第1話 或る魔王の死
今、魔王が死んでいく。
ああ、ああ、ああ――――。
斬られた部分から溶かされていく肉体。
必死に再生しようと蠢く臓腑。
あらゆる攻撃を耐えうる魔王ドネルにとって、元勇者シンクの手にする一振りの剣だけが脅威だった。その刃で斬られた傷は極めて治りが遅い。並大抵の聖具では毒にもならないが、この剣は猛毒である。
名を『主神降臨剣』。魔宝——魔性の宝物でありながら、聖なる力を宿す光剣。
「Aaaaaaaaaah!!」
魔王は断末魔の声を上げる。
その身体は綺麗に、上半身と下半身に斬り離されていた。
だが、魔王はまだ死なない。上半身だけの状態で、シンクを睨みながら何事かを呟く。
「……say……know……」
それは何らかの魔術を為す詠唱である。
しかし、シンクもこれで攻撃を終わりにしようなどとは全くもって考えていなかった。すぐさま詠唱を阻止すべく、地に倒れている魔王の頭蓋を踏みつける。
衝撃に、鼓膜が破れた。
しかし魔王は諦めない。屍寸前の身体で、空間と距離を惑わす魔性の宝物を起動させる。
魔宝『天照世界門』。光と闇を不規則に発する扉が出現し、ギギギ、と音を立て、自動的に開かれていく。
対してシンクは右足で魔王の脳を圧迫しながら『主神降臨剣』を振るう。魔王の首を掻き斬らんと、輝く刃を走らせる。
一閃。
魔王の首が切断される。
だが、魔王はまだ死なない。首だけの状態で、異界の門より使者を呼ぶ。
「……ジュバンよ」
しかし、一足遅かった。
シンクの剣が翻る。上から下へと縦に弧を描くように振るわれた刃は、魔王の宮殿へと繋がっていた『天照世界門』を破壊する。
◆
うわー最悪だー、と少女は元勇者による惨劇を半ば呆然と見つめていた。
自分を守ろうとした、自分を好きだと言っていた魔王が目の前でシンクに殺し尽くされている。
昼下がりの広大な緑地公園。およそ決戦の舞台には相応しくないだろう場所に血肉が飛び散る。
(——これ、大丈夫なのかな。ヤバくない? うん、ヤバいよね)
この世界——地球から遠く離れた(多分)見知らぬ場所で目が覚めてから、二度目の夕刻を前にして。
(もし、ドネルが死んだら……それで三角関係も終わる——?)
ふんわりとした長い金髪を揺らし、少女は逡巡する。
(いや、やっぱダメだ。これじゃ結局——)
嫌な未来が脳裏を掠め、傍観者となっていた現状から脱し、声を限りに叫んだ。
「いったんストップ! おーい! ダメだってば! こらシンク!! 話を聞けーーーー!!!!」
◆
時は一日と少しばかり遡る。
突如として遠い星——異世界に転送されたのは、祖母の書斎で小鳥を使い魔にするための調べ物をしていた少女だった。
地球上の物理法則を完全無視した超長距離移動の負荷と軽度の落下による衝撃で気を失っていた彼女だったが、本能的に乙女の危機を察知した。
「…………」
うっすらと瞼を開けると、間近にリムレスなメガネをかけた少年の顔がある。
そのまま、温かな吐息がかかり——
「!」
あと数センチで唇が奪われるという状況。理解こそ追いつかないが、ギリギリの崖っぷちでぱっちりと目を見開いた。そして反射的に右手が動く。
「きゃーーーー!?」
渾身の平手打ちは、運命のように炸裂した。
悲鳴と快音、そして断末魔が森に木霊し、鳥たちが木々から空へと逃げる。
そこで上体を起こした少女は、ここが森――まったく見覚えのない、森の中だと思い知った。
「え? え?」
キョロキョロと辺りを見回す。先日染めたばかりの明るい金髪がさわさわと揺れる。高校の制服——スカートは際どくめくれており、慌てて伸ばして整えた。
——目の前では。
頬を抑えて少年が恨めしそうに訴えている。
「…………痛い」
知らない顔だった。
「アズを迎えに来ただけなのに」
知らない声だった。
「………………って、え?」
まず少女——蜂泉梓希が抱いたのは痴漢か? という警戒だった。
(でも、今アズって——)
名前を知られていた。
(前に会ったことがある? てかキスしようとしてたよね……?)
