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怪物

作者: 蓮根
掲載日:2026/02/02

女が、単純など一度でも思ったことはないが。


一度たりとも、そんな安易な言葉で片付けた覚えはない。


それでもなお、私の眼の前に現れる女たちは、いつもどこかで「解りやすい」記号の群れのように映ってしまう。


彼女たちの涙も、懇願も、熱い吐息も、すべてが予定調和のように私の掌の上で踊る。

そして私は、それを冷めた目で見下ろしながら、同時に自分がその掌の上で踊らされていることに気づいてしまうのだ。


どうも奇妙なことに、生まれながらに纏ったこの薄ら昏い性質——まるで生まれつきの影のような、病的な翳り——は、女性の内に眠る、あの聖母マリアが後に原点たる子に対して抱いたであろう、疼くような慈しみと庇護欲を、的確に、残酷なほどに掻き立てるらしい。


私は幼少の頃から虚弱で、梅雨の湿気だけで熱を出し、秋の風に咳き込み、冬の寒さに血の気を失って布団に沈んだ。

そんな私の周囲には、決まって眉を下げ、頬を上気させ、声を震わせる女たちが群がってきた。

母親代わりの叔母、近所の年上の娘、通りすがりの看護婦、果ては見知らぬ女学生まで。

彼女たちは私の蒼白い顔を見るたび、まるで自分たちの内に秘めた母性を試すかのように、手を差し伸べてきた。


「私は弱い」

「私はシアワセにはなれない」

「だから、せめて貴女だけでもイテクレタラ……」


そう囁かれるたび、私は決まったように薄く微笑み、アイの遊戯と、情熱と、少しばかりの甘味を、惜しげもなく与えてやった。

指先で頬を撫で、耳元で甘い嘘を囁き、身体を重ねる。

それだけで、大抵の女はコロリと私の腕の中に堕ちてくる。

まるで、乾いた土に一滴の水を与えただけで、たちまち花が咲き乱れ、散るかのように。

呆気なく、脆く、美しく、そして哀れに。


風の噂で聞いた話がある。

遠い昔、ある馬鹿な男がいたという。

その男の恋人が、こんなことを言ったそうだ。


「一緒に帰れるお家があったら、幸福ね。帰って、火をおこして、……三畳一間でも、……」


男はそれを真に受けた。

恋の言葉など陳腐で、使い古された台詞に過ぎないと、誰もが笑う。

だが、あの男にとっては違ったらしい。

その一言が脳髄に焼き付き、歪んだ執着へと変質していった。

三畳一間の幻影が、男の人生を食い荒らした。


「姉さん、僕はこんど結婚するんだぜ。たのむから貸してくれ。」

「お前さんの月給はいくらなの? 自分ひとりでも食べて行けないくせに。部屋代がいまどれくらいか、知ってるのかい。」

「そりゃ、女のひとにも、いくらか助けてもらって、……」

「鏡を見たことがある? 女にみつがせる顔かね。」

「そうか。いい。たのまない。」


男はたかだかの恋のために、姉を刺した。

血に染まった金を握りしめ、なお満足できず。

馬鹿げた思考だけが頭の中を支配し続けた。


「われに、ブロバリン、二百錠あり。

 飲めば、死ぬ。

 いのち、」


「私は死にます。

 こんどは、犬か猫になって生れて来ます。」


やがて男は死んだ。

殺人は新聞の片隅にも載らなかったらしいが、

自殺は小さく、乾いた活字で報じられた。

なぜなら、姉はまだ生きていたからだ。

姉はただもう涙を流し続けた。

若い者の阿呆らしい色恋沙汰も、決して馬鹿にはできないのだと思い知らされたのだ。





























ははははははははははは、はは、は、はははははは、はは。

























私にはどうしても理解できないのです。

あの男の全てが。

恋とやらの尊さも、女への狂おしいまでの固執も。

確かに、女を単純だと思ったことは一度もない。

これから先も、決して思わないだろう。

しかし、私に群がってくる女たちを見るたび、思うのだ。

あぁ、コイツらは私より下の人間だと。

女は怪物なのだと。

男よりも下等で、貪欲で、脆い存在なのだと。

だからこそ、男は女に執着などしてはいけないのだ、と。


私に選民思想などない。

ただ、神が私をこんな風に拵えただけだ。

虚弱な身体、薄暗い気質、制御不能な自尊心。

それらが、私をこのような目線に固定した。


私には「 」なんてできやしない。

(空白の部分に何を入れるべきか、私自身にも分からない。愛か? 救いか? それとも、ただの普通の幸福か?)


