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第21話 黒の招待状と、始まりの女性

1.完璧なタイミングの労い


都内にあるマンションの一室。

神野太陽は、静かなリビングのソファに深く腰掛け、手元にある一通の封筒を険しい目で見つめていた。


漆黒の分厚い和紙で作られたその封筒には、銀色のシーリングワックスで「V.K」というイニシャルが刻印されている。

中に入っていたのは、プラチナ箔で縁取られた二枚の豪奢なチケットと、一枚のメッセージカードだった。


『葛城姉妹の世界ツアーにご同行頂いたおかげで、大変有意義な成果を上げることができました。

ささやかなお礼として、極上のエンターテインメントの特等席をご用意いたしました。

ぜひ、パートナーとお二人で非日常の熱狂をお楽しみください。』

ヴィクトル・黒須


「……相変わらず、気味が悪いほど完璧な段取りだな」


太陽は、チケットに印字された『剣闘士グラディエーター』というタイトルを指で弾き、低く呟いた。

ここ数ヶ月、太陽は過酷な状況の中にいた。

キャリア理論で未解明だったマイナスの自己一致を観測するため、葛城姉妹の世界ツアーへの同行。

そして、事象の地平面の最深部『無間地獄むげんじごく』への巡礼。

肉体的にも精神的にも限界ギリギリの旅を終え、ようやく日本に戻ってきてひと息ついた、まさにその絶妙なタイミングで、この招待状は届いたのだ。


「……どうしたの、太陽?

怖い顔をして」


キッチンの奥から、二つのマグカップにお茶を淹れて戻ってきた明日美が、小首を傾げた。


「いや……先月のツアーに同行した葛城姉妹のプロデュースをしているヴィクトル・黒須から、舞台の招待状が届いたんだ。

来月、都内の大劇場で公演初日を迎えるらしい」


太陽がチケットをテーブルに置くと、明日美は目を輝かせてそれを手に取った。


「へぇー!

舞台演劇なんて久しぶり!

剣闘士グラディエーター』……古代ローマのお話ね。

ヴィクトル・黒須さんがプロデュースするなら、きっと大人気の舞台になるわ」


明日美は、素直に喜びの声を上げた。

太陽が過酷な巡礼に出ていた間、彼女はずっと一人東京で太陽の帰りを待って多忙な生活を送っていた。

太陽と共に「普通の観客」としてエンターテインメントを楽しめることが、純粋に嬉しいのだ。

だが、太陽の胸の奥では、進化したEgo Cube(器)が微かに違和感を発していた。


(ヴィクトル・黒須。

……ただの何の目的も無く僕たちを招待するような人物ではない)


太陽は、無邪気にチケットを眺める明日美の横顔を見つめた。

ヴィクトルは、AI歌姫『ASUMI』の概念やネットワークのシステムには全く関与していない。

彼女のオリジナルの自我である「深海明日美」に興味を持っていることは間違いない。


(奴は根っからの興行師だ。

人間のエゴが発する『エンターテイメント』を何よりも求めている。

……奴が今、一番興味を持っているのは、葛城姉妹の猛毒すらも包み込む可能性のある明日美の『母なる海』が、この舞台を観てどう揺れ動くか見極めたいのかもしれない)


「太陽?

気が進まないの?」


明日美が、少し不安そうに上目遣いで尋ねてくる。


「……いや、行こう。

せっかくのヴィクトルからの招待だ。

君が楽しめるなら断る理由はないよ」


太陽は、心配させまいと優しく微笑んで見せた。

チケットの裏面には、小さな文字で主要キャストの名前が羅列されていた。

だが、太陽も明日美も、その一番端に書かれた『新人』の主演俳優の名前を、気に留めることはなかった。

五年前、権藤の工場で出会い、明日美の言葉によって立ち直ったあの不器用な少年『陸』が、まさかヴィクトルの大舞台で主演を任されるまでに成長しているなどとは思いもつかない。


