待と失望の目を向けられ続けた」


権藤の言葉に、太陽は静かに頷いた。


「あのときのあいつは、重圧で完全にぶっ壊れる寸前だった。

だから家から逃げ出して、俺のところに転がり込んできたんだ。

……あのままじゃ、あいつは二度と舞台には立てなかっただろうさ」


「あいつは、他人の感情に敏感でな、市松家系に受け継がれている『憑依』っていう稀有なEgo Cubeの特性も、この舞台出演をきっかけに覚醒したようだ。

上手く制御できてると良いんだが」


権藤は、真っ直ぐに明日美を見た。


「でもな、明日美ちゃん。

あんたが五年前、あいつの心を『母なる海』で包み込んでくれた。

あの言葉があったから、あいつは自分の弱さを認めて、もう一度泥水をすする覚悟を決めることができたんだよ。

……俺の工場で働きながら、小さな劇団で一からやり直して、ついに自分の足で、あの大舞台のど真ん中に立つまでに這い上がったんだ」


「権藤さん……」


明日美の目から、たまらず一粒の涙がこぼれ落ちた。

自分が過去に綴った受容の言葉が、一人の少年の心を救い、彼をこんなにも立派な『剣闘士』へと成長させていた。

その事実が、明日美の胸を熱く震わせた。


太陽は、そんな明日美の肩を優しく抱き寄せながら、内心では警戒を強めていた。


(……ヴィクトルの奴。

僕たちをこの舞台に招待したのは、五年前の明日美の『受容』に救われた陸が、今度は舞台の上で数千人の『闘争』を昇華させる姿を見せつけるためなのか?

……それとも他に何か目的があるのか)


「さあ、そろそろ開演だ。

明日美ちゃん、太陽。

俺たちのバカ息子の晴れ舞台、しっかり目に焼き付けてやってくれ!」


権藤が、目元を少しだけ赤くしながら、豪快に笑って客席への扉を指差した。


「はい……!

しっかり、見届けます!」


明日美は涙を拭い、太陽と共に、熱気渦巻く客席へと足を踏み入れた。



3.開演直前の控室


その頃、舞台裏の役者用控室エリア。

表のロビーの華やかさとは打って変わり、そこには肌を刺すような、ピリピリとした極限の緊張感が漂っていた。


「……スーッ、ハァーッ……」


個室の楽屋で、市松陸は目を閉じ、深呼吸を繰り返していた。

革製の荒々しい剣闘士の衣装に身を包んだ彼の胸元では、Ego Cubeがすでに『ヴァレリウス』の記憶を引き寄せ、ドクドクと熱く脈打っている。


(飲まれるな。

……俺は、俺だ)


陸は、自らの両手を見つめた。

権藤の工場でついたタコと、鉄の匂い。


客席には今日、恩人である権藤が来ているはずだ。

そして、ヴィクトルが手配した特別席には、自分を救ってくれたあの『明日美』たちも座っていると聞かされている。


(五年間の、俺の全部をぶつける。

……俺はもう、逃げない)


陸が、固く拳を握りしめた時、コンコン、と控えめなノックの音がして、楽屋のドアが開いた。


「……陸さん。

邪魔じゃなかったですか?」


純白の衣装に身を包み、額に精巧な『虹色の石』のメイクを施した葵だった。


「葵さん。

いや、全然。

そっちも準備完了みたいですね」


陸が立ち上がって微笑むと、葵もまた、柔らかく、しかし芯のある笑顔を返した。


「はい。

……陸さん、手が少し冷たいですね」


葵は、陸の震える右手に、自分の両手をそっと重ねた。

かつては氷のように冷たかった彼女の手は、今は不思議なほど温かく、陸の緊張をスッと和らげてくれた。


「私、もう怖くありません。

……私の心は、硝子の器。

でも、もう空っぽじゃない」


葵は、自らの胸に手を当てた。


「陸さんが放つ熱も、観客の皆さんの悲しみも。

私が全部吸い込んで、最高の光に変えて客席に届けます。

だから陸さんは、何も恐れずに……全力で、ヴァレリウスを演じてください」


その言葉には、かつての「期待に応えるだけの人形」の面影は微塵もなかった。

自分の意志で舞台に立ち、相手の全てを受け止める覚悟を決めた、一人の表現者としての圧倒的な強さが宿っていた。


「……ありがとう、葵さん。

頼りにしてます」


陸が、葵の手に自分のもう片方の手を重ねた、その時。


「あらあら。

本番前に、二人だけの世界に入っちゃって」


ドアの枠に寄りかかるようにして、エルラ役の衣装に身を包んだ雫が、微笑ましく二人を見つめていた。


「し、雫さん!

