世にも美しいお妃様
与えられた部屋に少ない荷物を置き、年配の宦官に連れられて喜凰妃様へのご挨拶に向かう。
日当たりのいい南側の廊下を通りすぎ、東側の奥の部屋にやってくると爽やかな新緑を思わせる香のにおいがした。
こんな場所で人がいなくなるんだと思うと、何だか信じられない。
「失礼いたします。新しい女官を連れてまいりました」
宦官が声をかけると、黒い大きな扉がゆっくりと開かれる。
部屋の奥には貴重な夜光貝がはめ込まれた螺鈿細工の椅子があり、そこには濃茶色の長い髪をすっきりと結い上げて八本の金の簪で飾った美しい人がいた。
艶やかな赤色の襦裙がよく似合っていて、下級妃とは漂う気品が明らかに異なる。
この方が喜凰妃様……! こんなにきれいな人は見たことがない。
肌はみずみずしく輝いていて、昔一度だけ見たことのある真珠みたいだった。後宮妃の中では最も年上の二十六歳だが、世の中には美貌がまったく衰えない人がいるのだと驚く。
「本日より女官としてお仕えいたします、宋樹果と申します」
貧乏貴族家からやってきた新米女官、宋樹果。それが今の私である。
年齢は十七歳で、持参金がなく縁談に恵まれないために後宮へ働きに来たという設定だった。
実際にこういう事情で働きに出る娘は多いらしい。
私も一応は後宮妃だが、范家に留まっても借金だらけで婿も取れないだろうし家族を置いて嫁に行くこともできないし、本当は存在しないこの宋樹果という偽女官にとても親しみが湧いた。
「よく来てくれたわね、樹果」
喜凰妃様はにこりと穏やかな笑みで迎えてくれた。
私が諜報活動をしに来ただなんて微塵も疑っていないように見える。
詳しくは教えてもらえなかったが、美明さんは喜凰妃様と孫大臣の不正の証拠を見つけるために潜入していたと仁蘭様からは聞いていた。
ただし喜凰妃様はその美貌だけでなくお心の美しさでも多くの者から慕われていて、後宮妃たちの憧れの的らしい。ここに来る途中、案内してくれた宦官からその話を聞き「喜凰妃様にお仕えできるなんて運がいい」とも言われた。
仁蘭様によれば、父親である孫大臣は兵部の統括の任に就いていて、昔から政敵を呪ったり違法な手段で金儲けをしていたりと黒い噂が絶えない人物だというのに……親子で随分と異なる評判である。
喜凰妃様は私がそんなことを考えている間もにこにこと微笑んでいて、新しい女官が増えたことを純粋に喜んでいるみたいだった。
こんな優しそうな方が自分に仕えていた女官が失踪しても捜さないのかと思うと、複雑な気分になる。この方もまた「使用人など代わりはいくらでもいる」と考えているのだろうか?
それとも美明さんの失踪に直接拘っているの?
