そんなことあるわけない
夏のホラー2025参加作品です。
私はたった今、泳げない少年を池に突き飛ばした。不倫現場を見られたかもしれないという理由で。
(仕方ないじゃない。こうしなければ充さんと会えなくなるのだもの)
助けて、泳げないんだ、ともがく姿に思わず手を伸ばしかけたが、つい先ほど彼と過ごした甘いひとときを思い出し、ごめんねと謝りながら手を引っ込める。
とはいえ、水に沈む瞬間を見届けることはさすがにできず、私は逃げるようにその場を後にした。
♢
少年は死んでいなかった。
意識不明の重体と夜のニュースで知った。
(そっか。私のせいなんだ)
いつも充さんから届く、“今日は楽しかったよ”のメッセージがなかったのでやきもきしていたけれど、理由がわかれば納得した。彼は少年が通う小学校の教師だから。
(学校は色々と対応しなきゃだから忙しくなるものね)
「あそこはカブトムシがたくさんいるからねえ」
水を飲もうとキッチンに入ると、母が誰かと電話中だった。
「夕飯の支度中に、気づいたらいなかったらしいのよ」
多分、少年の話だろう。
少年の母親は私の母が習っているお花の教室の講師で、習っているのは近所の人が多い。何かあればあっという間に広がる。
(お母さん、私が突き飛ばして池に落としたと知ったら教室に通えなくなるね)
水をひとくち飲む。ふと少年の溺れていた姿が頭をよぎる。苦しかっただろうな、と他人事のように思う。
少年は、池から少し離れた墓地の近くに仕掛けたカブトムシの罠を見に来たと言っていた。その場所から、私が乗っていた車がよく見えたはず。
もしかしたら見ていないかもしれない。
でも逃げるように走る後ろ姿と、私に追いつかれて私を睨みつけた目は、見たと言ったようなものだった。
(なんで死ななかったかなあ……)
ニュースでは発見が早かったから一命をとりとめたと言っていた。周辺には私達以外は誰もいなかったはずなのに。
水を飲み終えコップを洗っていると、電話を終えた母が隣に立った。
「ちょっとせつなくなっちゃった」
母が前置きなく話すのはいつものことなので、返事はせず目線だけ母に向ける。
「時田さんちの一番下の息子さんが慎くんと仲良しでね、慎くんを見つけたのはその子なんだけど、慎くんに呼ばれた気がして池に行ってみたら池の淵に慎くんが倒れていたらしいの」
慎くんと聞いて、ようやく少年の名が慎也だと思いだした。ずっと喉まで出かかっていたからスッキリする。
それに時田さんの息子さんとやらともすれ違った記憶はないから、私の姿を見られていることもないだろう。
(私が突き飛ばした証拠はないし、慎也くんの名前も知っているだけで面識はない。きっと私が見つかることはない)
私は心配事がなくなり、そっと息を吐く。
「でもそのときには既に意識がなくて、それで時田さんちの息子さんが……ねえ、聞いてる?」
「うん」
「その息子さんが、池に慎くんの意識が残っているから意識を取りに行くって騒いでいるみたいなのよ」
切ないわよねえ、と母がくり返した。
(意識が池に残ってる? そんなことあるわけないのに)
♢
翌朝、慎也君の意識は深夜に戻ったけれど、記憶が混乱しているみたいだと、母から教えられた。
そしてまた時田さんの息子の話題になった。
池に記憶があるはずだから、これから取りに行くらしい。
(池には意識があるんじゃなかったっけ?)
子ども相手に意地悪なことを考えている自分が、大人気ないとはおもうが、心のどこかでもしかしたらと疑う気持ちもでてくる。
呼ばれた気がして池に行ったらしいから、不思議な何かがあっても否定できない。
(記憶が戻ったら困る)
♢
夏休みの小学生たちが、池に向かう道に集まっているのが見えた。顔見知りの大人も数人いる。
私は偶然通りかかったふりをして、元同級生に「どうしたの」と声をかけた。
彼らは困り顔で、地面に置かれている水槽に目をやる。水槽には濁った水しか入っていないように見えた。
「何が入っているの?」
尋ねると高学年の子らしき男の子が、私を睨みつけ、「慎だよ」とぶっきらぼうに答えた。多分この子が時田さんの息子だろう。
「慎也君は意識を取り戻したから大丈夫だって言ってるのに、こいつが池の水を汲んできて、ここに記憶が入っているって言い張ってるんだよ」
元同級生から小声で教えられる。
(これに、あの子の記憶が?)