「楽しみねー、太陽。

……私、お芝居を見るために、新しいお洋服買っちゃおうかな」


「そうだね。

僕も一緒に買いに行くよ」


平和なリビングに、穏やかな時間が流れる。

だが、太陽は警戒していた。

ヴィクトルの用意する舞台が、ただの「慰安」で終わるはずがないことを。

ヴィクトルは、舞台という場を使って、何らかの「実験」を仕掛けてくるだろう。

太陽は、その見えない不安を抱えながらも、静かにその進化したEgo Cube(器)を研ぎ澄ましていた。



2.立ち稽古の熱と、先輩の余裕


一方、都内のレンタルスタジオ。

舞台『剣闘士グラディエーター』の稽古は、初日に向けていよいよ佳境に入っていた。


「そこ!

ヴァレリウス、もっと感情を前に出せ!

お前が護りたいのは自分の命か、それとも彼女の未来か!」


「はいッ!!」


演出家の怒号が飛び交う中、市松陸は汗だくになりながら、必死に木剣を振るっていた。

図書館で歴史の真実を学び、葵と本音をぶつけ合ったことで、陸の演技は劇的な進化を遂げていた。

かつてのようにEgo Cube(器)の特性「憑依ポゼッション」に自我を完全に飲み込まれ、暴走することはなくなった。

ヴァレリウスの強烈な『怒り』と『生への執着』を自らの中にダウンロードしながらも、市松陸としての理性をギリギリのところで保ち、それを「演技という出力」に変換する術を、身体で覚え始めていたのだ。


そして、相手役の葵もまた、見違えるように変わっていた。

空っぽの硝子のEgo Cube(器)だった彼女の心には、今やリリスの「悲しみ」と「愛」が本物の熱として注ぎ込まれている。

彼女が涙を流すたび、スタジオの空気が張り詰め、見学しているスタッフまでもが思わず息を呑むほどの引力を放っていた。


「……ふう。

二人とも、本当に見違えたわね」


スタジオの隅のパイプ椅子に座り、マイボトルからハーブティーを飲みながら、雫が感嘆の息を漏らした。


彼女は、二人の後輩が図書館で密かに歴史の勉強をしていることも、互いの弱さを共有して絆を深めていることも、先輩として微笑ましく見守っていた。

若き役者たちが、ぶつかり合い、傷つき、そして本物の感情を手に入れていく過程。それは、演劇という芸術が生まれる瞬間の、最も美しい光景の一つだ。


「よし、次は第二幕のクライマックス。

ヴァレリウスとエルラの別れのシーンから行くぞ」


演出家の声に、雫はスッと立ち上がった。


「お待たせ。

……さあ、ここからは大人の時間ね」


雫は、手首や首筋を軽く回してストレッチをしながら、スタジオの中央に引かれたテープ(闘技場)の中へと歩み出た。


陸が演じる剣闘士ヴァレリウスと、葵が演じる王女リリス。

この物語には、もう一人、極めて重要な鍵を握るヒロインが存在する。

それが、雫の演じる後に「言葉を綴る救世主」と呼ばれ、「伝えし者」となる「名もなき始まりの女性」エルラだ。


彼女は、身分違いの奴隷でありながらヴァレリウスを深く愛し、そして後に、リリスの額に埋め込まれていた『虹色の石』の呪いを引き継ぎ、世界中の痛みをその身に受容することになる女性。

深海一族の祖先であり、明日美の持つEgo Cube(器)の特性『母なる海』の起源となる、途方もなく重い業を背負った役柄だった。



3.実力派の壁


「市松くん。

遠慮しなくていいわよ。

あなたの全力を、私にぶつけてみなさい」


所定の位置についた雫が、穏やかな、しかし決して底を見せない深い微笑みで陸に言った。


「……はい!

行きます、雫さん!」


陸は、木剣を握り直し、深く息を吸い込んだ。

シーンは、闘技場で致命傷を負いながらも反逆の狼煙を上げようとするヴァレリウスを、エルラが必死に止めようとする場面。


『……退け、エルラ!