騙し合いや腹の探り合いは苦手なんだけれど……。
私は不安が顔に出ないよう、必死で平静を装い笑顔を保つ。
「新しい子が来てくれて嬉しいわ。人手が足りなくて困っていたの。あぁ、でも無理はしないでね? 慣れるまではここにいる皆を頼って、少しずつ覚えていってちょうだい」
「ありがたきお言葉にございます」
私は深々と頭を下げる。
まずは、喜凰妃様や女官たちから疑われないようここに馴染むことから考えよう……と思っていると────。
「喜凰妃様のためにしっかり務めなさい。甘えは捨て、心からお仕えするのですよ」
そう声をかけてきたのは女官長だ。四十歳くらいで、とても厳しそうな雰囲気だった。
彼女の後ろには、八人の女官たち がずらりと並ぶ。
最もこちらに近い黒髪の女官は新人になど興味がないといった風に澄ました顔で立っていて、そのほかの七人からは射るような視線が向けられていた。
朗らかな喜凰妃様とは異なり、敵意がひしひしと伝わってくる。
女官は貴族出身か、庶民でも読み書き計算を習得しているくらいには裕福な者にしかなれない。
雑務を行うその他大勢の宮女より位が高いため、自尊心も強いのだろうと想像する。
私はここに馴染めるのかしら!? もうすでに苦労する気配しかない。
喜凰妃様は好意的でも仕える女官たちの目は厳しく、皆で仲良く和気あいあい……とはいかなさそうだった。
隙を見せたら終わりだ……! そんな気がした私は、大きめの声で返事をした。
「はい! 精一杯、お仕えいたします!」
すると、喜凰妃様のそばにいた高齢の仙術士の方が目尻を下げて言った。
「ははは、これは元気がいい娘だ」
「ええ、宮が一段と明るくなるようですわ」
こちらの禅楼様は、長らく孫大臣のそばにいた仙術士で喜凰妃様が後宮入りする際に共にこちらへやって来たという。
薄灰色の上下二部式の袍服姿で真っ白い髪を後ろで一つに束ねていて、目尻だけでなく顔全体の皺が深く六十歳は超えている風に見える。
ただ者ではない雰囲気はあるものの、笑った顔はごく普通の優しいおじいちゃんといった印象だ。
人は見た目に寄らないというけれど、この人が実は悪人でした……とわかったら人間不信に陥りそうだった。
流千曰く、『真面目な仙術士はずっと山に篭っていて宮廷勤めなんてしない』そうで、簡単に信用するなと念を押された。
「わたくし、元気な子は好きよ。先が楽しみに思えるもの」
「そうですなぁ」
笑い合う二人のあまりにほのぼのとした空気にうっかり絆されそうになるけれど、「油断しちゃだめ!」と私は笑顔の下で気を引き締める。
そのとき、禅楼様とふいに目が合った。
「……そなた、わずかだが神力を感じるな」
「え?」
どういうこと? 私には神力なんてないはずなのに。
きょとんとしていると、禅楼様は私の前まで歩いてきてまじまじと観察し始める。
「まぁ、樹果には神力があるの? すごいわ」
喜凰妃様が両手を合わせて嬉しそうな声を上げる。
同時に、女官たちからの視線がより鋭くなったのは気のせいじゃない。
神力はほんの一部の者しか持っておらず、選ばれし存在だとして一目置かれることになる。何より喜凰妃様にすごいと褒められたことで、女官たちの嫉妬心に火がついたようで恐ろしかった。
私は気まずさに視線を落とす。
「これはいい。わずかでも神力のある者がそばにいれば、喜凰妃様の運気が上がるかもしれません。よい女官を手に入れましたな」
禅楼様はそう言うとくるりと踵を返し、また喜凰妃様の隣に戻っていった。
「そうだわ。運気といえば占いで……」
話題は喜凰妃様の新しい羽織りのことに移り、新米女官の挨拶はこれにて終了となる。女官たちは私を一睨みしてからそれぞれの仕事に向かい、私の前には女官長がやってきた。
年齢は四十代前半で、険しい表情で私を見下ろしている。
「あなたが役に立つかどうかはわからないけれど……今日は力仕事でもやってもらおうかしら? 運んでもらいたい物があるの」
口調は冷たく感じるものの、自分にもできそうな仕事にホッとした。
「はい、できます。運ぶ物は水ですか、土ですか? それとも食材や薪でしょうか?」
「は? そんな物を運ぶわけないでしょう? 書物よ、書物」
想像した力仕事と違った。さっそく庶民と女官のズレが出てしまう。
女官長によると、年に一度の書閣の整理に人手がいるらしい。女官たちがくすくすと笑いながら「可哀想に」と言った声が聞こえたので、どうやらこの作業は嫌がられる仕事のようだ。
でも、私にとっては堅苦しい礼儀作法がいらない力仕事の方がありがたい。
「ありがとうございます。がんばります」
女官生活は始まったばかりだ。調査のためにも、まずはきっちり仕事をする姿を見せて信頼を得ていきたい。
私は笑顔で書閣に向かい、陽が落ちるまで書物の整理に精を出した。