ただの庶民にスパイは難しい
人は非業の最期を遂げると悪鬼になると言い伝えられているが、鬼とはきっとこんな顔をしているのではないかと目の前の人を見て思った。
「それで? おまえは三日間ずっと書閣に籠っていたのか」
「だっていくら書物を運んでも終わらないんですよ……!」
女官になり四日目。
報告のため、私は早朝から後宮の西側にある竹林までこっそりとやってきていた。
この竹林は私の宮から近く、人がほとんど通らないので密会にはもってこいの場所である。
仁蘭様は皇帝陛下の側近であると顔や名が知られているので、私たちを会うときは紅家出身の四妃、春貴妃様への遣いを口実にしていた。
「おまえは自分の役目がわかっていないのか?」
鬼上司様は私からの報告を聞き、世にも恐ろしい顔で睨みつけてくる。
「教育された間者じゃあるまいし、いくら何でも三日で美明さんの情報を掴むのは無理です」
流千も「まぁまぁ」と言って仁蘭様を宥め、私を庇う。
私は弟の背に隠れながら、必死で言い訳をした。
「食堂で会った宮女たちには、それとなく聞いてみたんですけれど……」
喜凰妃様の宮に仕える女官たちは、私が挨拶をしても一言も返してくれず、一睨みするだけだ。
だからまずは声をかけやすい宮女たちに話を聞いたのだ。
「美明さんの存在は覚えていても、名前まで把握しているっていう人はあまりいなくて」
「でも行方知れずになったことは知られているんだよね?」
流千が不思議そうに尋ねる。
私はこくりと頷いた。
「宮女たちは『いなくなった女官はきっと駆け落ちしたんだろう』って言っていました。管理局の報告通り、自分の意志でいなくなったと思っているようです」
後宮で働く女たちは、その大半が生涯を後宮の中で終える。
運よく誰かに見初められれば結婚して後宮を出られるけれど、千人を超える宮女の中でそうなるのはごく一握りで、将来を悲観して失踪する人はこれまでにもいたそうだ。
「今はどこかで幸せに暮らしているじゃないかって、宮女たちはまるで憧れているみたいな様子でしたよ」
宮女は文字が読める者も少なく、生家と文でやりとりをすることもままならない。耳で聞いて覚えた歌を口ずさむか、後宮の噂話に花を咲かせるのが彼女たちの楽しみなのだ。
女官の失踪は恋物語の一つになっていた。
「彼女たちは、本当のことなんて知りたくないのかもしれません」
食堂で話した彼女たちの顔を思い出すと、美明さんは誰かと幸せに暮らしているのだと信じたいという気持ちが強いように感じられた。
「いなくなった人を探さないのは、真実を知るよりも夢物語に浸っていたいから……ってことかな」
気持ちはわからなくもない……と流千は呟く。
この三日間で私が知ったのは、後宮はまったくの別世界ということだった。
妃として三カ月も暮らしていたのに、私はここで生きる人たちのことをほとんど知らない。いや、知ろうとしていなかったのだと気づかされた。
「四妃様たちのことも聞きました。仁蘭様もご存じのことばかりかとは思いますが、喜凰妃様は皇帝陛下が訪れなくても後宮をまとめようと心を砕いていらっしゃいます。慰めになればと茶会や宴を催したり、ほかの三人の妃方に文を出してご様子を窺ったり。皇帝陛下がいつお越しになってもいいように、毎夜の支度も欠かさず続けておられて……」
私と流千のように「皇帝陛下を召喚しよう!」などと無謀なことはせず、ただひたすらに皇帝陛下を待っていた。
それを聞いた流千が首を傾けながら尋ねる。
「紅家の春貴妃様は、この状況をよしとなさっているのですか?」
四妃の一人、春貴妃様は昨日の朝に偶然そのお姿をお見掛けした。波打つような深い青の髪が美しい方だった。
仁蘭様は淡々と答える。
「春貴妃は変わり者だからな。皇帝陛下が訪れないことをわかった上で後宮入りしたいと切望したのだ。部屋に籠って絵を描く生活がしたいと」
「絵を?」
誰かに嫁げば、跡継ぎを産み、家を取り仕切る役目を負うことになる。けれど、皇帝陛下が訪れない後宮でなら絵を描いて暮らせるのだから願ったり叶ったりである。
生まれたときから後宮入りすることは決まっていたそうだが、春貴妃のご両親は陛下が後宮にいらっしゃらないことを知っていたため「本当にいいのか?」と尋ねたところ、ご本人の口からそれが語られたらしい。
実際に今の暮らしを満喫しているので、後宮に変化が訪れるのは願っていないとのこと。
仁蘭様も紅家の一族も「本人がそれでいいなら」と、口出ししないことを取り決めたという。
私は恐る恐るずっと疑問に思っていたことを口にする。
「あの……どうして皇帝陛下は誰のもとへもいらっしゃらないのです? 集められた妃たちが哀れだと思わないのでしょうか?」
余計なことだとわかっていても、尋ねずにはいられなかった。
美明さんのことは捜そうとする陛下が妃たちを無慈悲に放置するとは思えない。
皇帝陛下に直接会える仁蘭様なら、何か知っているはず。
でも彼は何の感情もない目で答えた。
「おまえは自分の寝首を搔くかもしれない女のもとへ通えるのか? 妃は、庶民でいう『妻』ではない。情に流されていい関係ではないのだ」
「そんな……」
「それに、皇帝陛下は即位の儀で『妃はいらぬ』とおっしゃられた。『自分の後は弟皇子が継ぐ』とも明言なさっている」
「えっ、そうなんですか!?」
私は目を見開いて驚く。
後宮入りしたとき、誰もそんなことを教えてくれなかった。
弟皇子様は確か十歳。まだ帝位を継げるような年齢ではないが、いずれはということか。
「それなら最初から後宮なんていらないじゃないですか」
流千が不満げにそう言う。
「後宮は陛下が望んだものではない。陛下の意向を知った上で娘たちを後宮へ送り込んだのは貴族家の当主たちだ。自ら志願して後宮入りした者たちも『いずれは……』と期待しているのだろうが、こちらの知ったことではない」
仁蘭様はそう言ってから小さなため息をついた。
その表情から、後宮に関して行われる宮廷で議論に嫌気が差しているように見えた。
「陛下も増え続ける妃たちをどうにかしなければとお考えだが、後宮そのものを廃してしまえばいらぬ敵を作ることにもなりかねない。今はほかにやらなければならないことが山ほどある。妃には耐えてもらうしかないだろうな」
皇帝陛下といっても、何もかも思い通りになるわけではないらしい。
「私は何も知りませんでした」
庶民の私たちには、知らないことが多すぎる。
皇帝陛下のことも宮廷の事情も……。
「皇帝陛下は子を持つおつもりはないのですか?」
「そうだ。宮廷では誰もが知っている」
なおのこと後宮にいるお妃方が不憫だった。
春貴妃様はともかく、方々はいずれ子を産みたいと希望を持っているかもしれないのに。
陛下を待ち続けて、ずっとこの狭い世界で暮らしていくの?
「采華、この方に訴えかけても無理だよ。仁蘭様は女心に疎そうだし」
流千が私の肩にぽんっと手を置き、可哀想なものを見る目を仁蘭様に向ける。
仁蘭様は、女心など知って何の役に立つのだとでもいう風に鼻で笑った。
この方も陛下と同じで妻子を持つつもりはないのだろうか?
仁蘭様は二十三歳、名家のご次男ならいくらでも縁談があると思うのに結婚とは縁遠そうな雰囲気を感じる。