第一章 4
黒岩真希は夢を見ていた。
物心つく前、まだ5才くらいの自分が、夜、何処か廃墟のようなビルの中を彷徨い続ける悪夢だ。
ああ、又、これかよ……
幼児の体の中で17才の真希の意識が囁く。彼は今、自分が眠っている事を自覚していた。何しろ何度くりかえして見たか、わからない夢なのだ。
途中の経過も同じ。
静まり返った廃墟の中、大声で泣いても誰にも届かず、勇気を振り絞って暗い階段を降りようとすると、下に二つの影がある。
人ならざる者の影だ。
奴らが階段を上がってきて、月明かりが差し込む辺りに差し掛かると、真っ黒な姿が、物陰にいたせいでそう見えていた訳ではないのがわかる。
真希を見つけ、口元を歪めて笑う唇が、歯が、頬が、真希から見える何処もかしこも黒かった。人種から来る黒さではない。白目の部分まで黒く澄んだ眸が空虚な穴のようで、遠目には顔の輪郭が定かでないノッペラボ~に見えるのである。
「いやだ……来ないで……」
願いも空しく、二人のノッペラボ~が階段を駆け上がってくる。
真希は廊下に戻り、目についたドアへ逃げ込んだ。老朽化した壁の一部に亀裂があり、その中に小さな体を押し込んで、隣室へと逃げる。
追いついてきたノッペラボ~の体格では、その小さな亀裂には入れそうにない。
安堵し、床に膝をつく幼い真希。だが、その中にいる17才の意識は危機が終っていないのを知っている。
ノッペラボーの一人が進み出て、裂け目に手を触れた。そして、見る間に体全体が軟体動物さながら、変形を始める。
「もう逃げないのか、坊や? 無駄な悪あがき、俺は嫌いじゃないぜ」
紐状に細くなる頭が裂け目を通り抜け、立ちすくむ真希にいびつな冷笑を投げた。
怖い……何度見ても、夢だとわかっていても、チビリそうに怖くなる。
肩から胴体、腰まで滑らかに通り抜け、元の姿に戻ったそいつは、ゆっくり真希に手を伸ばした。まだ腕の関節から先が伸びたままで、つかむ代わりにのたくり、手首へ巻き付いてくる。
真希にもう余裕は無かった。5才の彼も、17才の彼も、必死でもがき、泣きわめく事しかできない。
「来るな、来るな……来るな~っ!」
夢の中で瞼を閉じ、全てがブラックアウトした直後、額に鋭い痛みを感じた。
悪夢を包む深い闇が、たちまち覚醒の光で取り払われていく。
「坊ちゃん、おはよ~ございま~す。とっとと起きて下さ~い」
黒岩家古参の家政婦・福間伝が、勤め先のバカ息子を叩き起こすやり方はいつもこうだ。いきなりのデコピンに、耳元へ大声でがなり立てるシャウト。
しかめっ面で真希が瞼を開くと、すぐ目の前に伝の大きな顔があり、ご自慢の栗色の巻き毛が真希の鼻をくすぐった。
「……伝さん、近い」
ニッと笑って、伝は屈んでいた体を起し、真希から顔を遠ざけた。
150センチに満たない身長で、彼女の頭は上下30センチ以上の長さを誇り、笑顔にも強烈なインパクトがある。歌舞伎役者なら、さぞかし立派な顔と称えられる事だろう。
真希は、少し赤くなった額を撫で、周りを見渡してみた。
黒岩製作所、第二部品倉庫の二階、彼のささやかな安息の場は、ひっくり返ったゴミ箱と、書き散らかした原稿用紙に埋まっている。
どうやら小説を執筆中、うまく進まず床でふて寝して、そのまま眠り込んでしまったらしい。
「……今、何時?」
「三時半を過ぎた所です」
「やべ~、丸1時間寝てたのか、俺」
さり気なく床の原稿用紙をまとめて机の上に重ねる。野次馬根性と毒舌でなる伝に見られたら、何を言われるかわからない。
「又、変な夢を見ていたみたいですね」
