鬼上司からは逃げられない②
「では、またな。今度はゆるりと茶でも飲もう」
「わかりました。特製の茶葉を用意しておきます。玄苑様と美明さんとご一緒できる日をお待ちしております」
私が笑顔でそう言うと、仁蘭様が呆れた声で「陛下におかしな物を飲ませようとするな」と嘆く。
しまったと思ったものの、玄苑様は楽しみにしていると笑顔で告げて去っていった。美明さんも少しだけ微笑んでくれたので、私の出すお茶を飲んでくれるつもりなのだとわかる。
扉が閉まり、この部屋にはまた私と仁蘭様だけになる。
そういえば「またな」と玄苑様はおっしゃった。皇帝陛下が街へ出ることはさすがにないだろうから、私はもうしばらくここにいるということなの?
それに皆でお茶を飲むにしても、下級妃でなくなった私があの宮へ戻ることはない。
「私って今後どうなるんですか? 范家に帰れるんでしょうか?」
女官たちの身の振り方を心配している場合ではなかった。
家に戻れるのは嬉しいけれど、そうするともうこの方には会えないわけで。それを残念に感じる自分に気づく。
「采華」
「はい」
呼びかけられて反射的に返事をする。
こちらを見つめる真剣な目にどきりとした。
「おまえはこちらの情報を知りすぎた。だから外へ出せない」
「知りたくなかったのに!?」
「というのは建前で、俺が采華を欲しい」
「……は?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
取引は終わったはずで、もう一度女官として欲しいってこと?
でもそれにしては距離が近いし、こんな風に恋人みたいに腕を回されると特別に想われているんじゃないかと思ってしまう。
「それはどういう」
戸惑いながら尋ねたとき、少し冷たい唇が私のそれに重なる。柔らかな感触はほんの一瞬でも、驚いて息を呑んで固まってしまった。
瞬きすら忘れて硬直する私に、仁蘭様は尋ねる。
「俺がおまえを欲しいと言っただろう? おまえは嫌なのか?」
「本気ですか?」
仁蘭様が私を?
からかってこんなことをする人ではないとわかっていても、何かの間違いじゃないかと疑ってしまった。
「俺は本気だ。質問に答えてくれ」
まっすぐな瞳に胸が苦しくなる。
悲しくないのに泣きそうになり、振り絞るような声で返事をした。
「嫌じゃないです……。だって私は仁蘭様を……」
好きになっていた。
その一言が言えずに俯くと頬に大きな手が優しく触れ、甘い声で名を呼ばれる。
見上げれば、仁蘭様は困ったように笑っていた。
「よかった。嫌だと言われたらこのまま寝所へ引きずり込んで既成事実を作ろうかと思っていた」
「何てことを考えているんですか!? そんなの私に選択肢なんて最初からなかったんじゃありませんか!」
とんでもない鬼に捕まってしまったのでは?
どうか冗談であってほしい。そう思いじっと見つめるけれど、にこりと笑ったその顔からはどう見ても本気だったとしか思えない。
再び仁蘭様のお顔が近づいてきたところで、私はぱっと手を前に翳しそれを阻止して質問した。
「もしかして、私ってそれで妃をクビになったんですか?」
「そのようなものだな」
「行動が速すぎませんか? あっ、このこと流千は……?」
「知っている。そもそもあいつは俺の出自についても勘づいていたし、俺が采華と結婚するつもりだと告げたらすぐに承諾した」
仁蘭様は数日前に流千に会い、すでに了承を得ていた。
流千は笑顔で「それは素晴らしい縁談ですね!」と言い、そして────。
『僕を宮廷お抱えの仙術士にしてくれるなら姉は喜んで差し上げます』
と取引を持ち掛けたらしい。
「売られた!」
また勝手に交渉して! しかもここへ会いに来たときもそんな話は一言もなかった。
毎日のように顔を出していたくせに、仁蘭様が私に話すまで何も言わなかったのだ。
「結婚について何も言われなかったのか?」
「はい、まったく」
「おまえの弟は、己の利が絡んでいると口が堅いな。これからも働いてもらうとしよう」
「感心することですか……?」
流千は神獣様と常に行動を共にしていて、宮廷では『猫を連れた仙術士』として有名になりつつあると仁蘭様から聞いた。
悩める官吏たちを相手に、相談役の地位を確立するのもそう遠くないかもしれない。
神獣様に気に入られた仙術士を手元に置けるのは、仁蘭様にとって悪くない話だろう。
「でも私の結婚について決めるのは范家の父ですよね? 家を継ぐ気もない息子が『姉を差し上げます』ってそんなの許されるんですか?」
流千はその立場にないはず……と首を捻る私に、仁蘭様は悪い顔で囁く。
「范家当主は了承済みだ。今、おまえが逃げないということは承諾したものとする」
「この状況でどこへ逃げろというのです!?」