だが、この不便な身体は、思いたくもない欲を容赦なく膨らませる。

そういう日は、馬鹿みたいに酒に溺れ、女にいつもの「遊戯」と「情熱」と「甘味」を与えてやるしかない。

唇を重ね、肌を重ね、言葉を重ね。

すべては、夜をやり過ごすための、哀れな儀式だ。


そして朝が来る。

 

薄暗い六畳の部屋に差し込む光が、昨夜の残骸を無慈悲に暴き出す。

空の酒瓶、散らばった煙草の吸い殻、乱れた布団。

ふと目を開けると、まだそこに怪物の物陰が残っている。

昨日のことは覚えていたくない。

早くどこかへ消えてくれ。

仕方なく、寝たふりを続ける。


カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ


頭の中ではもう1時間と20分は経過したはずなのに、

時計の針は嘲るように、ほんのわずかしか動いていない。

このまま永遠に布団に潜り続けられたらどんなに楽か。

だが、そんなわけにはいかない。

5回、喉の奥で唸ったあと、ようやく顔を出す。


あぁ、頼むから。

顔の知らぬ怪物なんかに、薄い笑いを向けさせないでくれ。




























「は」
























……怪物など、いなかった。


志賀直哉の随筆に、こんな一節があった。

「お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一番美しい」と。

初めて読んだとき、私は冷ややかになった。

なんて思い切ったことを言うのだろう、と。

だが今、眼の前に横たわる少女の裸体を、まじまじと見つめていると、

あの言葉は少しもいやらしくなく、むしろ純粋な観賞の対象として、

崇高なまでに完成されたものに思えた。


朝の柔らかな光が、彼女の肌を優しく撫で、

鎖骨のくぼみ、乳房の曲線、腰の窄まり、すべてを神々しく照らし出していた。

私は視線を逸らせなかった。

いや、逸らせなかった、の方が正しい。


美しい、と思った。

それは欲情ではなかった。

敬虔さに近いが、信仰ほど清らかでもない。

「観賞」という言葉が一番近いはずなのに、

私の胸の奥底は、ざらざらと痛むほどに荒れていた。

まるで、砂を噛むような、乾いた痛み。


彼女が小さく口を開いた。


「水は」


掠れた声に、私はようやく動いた。

重い身体を引きずり、卓の上の硝子瓶を掴む。

指先が微かに震えている。

酒の残滓か、それとも目の前の「美」に圧倒されているのか、自分でも分からない。


コップに注がれた水は、朝の光を透かして、

あまりに透明で、残酷なほど潔白だった。

まるで、私の内側の濁りを嘲笑うかのように。


「……あぁ、飲みなさい」


掠れた声でそう言い、私はコップを差し出した。

彼女はそれを受け取り、白い喉を小さく鳴らしながら一気に飲み干した。

その一連の動作すら、完成された彫刻が命を得て動き出したかのように見えた。

喉仏が上下し、水滴が唇から顎を伝い、胸の谷間に落ちていく。

そのすべてが、息を呑むほどに完璧だった。


昨夜、私が彼女に与えたはずの「遊戯」や「甘味」などという卑俗な単語が、

この朝の光の中では急速に色褪せ、みすぼらしくなっていく。

私はずっと、彼女たちを「怪物」と呼び、自分より「下」の存在だと定義することで、

空虚な自尊心を辛うじて守ってきたはずだった。


しかし、どうだ。


水を飲み終え、空のコップを握る彼女の細い指先を見つめながら、

私はようやく胸の奥の「ざらつき」の正体を悟った。


それは、敗北感だった。


神が私をこのように造り、女を怪物として配置したのではない。

私が、この圧倒的な生命の輝きを直視できない弱虫であるからこそ、

彼女たちを貶め、怪物呼ばわりすることでしか、息ができなかったのだ。


彼女は濡れた唇を小さく割り、再び私を見た。