俺はもう、誰の鎖にも繋がれない!

俺の命は、俺自身の剣で切り拓く!!』


陸のEgo Cube(器)が激しく脈動し、圧倒的な『闘争の感情』がスタジオを吹き荒れた。

葵との稽古で手に入れた「制御された憑依」。

だが、その熱量は凄まじく、陸の目は血走り、全身の筋肉が獣のように躍動している。


陸が、木剣を振りかざし、雫に向かって凄まじい気迫で踏み込んだ。

並の女優なら、その殺気に気圧されて思わず後ずさるか、台詞を噛んでしまうほどのプレッシャーだ。

見学していた葵も、思わず息を止めて両手を握りしめた。


だが。


『……ヴァレリウス。

あなたのその剣は、一体誰の悲しみを断ち切るためのものなの?』


雫の声が、スタジオに響いた。

それは、決して声を張り上げたわけではない。

囁くような、静かで柔らかな声。

しかし、その声は、陸の放つ暴風のような怒りの感情を、一瞬にして『凪』へと変えてしまった。


「……ッ!?」


陸は、振り下ろそうとした木剣をピタリと止め、目を見開いた。

雫の周囲だけ、重力や時間の流れが変わってしまったかのようだった。

彼女の放つEgo Cube(器)は、陸のような『熱さ』ではない。

葵の持つ悲劇的な『冷たさ』でもない。

それは、果てしなく深く、全てを包み込む『暖かな海』だった。


(な、なんだ……この感覚。

怒りの感情が、吸い込まれていく……?)


陸は、自分の内側で燃え盛っていたヴァレリウスの狂暴な炎が、雫の瞳を見つめただけで、まるで温かい毛布でくるまれたように鎮まっていくのを感じた。


『あなたが流す血は、私の心を切り裂くの。

……お願い、もう武器を置いて。

あなたの痛みは、私が全て引き受けるから』


雫が、静かに一歩を踏み出し、陸の頬にそっと手を添えた。

その瞬間、陸は完全に「ヴァレリウス」の感情から切り離され、市松陸という素の少年に引き戻されてしまった。

圧倒的な受容力。

どんなに激しい怒りも、絶望も、彼女の深淵のような『愛』の前では、無力化されてしまう。


「……はいそこまで!」


演出家が、息を吐き出すように声を上げた。


「雫、完璧だ。

……お前のその『全てを許容する母性』こそが、この物語の根幹だ。素晴らしい」


「ありがとうございます」


雫は、陸の頬から手を離し、いつもの柔らかな笑顔に戻って一礼した。



4.器の大きさと、本物の『受容』


「……す、すげえ……」


陸は、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えながら、荒い息を吐いた。


「どうだった?

私のEgo Cube(器)の特性「模倣」の扱い方」


雫が、少しだけ悪戯っぽく微笑んで陸を覗き込む。


「参考になりました。

……俺が全力でぶつけた憑依の熱が、雫さんに触れた瞬間に、全部霧みたいに消えちゃった。

……あんなの、どうやって演技してるんですか?」


陸が驚愕の目で尋ねると、雫は小さく首を横に振った。


「演技じゃないわ。

想像力よ」


「想像力……?」


「あなたが歴史を調べて役の感情を理解しようとしたように、私もまた、エルラという女性が背負った痛みの重さを想像し、自分のEgo Cube(器)に『広大な海』のイメージを模倣したの」


雫は、自分の胸にそっと手を当てた。


「エルラは、最後にリリスの石を引き継ぎ、世界中の負の感情を一人で抱え込むことになる。

……その途方もない自己犠牲の覚悟を持つ女性が、愛する男の怒り程度に怯むわけがないでしょう?