嘘だと笑ってしまえばいいのに、私はなぜか笑えなかった。もし本当なら。
(もし本当なら、それがなくなればいいだけ)
私は水槽に近づき、つまづいたふりをして水槽を倒した。
あー! と子供達が叫ぶ。
私は「ごめんなさいっ」と水槽を戻そうとすると、その手を突然掴まれた。
「僕は今、こぼれた水を通して慎の記憶が見えた。おねえさんが、慎を池に落としたんだね」
「な、何? そんなわけないじゃない」
「誰かと……あ、先生だ、国本先生と車で……それで慎に見られたと思って追いかけた……そして」
どんどん紡がれていく事実に、全身の血の気が引いていく。
(本当に記憶が水に残っているの?)
「おねえさんが……突き飛ばした」
私は膝をつき、こぼれた水を手に触れる。もちろん記憶など見えない。でも全てを知られていた。きっとそこにあるのだろう。
「あなたの言う通りよ。私が突き飛ばして池に落としたの。まさか水から記憶が見えるなんて……」
私は観念して罪を認めた。
そこに、くっと笑い声がする。
時田少年の声だ。
「おねえさんは大人なのに頭が悪いね。そんなことがあるわけないのに」
「え?」
顔を上げると時田少年が携帯の画面をこちらに向けた。そこには私と充さんが抱き合っている姿があった。
「昨日、慎から国本せんせーが不倫してるぞって写真が送られてきたんだよ。慎が携帯を持っているかもしれないって思わなかった?」
「あ……」
写真を撮られているなんて考えもしなかった。
「そのあと、追いかけられてるときは通話を繋げてて、僕は家のある方に逃げろって言ったのに、あいつは途中で携帯を落としちゃって。慌てて兄ちゃんに知らせたんだ」
ふと元同級生が誰か今思い出した。時田正英君だ。この子のお兄さんだったのか。
(そっか。これははじめから、仕組まれていたことだったのね)
私が突きとばした証拠がないから、私に言わせたかったのだろう。
「賢人、変な演技させて悪かったな」
正英が時田少年に声をかける。この子は賢人というらしい。字の通り、賢そうな子だ。
「慎のためだし別にいい」
ぶっきらぼうに答えた賢人が眩しく見える。
(私は人のために何かしたことあったかな……)
自分のために人を殺しかけた私は、なんて醜いのだろう。
「そういえば、ずっと昔にこの池で、不倫を暴かれて激昂した夫が妻を突き落として殺してしまったことがあったらしくてさ」
少し間があいたところで突然正英が語り出した。
「そんな話、あった?」
つい答えてしまう。
元同級生だからなのかもしれない。
「慎也くんが池に沈まずに、池の淵に倒れていた理由を考えていてさ、火事場の馬鹿力で泳いだのか、もしかしたら奥さんの霊に助けてもらったのかもなあって」
「……私を引き摺り込んでくれたら良かったのにね」
呟いてため息をつくと、
――男を連れてくれば引き摺り込んでやるわよ――
と、下の方から女の声が聴こえた。
足元を見ればこぼれた池の水が水たまりをつくり、そこに女性の顔が一瞬映ったが、私は目を逸らし見なかったことにする。
「警察に行って全てを話します」
♢
その後、慎也くんは回復し元気に過ごしていると聞いた。
充さんは、亡くなったそうだ。
奥さんと離婚し、仕事も辞め、他県に越したが、金の無心のために実家に戻った際、私が池の水をこぼした場所で死んだらしい。突然もがき苦しみだしたという。
ただの偶然かもしれない。
でもそこに行けば私も死ぬかもしれない。
そんなことあるわけない、なんて言いきれないから、私はいつかそこに行くために生きることにした。
読んでいただきありがとうございました。