プロローグ
はるか彼方の空から、鋭く長い音が聞こえている。
今日という日にも、やはり"鐘"の音は鳴り続けていた。
海は不気味なほどに静まり返り、大気は忠実にその音を伝えている。
腰と両手で触れている岩場も、表面をこするとすぐに崩れる。指先にこびりついた砂をそっと吹くと、簡単に飛び散って、あたりに浮かんだ。まるで埃のように、弱弱しい消え方だった。
"鐘"の音は、やはり世界のありとあらゆる場所を、余す所なく覆いつくしている。
それは鼓膜を引き破り、脳髄の奥まで侵しつくそうとするような、不快な響きだった。ただひたすらに不快なその音は、不快というだけで十分に人を殺す力を持っている。殺そうとするまでもなく、鐘の音はそうなるのが摂理だというように、易々と人を屠り続けていた。
もう何十年もそれが続いている、らしかった。
そんな音に聞き入っていれば――そう遠くない未来に、自分は死ぬだろう。
というか、いますぐに"鐘"の聞こえない場所へ行かなければならなかった。まだ、死ぬときではないのだから。
「よい、しょっと」
少女は立ち上がり、足や尻についた砂を払った。体がだるかったので、その動作も、大層のろのろとしている。
十分。
やはり、それが生物に耐えられる限度だった。"鐘"の奏でる魔の幻想曲のなかに、生身で浸かっていられるのは。
今日は記録を更新しようと、いつも以上に粘っていたが、もはやここが限度だった。
「ううっ……」
少女は、意図せず漏れ出たうめきを、止められなかった。
体中の骨が、あの岩のように、細かく砕けてしまうかもしれない――それは思い過ぎだったが、しかし全身の痛みは激しかった。ぎりぎりと、いやな音すら立てて腰や背中の骨がきしむ。
(ちょっと、やりすぎたかも)
夕日に照らされた、あの真珠のような海を見ながらでなければ、とっくに精神が崩壊していたかもしれない。そう少女は確信した。
いつか、あの海の中で泳げたら。
少女はまた、そんなことを考える。
いや、ほんの一瞬、手で触れるだけでもいい。
そこで感じられるのは何なのか。
生ぬるいのか、ひんやりしているのか。濁っているのか、澄んでいるのか。波の寄せる感触は、いったい何に似ているものなのか。跳ねる水滴は、輝いているのだろうか。潮風の匂いは、鳥の群が発する鳴き声は。
そんなことができたらと、何回まくらの上で思ったことか知れなかった。母なる海、命のはじまりの地には、ひょっとしたら、あの音を打ち消す力があるかもしれない。魚のように飄々と海中に潜れば、何もかも忘れられさせてくれるかもしれない。
(やっぱり無理な話、か)
現実には、"鐘"の容赦のない断罪により、あらゆる水棲生物はその数を激減させていた。音の届きにくい深海には、わずかに生き残りが居るという。どちらにせよ、人以外の生き物は、ことごとく遠い世界に旅立ったというわけだった。
少女は盛大にため息をついた。やるせなさに、肩がガクンと落ちる。
憎しみを感じられるほど、少女は気丈になれなかった。ただ、胸の奥から何かが消えていくような、空寒い感触を覚える。
彼らには何の非もない。責めを負うべきは、すべてあの"鐘"のほうなのだ。
少女は恐怖に抗って、視線を転じた。
遠い空に浮んで見える、巨大な円。
赤く沈もうとする太陽の傍らで、ますます存在の領域を拡大していく、もう一つの星がある。
帝国軍の惑星兵器。
月と同様、自分自身では光を発していない。その星が持つのは、太陽の光を受けた、かりそめの輝きに過ぎないのだ。しかし、あまりに質の異なった不気味な光を放っているように、どうしても感じてしまう。
「あんなののせいで、わたしの故郷は……」
少女は一語一語かみ締めるように、ゆっくりと呟いた。そのようにしたのは、あまりの痛みに筋肉が引きつったからだった。
"鐘"と呼ばれるその星は、まったく動かないままそこにある。それだけで、なにも破壊をもたらしているようには見えない。ただ、生き物の命を猛烈に吸いとって、力を増していくように見えた。黒みの混ざった朱に染まっていく世界にあって、"鐘"のみが輪郭をはっきりとさせている。
一方で、少女の体は疲労に蝕まれていた。膝ががくがくと震え、座り込みそうになる。
しっかりと立ったままで、鐘に一瞥をくれてやることすら、まともに出来はしないのだ。
少女は、髪の毛の奥がかっと熱くなるのを感じた。その熱さをどうしようもなく、ただ実用的に呟くということだけをする。
「さてと、早く帰んなきゃ。みんなが心配するし……」
ふらふらと揺れる体をどうにか制御しつつ、少女は振り向く。しわの寄った服を撫でて元に戻し、スケッチブックの入った鞄を肩に抱えた。
海に向かって一言だけ付け加え、足早に歩き出す。
「またね」
そうして少女は、歪んだ地上を後にした。一つの感懐だけを持ち去って。