とりあえず、伝の興味は原稿用紙には向いていないようだ。
「坊ちゃん、うなされてました」
「毎度おなじみ、ノッペラボーの夢だけど、起こしてくれて助かった。一番ムナクソ悪くなるとこ、今日は見ないで済んだ」
「お役に立てて、光栄の至り」
「……それにしても、何であんなの見ちゃうんだろね。原因になるトラウマ、俺は何も思いつかないんだけど」
真希は文机の上の、大鋼人の人形に目をやった。夢の中に現れた怪人の体色と、黒い塩ビ人形の塗装は少し似ている。
「前に見た怖~い映画やドラマのせいかも知れませんよ」
栗色の巻き毛を優雅に撫で、伝は思慮深げに真希へ問いかけた。
「黒いノッペラボ~が出る映画なんか、あったっけ?」
「う~ん、黒くてクネクネした奴が出るドラマなら、とっておきのが一つ」
「何?」
「手塚治虫先生の傑作にして日本初のカラーで放送された特撮番組、マグマ大使の実写版です。人間モドキってのが地面から現れ、主人公の回りでウネウネと」
その動きを真似たつもりか、伝が体をくねらせ、珍妙な踊りを披露する。
昭和36年に名古屋で生まれ、日本のオタク第一世代を自称するこのオバサンは、顔の大きさを覗けば中々のルックスなのに、変わった趣味のおかげで婚期を逃したというのが、ご近所の定説だ。
「……それ、俺が生まれる前に放送された奴じゃん」
「何度も再放送されてます」
「見てない。覚えてません」
「傑作なのに、勿体ない」
「少なくとも俺の悪夢には関係ないよ。俺、伝さんみたいにオタクじゃないもん」
「フィギュア、集めてる癖に」
「訂正する。伝さん程はオタクじゃない」
「あのね、オタクを舐めちゃいけませんぜ、ダンナ。何時か、日本の偉大な文化として世界に轟く日が来るんですから」
「……そんなもんかね」
一応、調子を合わせつつ、この時、真希は漠然とした違和感を持て余していた。
昔からこの夢について語り出すと、家族にしろ、伝にしろ、工場の従業員にしろ、真希をはぐらかすような言い方をする。
子供の世迷言が面倒臭いだけかもしれず、最近の真希は気にしないようにしているのだが、奥歯に物が挟まる感覚は拭えなかった。
まぁ、仕方ないよな。
ガキの頃とは言え、どうしても思い出せない事情があるとしたら、きっと思い出す必要が無いから忘れているんだろうし……
首を振って悪夢の残像を追い払い、真希はまだクネクネしている伝に向き直った。
「で、何の用? こんなトコまで俺を呼びに来て」
伝は我に返り、しばし首を傾げた。趣味に意識が流れた途端、最初の用事を忘れてしまったようだ。
「え~と……そうそう、美貴さんの事です」
「今日、姉貴が来るのは俺も知ってる」
「それがね、実は一人じゃないそうで」
「え?」
「さっき、奥様に電話があったんですけど、連れてくるみたいですよ、彼氏」
「ええっ?」
「いや~、世の中には、勇気のある男性がいるもんですねぇ」
「え~っ!?」
驚愕の叫びを上げ、真希は伝を置き去りにして、一気に倉庫の二階から駆け下りた。
見た目だけ女の、あの猛獣が……事もあろうにカレシとは、天変地異の前触れか?
事の真偽を確かめようと真希が母屋へ走る途中、工場の窓を通して、旋盤に向かう轍治の姿が垣間見えた。
あ、ガンテツ、笑ってやがる。
何年振りだろ、あんな顔? こりゃますます、雲行きが怪しい。ノストラダムスの大予言って、アレ何時の話だったっけ……?
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