い、いや、これはその……!」


陸が慌てて手を離し、顔を真っ赤にしてどもると、雫はクスクスと笑いながら楽屋に入ってきた。


「いいのよ。

役者同士が舞台に上がる前に魂を共鳴させるのは、とても大切な儀式だから」


雫は、二人の前に立ち、スッと先輩女優としての凛とした表情に切り替わった。


「いいこと、二人とも。

今日の客席は、ヴィクトルさんの仕掛けで、普段よりずっと重くて暗い『闘争の感情』が渦巻いているわ。

……あなたたちの熱と痛みが、その感情に飲まれそうになったら、いつでも私を見なさい」


雫の瞳の奥に、深く、果てしない『海』の感情が揺らぐ。


「私がエルラとして、舞台の上であなたたちの全てを受容するアンカーになる。

……だから、思う存分、暴れてきなさい」


「……はいッ!」


陸と葵は、力強く頷いた。


『出演者の皆様、間もなく開演五分前です。

スタンバイをお願いします』


館内放送が、決戦の時を告げる。

陸は、傍らに立てかけられていた鋼の木剣をガシッと掴み上げた。


「行こう。

……二千年前の歴史を、俺たちの手で現代に書き換えるんだ」


三人の若き役者たちは、互いの瞳に確かな信頼の光を交わし合い、薄暗い舞台袖へと向かって力強く歩み出した。



4.特等席の観測者


午後六時。

劇場の客席の照明が、ゆっくりと落ちていく。

数千人の観客のざわめきが、波が引くように静まり返り、暗闇の中に異常なほどの期待と緊張感が膨れ上がっていく。


二階の最前列、VIP席。

太陽は、座席に深く腰掛け、胸元で自身のEgo Cubeを静かに回転させ始めた。

隣に座る明日美もまた、祈るように両手を組み、舞台の緞帳を見つめている。


(……すごい圧力だ。

数千人の観客の無意識が、一つの巨大な「エゴの塊」に統合されようとしている)


太陽の視界には、観客たちから立ち昇る黒い感情が、目に見えるノイズとなって劇場の天井に渦巻いているのがはっきりと見えていた。


ヴィクトル・黒須は、この劇場という空間そのものを、巨大な演算装置クラスターに変えようとしている。

もし、舞台上の役者の演技がこの観客のノイズに押し潰されれば、劇場は暴発し、無間地獄の底へと繋がる「特異点」が完全に開いてしまうだろう。


「……太陽。

私、信じてる。

陸くんと、あの役者さんたちなら、絶対にこの黒い感情を『光』に変えてくれるって」


明日美の震える声に、太陽は彼女の手をしっかりと握り返した。


「ああ。

僕たちはここで、彼らの放つ熱を最後まで見届ける『観測者』だ。

……万が一の時は、僕の重力と君の海で、この劇場ごと縫い止める」


太陽の瞳に、黄金と漆黒のオーラが静かに宿る。


その時。

地鳴りのような重低音が、劇場のスピーカーから響き渡った。



5. 開演のベル


ジリリリリリリッ……!!!


劇場の空気を切り裂く、鋭く、暴力的な開演のベル。

それは、平和な現代から、血と砂が支配する二千年前のコロッセオへと、観客の意識を強制的に引き摺り込む合図だった。


重厚な赤天鵞絨レッドベルベットの緞帳が、ゆっくりと、ゆっくりと上がり始める。

舞台上は、青白い照明と、薄暗いスモークに包まれていた。

鉄の鎖が擦れる音。獣の唸り声。

そして、命をすり減らすような男たちの荒い息遣い。


『戦えぇぇぇっ!!』


突然、舞台の中央にスポットライトが叩きつけられ、そこに一人の男の姿が浮かび上がった。

血と泥にまみれた革鎧。

手には、無骨な鋼の剣。

市松陸、いや、二千年前の剣闘士『ヴァレリウス』が、そこに立っていた。


「……ッ!」


客席の数千人が、一瞬にして息を呑んだ。

陸の全身から放たれる、圧倒的な『闘争と生への執着』の感情。

それは、客席に渦巻いていた観客たちの「どす黒い不満」を、たった一瞥で真っ向からねじ伏せ、強制的に『物語への没入』へと引き摺り込むほどの、すさまじいエゴの放射だった。


(……すげえ。

陸の奴、あんな顔ができるようになったのか……!)


一階席で見ていた権藤が、震える手で座席の肘掛けを強く握りしめる。


『神よ!王よ!

もしこの世に絶望しかないというなら……俺は、俺自身の剣で、その運命を叩き斬る!!』


陸の魂の底からの咆哮が、劇場全体を揺るがした。

彼の声に呼応するように、アンサンブルの剣闘士たちが一斉に舞台に雪崩れ込み、激しい金属音と共に本気で命を削り合う「殺陣たて」が開始された。


ただの演劇ではない。

人間の根源にある闘争本能を、美しく、残酷なまでに昇華させた「芸術エンターテインメント」の極致。

客席の暗がりの中で、どこかに潜むヴィクトルが、満足げにタクトを振るう気配がした。


Gaeaの起源を巡る、血と砂の神話。

その全ての悲劇と熱狂を包み込む、過酷な初日プレミエの幕が、今、完全に切って落とされた。

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