「言ったはずだ。俺はおまえを諦めるつもりはない、と。あぁ、それに寂しいとロクなことにならないから気を付けろと言ったのはおまえだからな? 責任は取ってもらおう」
どうあがいても逃げられない。
私がこの人のものになるのは、すでに決まっていた。
呆れるほどに手際がいい。
「そんなに私が好きなんですか? いないと寂しいくらいに」
困った人ですねと冗談めかして言ってみた。
すると彼は真顔で答える。
「そうだ。おまえが好きだ」
「!?」
「だからおとなしく妻になれ。俺が死に急がないように帰る場所になってくれ」
どこもかしこも囲い込んでからの求婚。それはとても仁蘭様らしいやり方だった。
そもそも最初から逃げる気なんてなかったのだ。
すべて仁蘭様の思い通りになっていることが悔しくて素直に認められないだけで、本当は離れずに済むことが嬉しくて、顔が緩んでしまいそうなのを堪えているくらいなのに。
私は仁蘭様の胸に飛び込み、今度ははっきりとした声で「はい」と答えた。
「絶対に帰ってきてくださいよ?」
仁蘭様から「おまえは目を離すとすぐに何か起こす」と言われたことがあったけれど、私からすればこの人もそのようなものだ。
ずっとそばで見張っておかなければ、また薬が必要なほど働きすぎる可能性がある。
ぎゅっと抱き締めれば、彼もまた同じように強く抱き締めてくれた。
「仁蘭様と結婚するってことは、私はもう二度と女官には戻らないんですよね?」
「あぁ、そうだ」
「わりとお給金のいい仕事だったのに……」
店を救ってもらったとはいえ、范家にお金がないことには変わりがない。
結婚といえば庶民でも物入りである。貴族である仁蘭様の妻になるなら、一体何がどれほど必要なのか想像もつかなかった。
あれ? 店を手伝っていたせいか急に現実的なお金の話が気になりだした……。
私はそっと腕を緩め、深刻な顔で呟く。
「持参金を稼ぐにはどうすれば? あの、仁蘭様の許可があれば何してもいいんですか?」
「何する気だ!? 頼むから危ないことはもうやめてくれ!」
眉を顰めて焦る仁蘭様を見て、私は思わず笑ってしまった。
私を女官として放り込んだのは誰だったかな。
鬼上司だった仁蘭様が慌てるのが嬉しくて、ずっと見ていたいくらいだった。
ただし、彼はそんなに甘くなかった。
「おまえは本当に何もわかっていない」
「えっ」
「俺がどれほどおまえを想っているか、わからせる必要があるらしい」
「ちょっ……待ってください!」
すみませんでしたと謝ろうとしたものの、それより早く仁蘭様が私のことを肩に担ぎ上げる。
急に体がふわりと浮いて、私は必死の形相で彼にしがみつきながら叫んだ。
「どこへ行くおつもりですか!?」
何となくわかるけれどわかりたくない!
結婚が決まったとはいえまだ早い気がする!
「今さらだろう? すでに一度寝台を共にしたのを忘れたのか?」
「それは語弊があります」
召喚した直後のことを言っているのだとすぐにわかった。
あのときはただ争っていただけですよ!?
「はっ、もう諦めろ」
あぁ、仁蘭様はやっぱり仁蘭様だ。
私の抵抗など無意味だとばかりに鼻で笑うと、本当に寝所へと入っていく。
今朝まで私が借りていた寝所だから知らない場所ではない。でも二人きりになると緊張で頬が引き攣った。
収まらない鼓動をどうにかしたくて大きく息を吸うけれど、ちっとも思い通りにいかない。
「あの! 仁蘭様はこれからお仕事が……んんっ」
寝台に押し倒され、唇を塞がれてはどうすることもできない。
髪を撫でる大きな手が優しくて、強引なのに愛されていると実感してしまって逃げられなかった。
「今日は休みだ」
「正装なのに?」
「これは……求婚するならそれなりの姿でいなければと……」
理由を話しながら、自分でも矛盾に気づいたらしい。
正装までして求婚したのにこうして強引に寝所に連れ込んでいるのか、という矛盾に……。
「ふふっ」
急にかわいらしく思えて、私は仁蘭様の頬に右手をかける。
恋をするということは、何も言わずにただ見つめているだけで幸せなんだ。
「……何だ?」
「いえ、何も」
これからも一緒にいられるのだと思うと喜びが込み上げる。
少し照れながらも笑みを浮かべれば、仁蘭様も目を細めて笑った。
「好きです」
「っ!」
彼の赤い髪も、仕草も、声も何もかも愛おしく思えてきて、私は衝動的に彼の首元に腕を回してぎゅっと抱き締める。
けれどそれはこの状況では不利にしか働かなくて────。
「おまえのせいだ」
「えっ」
私を見下ろす瞳は熱を帯びていて、目が合った瞬間にさらに鼓動が速くなる。
あぁ、もう逃げられない。でも、それでいい。
再び仁蘭様の顔がゆっくりと寄せられて、私はそっと目を閉じた。