彼女の愛は、闘争よりもずっと深くて、広いのよ」


雫の言葉に、陸は雷に打たれたような衝撃を受けた。


(俺は、自分の感情を爆発させることばかり考えていた。

……でも、雫さんは違う。相手の感情を全て受け止め、その上で自分の意志を貫き通すEgo Cube(器)を持っているんだ)


見学席で見ていた葵もまた、雫の演技に魂を揺さぶられていた。

葵が苦労してようやく手に入れた「自分自身の感情」。

だが、雫はその遥か先を行っている。

自分自身の感情を確立した上で、他者の全てを受け入れるという、女優としての究極の境地。


「……雫さん、本当にすごいです。

私、見惚れてしまいました」


葵が、小走りで駆け寄ってきて、尊敬の眼差しを向ける。


「ふふっ、ありがとう葵ちゃん。

でも、私もあなたたちの熱に触発されたのよ。

後輩があんなに眩しい光を放っているのに、先輩が加減しているわけにはいかないものね」


雫は、葵の頭を優しく撫でた。


「市松くん。葵ちゃん」


雫は、改めて二人の若き役者たちを真っ直ぐに見つめた。


「いい?

演劇は『感情の共鳴』よ。

陸くんの闘争(熱)と、葵ちゃんの悲しみ(痛み)。

そして私の受容(愛)。

この三つが舞台の上で完全に噛み合った時……私たちはきっと、観客の魂を根底から作り変えるような、奇跡の空間を生み出すことができるわ」


「奇跡の空間……」


陸は、その言葉の重みを噛み締めるように、深く頷いた。


「はい。

……俺、絶対に雫さんの海に負けないくらい、もっと強くて、純粋な熱を放てるように鍛え直します!」


「私もです!

エルラが命を懸けて守りたくなるような、切実なリリスを演じてみせます!」


二人の頼もしい返事に、雫は満足そうに微笑んだ。

実力派の先輩が立ちはだかる巨大な「壁」であり、全てを繋ぎとめる「アンカー」となってくれたことで、舞台『剣闘士』の稽古場は、かつてないほどの結束と高揚感に包まれていた。



5.幕開けへの足音


稽古場の隅の暗がり。

音響ブースのガラス越しに、その熱気あふれる光景を静かに見つめる男がいた。


ヴィクトル・黒須は、手元の端末に表示される三人の波形データを見ていた。

陸の『黄金の闘争』、葵の『透明な悲しみ』、そして雫の『深い海の受容』のグラフが、完璧な正三角形を描いて交わり始めているのを確認し、口角を吊り上げた。


「……素晴らしい。

実に素晴らしいですね、雫さん。

あなたのその『母なる海のルーツ』を体現する演技が、この舞台のピースを完璧なものにしてくれました」


ヴィクトルは、銀縁メガネの奥の瞳を妖しく光らせた。


「闘争と悲劇、そして究極の自己犠牲。

二千年前の歴史の特異点が、現代の役者たちの魂を通して、今まさに再現されようとしている」


彼は、懐から漆黒の封筒を取り出し、指先でもてあそんだ。

太陽と明日美に送ったのと同じ、招待状だ。


「さあ、神野太陽さん、深海明日美さん。

……舞台の上の役者たちは、最高の『器』として仕上がってきました。

あとは、客席に座るあなた方と、数千人の観客が放つ『無意識の熱狂』が揃えば、この世界を揺るがす壮大な実験の準備は完了です」


ヴィクトルの目的は、ただの素晴らしい演劇を作ることではない。

数千人の観客の感情を役者たちの感情とシンクロさせ、巨大な『エゴのクラスター』を作り出すこと。

そして、その圧倒的なエネルギーを利用して、巡礼先で太陽が観測したGaeaシステムの最深部である無間地獄の底に眠る「未知の管理者」にアクセスすることだった。


平和な日常の中で招待状を受け取った観測者たちと。

演技という芸術の極致に挑む、純粋な役者たち。

誰もその真の目的を知らぬまま、ヴィクトルが描いた狂気のシナリオは、ついに初日プレミエの幕開けに向けて、最後のカウントダウンを静かに刻み始めていた。

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