混乱の中、そっと優しく、少年に手を握られる。歳の頃は同じくらいだろうか。
「いやー、冗談だからね? それだけ会いたかったってことで」
軽口だけに真偽のほどは定かでないが、それ以前に梓希には何も分からない。
(いやまって。だれですか。そもそもここは——)
——ズキリ、と一瞬、頭が痛む。脳の内側から来るような痛みは、何か記憶の欠落じみた不安を抱かせた。そして右掌も少しだけヒリヒリする。けどこれは今の平手の代償か。
梓希は少年をきっと睨んだ。無造作に散らかった赤髪。頬もうっすら赤く、スクエア型のメガネがずれているのが間抜けだ。ついでに言うと服装もちょっとヘン——オレンジを基調としたレスキュー隊のような——あまり見かけないファッションをしている。
「…………あの、初対面、ですよね?」
流れで握手してしまったが、聞かずにはいられない。
「———え」
「初対面、ですよねえ!?」
梓希の有無を言わさぬ圧力に。
「もしかして……忘れてる?」
少年が寂しげな目で言った。
「そ、そんな涙目で見ても——」
憂いを帯びた瞳に、梓希は一転してたじろぐ。
(痴漢のくせに、そんな目しちゃってー! あたしが悪いみたいじゃんか。いや、ビンタはしたけどさ——)
一人煩悶する梓希。少年は構わず、
「――――あ」
一音発し、突然立ち上がった。左手は頬にあてたまま。
「?」
離してもらえず握られていた手を引かれ、梓希もまた腰を上げる。
「ちょっと充電」
少年は梓希を一度ぎゅっと抱きしめて、
「え、なに……?」
すぐに離れた。その右手には柄だけで刀身のない剣のようなものが握られている。
——いや、それは剣で間違いない。一瞬の抱擁にフリーズしていた梓希だったが、それが剣だと知っていた。
(あれ、なんだろう。あたしは何かを、知っている——?)
不穏な風に誘われ、周囲を見渡す。
森の中を蛇行する、大人二人が横に並んで歩けるくらいの遊歩道。梓希が気を失っていたのは、その道端だったようだ。
その歩道から外れた先。
右前方の木陰へと、少年が警戒の眼を向ける。
「——感動の再会に水差しやがって」
濃密な魔の気配が。
その時、魔獣となって現れた。
◆
それはいわゆる『人狼』であった。完全二足歩行を体得した狼とでも言うべき存在であり、体型は成人男性のそれに近い。
梓希と少年の前方十数歩の位置では、厭らしくニヤニヤしている――ように見える、一匹の人狼が牙を剥いていた。ぎしゃあ、と大きく口を開き、涎を赤茶の大地へとだらしなく垂らし続ける獣の貌は、醜悪なことこの上ない。
その獣の視線を受けて、梓希は漠然と考えた。あれを使ってしまおうかと。あれさえ使えば、目の前で大口を開けている相手にも十分対抗できるはずだと。
直面している状況だけ見れば、泣き叫んでも決して謗られることはないだろう。鬱蒼と草木が茂る人気のない森の中、青銅色の獣毛に覆われた鋼の肉体と獲物を切り裂く爪と牙、そんな物騒なものを持った悪意ある人狼と対峙しているのだから。
――生命の危機。それは間違いないはずだ。しかし、確かに危険極まりないシチュエーションではあるが、恐怖感はあまりない。少年が携えている剣に加え、自身の半身の疼きが錯覚でない以上、相手が誰であろうと恐れるには値しない。
そう、この半身に縫い付けられている、あれを行使しさえすれば――。
しかし、梓希の意に反し。
結論から云うならば、梓希の仮定はこの時、遂に実現しなかった。
梓希はそれを行使できなかった。
なぜならば。
この戦闘において。
梓希がそれを使う機会は、全く訪れなかったからである。
――殺戮が、始まった。