その瞳には、聖母の慈しみも、溺れる愚者の濁りもなかった。

ただ、静かな鏡のように、私の惨めな姿を映し出しているだけだった。

そこに写る私は、酒にまみれ、虚勢を張り、しかしどこまでも矮小で、哀れだった。


「……まだ、何か御用かな」


私は精一杯の虚勢を張り、薄い笑いを浮かべようとした。

だが、口角が上がる前に、彼女が先に口を開いた。


「いいえ。ただ、貴方の顔が、あまりに寂しそうだったので」


その一言は、私が何年もかけて築き上げた「薄ら昏い性質」という城壁を、

あまりにも容易く、粉々に踏み砕いた。


朝日は容赦なく部屋を照らし、隠し通せるはずだった闇をすべて剥ぎ取っていく。

畳の汚れ、壁の黄ばみ、すべてが剥き出しになる。

私はたまらず視線を逸らし、再び布団の中に潜り込んだ。


美しいものを見てしまった後の世界は、

以前よりもずっと泥のように重く、息苦しい。


布団を頭まで被り、深い眠りの中に逃げ込もうとする。

だが、瞼の裏には、彼女の残像が焼き付いて離れない。

志賀氏が語った、あの恐ろしいほど完成された生命の形。

それに対して、私の内側にあるものは、相変わらずドロドロと濁った、

酒と自己愛と自己憐憫が混じり合った汚泥に過ぎない。


あぁ、嫌だ。


美しいものを見せつけられるのは、

鏡に自分の醜さを突きつけられるより、ずっと残酷だ。


枕元から衣擦れの音がする。

彼女が服を纏い、この部屋から去ろうとしている気配。

私は息を潜め、願った。

どうか早く「怪物」の役に戻ってくれ。

私を見下すか、私に縋るか、

いずれにせよ、私を「私より下の人間」という安寧の椅子に座らせてくれる、

そんな記号としての女に戻ってくれ、と。


「さようなら。……お大事に」


静かな足音が遠ざかり、戸が閉まる音がした。

部屋には、再び沈黙と、飲み残された水の入ったコップだけが残された。


私はゆっくりと顔を出す。

朝日はもう、暴力的な明るさで部屋の隅々を暴き立てている。

畳のささくれ、飲み散らかした酒瓶の剥がれかけたラベル、

そして、彼女が座っていた場所に残された、わずかな体温の残り香。


「……ふふ、あははは」


乾いた笑いが、喉の奥からせり上がってきた。


結局、何も変わらない。

私は選民でもなければ、特別な悲劇の主人公でもない。

ただ、不便な身体と、制御不能な自尊心を持て余し、

女という名の鏡に怯え続けているだけの、矮小な男に過ぎない。


「……おい、誰か。誰かいないか」


誰もいない部屋に向かって、掠れた声を出した。

喉が焼けるように渇いている。


だが、卓の上の透明な「水」を飲む気にはなれなかった。

あんな潔白なものを胃に流し込めば、

私の内側の虚無が、余計に黒々と浮かび上がってしまう気がしたから。


私は這うようにして、昨夜の残り香がまだ漂う酒瓶を掴んだ。

アイの遊戯も、情熱も、甘味も、すべては明日が来るまでの、

哀れな時間稼ぎに過ぎない。


あの男が姉を刺してまで求めた三畳一間の幸福でさえ、

私にとっては、酒の一滴、女の眉を下げさせる一瞬の快楽にしか値しない。


ぐい、と毒のような液体を喉に流し込む。

次第に意識が混濁し、朝の光がぼやけていく。


あぁ、これでいい。


美しさに中てられることも、己の卑しさに悶えることもない、

いつもの心地よい暗闇が、ゆっくりと戻ってくる。


明日も、明後日も、私はまた「私は弱い」と嘯き、

女たちの腕の中に堕ちていくだろう。

神が私をそう造ったのだから、仕方がない。


私は、私という名の空っぽの器を、

他人のアイという名のガラクタで、満たし続けるだけだ。


時計の針は、相変わらずカチカチと、

無意味な時を、刻み続けていた。

高校生が書いた太宰のオマージュになりきれなかった落書きです

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