鬼上司からは逃げられない①
「范采華。本日付で下級妃の位を破棄する」
「え」
あれから七日、私は仁蘭様により宮廷の一角に軟禁されていた。
与えられる物はどれも四妃並みの高級品で、衣服も靴も簪も何もかも用意された上で部屋に閉じ込められている。
かなり恵まれた監禁状態である。
会えるのは流千と神獣様、それに私の世話をしてくれる”本物の史亜さん“だけ。私をここへ連れてきた張本人の仁蘭様とはこの六日間まったく会えなかった。
今日は来てくれるだろうか、会ったら何を話せばいいのか、など毎日毎日同じことを考えて期待して──もうしばらく会えないのだなと諦めた頃に彼はやってきた。
初めて見る黒い長衣に薄青色の羽織姿は高貴な方々の正装で、緊張からまっすぐに目を見られなかった。そんな私の目の前で、手にしていた巻物を広げて読み上げられたのがさきほどの決定だ。
「それはつまり?」
「クビだ」
「!?」
いきなりの宣告に私は目を見開く。
「クビ!?」
何度聞いても同じで、結果は覆らない。わかっていても、突然のことに動揺した。
「待ってください、私けっこうがんばりましたよね!? そりゃあ……よくないこともたくさんしましたけれど、范家のことが片付かないうちにクビだなんて! それに仁蘭様、まだ仕事があるっておっしゃっていませんでした!?」
持っていた丸い扇を折れそうなくらい強く握った私は、興奮気味に訴えかけた。
でも仁蘭様は残酷で、なぜか嬉しそうに意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「それとこれとは話が別だ。まずは下級妃の位を取り消す、これは決定事項だ」
「そんな! 人のことを何だと思っているんですか! 仁蘭様の鬼!」
全身に力を込めて叫ぶ私。
仁蘭様はさっきからずっと笑っている。
何がそんなに面白いのかと怒った私は、彼に一歩近づき詰め寄った。
「妃をクビになったら、どうやって皇帝陛下に嘆願したらいいんですか!?」
現状、女官としての五か月分の給金をもらえたものの、実家のことが何一つ解決していない。
尚薬局からの返事もないままで、これでは范家が潰れてしまう……!
羽織りに掴みかかる勢いで訴えると、仁蘭様は私の手を握って言った。
「話は最後まで聞け。范家のことはすでに尚書省から手を回し、騙した伊家については尚薬局への賄賂および虚偽の報告をした罰として財産も何もかも差し押さえた」
「え……?」
「おまえの家は無事だ。今まで通り、薬屋を続けられるし伊家への借金も消えている」
信じられない気持ちで仁蘭様の顔を見つめる。
その目に嘘はなく、何もかも望んだ以上の結末を迎えたのだと理解できた。
「本当に……? よかった」
もう大丈夫なのだと思ったら、急に力が抜けてしまう。
へなへなとその場に崩れ落ちそうになった私は、仁蘭様が咄嗟に伸ばした腕に抱き留められた。
「しっかりしろ」
「すみません、でも気が緩んでしまって」
范家のために後宮入りして、危険なこともどうにか乗り越えてきたのだ。
念願が叶ったと思ったら嬉しくて目に涙が滲んだ。
「こちらとしてもよい薬を作る者たちは守りたい。国のためになるからな。陛下は范家のこれからに期待するとおっしゃって、支援を約束してくださった」
「陛下が」
私が嘆願するまでもなく、何もかも仁蘭様が手を回してくれていた。きっと、取引をした最初の頃から……。
「ありがとうございます、仁蘭様。心から感謝いたします」
涙ながらにそう言うと、私を支えてくれていた腕に力がぐっと篭って引き寄せられる。
心臓がどきんと大きく鳴り、思わず息が止まってしまった。
この状況は何……?
私はどうして仁蘭様に抱き締められているの?
激しく鳴り続ける心音が辺りに聞こえるのではと心配になるくらい、胸がどきどきして緊張から体が強張る。
「あの、そういえば男性と二人きりは、その、品位というものが」
ふと漏れ出たのはそんなどうでもいいことだった。
「おまえはもう妃じゃない」
「はっ!」
そうだった。もう妃はクビになったんだった。
今はもう気にしなくていいの? いやいや、未婚の女性としてこんな風に男性と接近するのはいかがなものか?
悩んでいると、仁蘭様はくつくつと笑い始めた。
こんなによく笑う人だったかなと不思議に思ったとき、続き間の扉が開く。そこはいつも史亜さんが入ってくる隠し階段のある扉で、そういえばそろそろ彼女が来る時間だったと思い出した。
「離れてください!」
「その必要はない」
「ありますよ!!」
仁蘭様がおかしい。
私は必死で彼の肩や胸を押し続けるけれど、びくともしなかった。
「ははっ、仲がいいことで何よりだ」
「皇帝陛下……!」
入ってきたその人は、史亜さんではなかった。
赤い衣装に玉冠という装いの皇帝陛下に、薄桃色の女官服を纏った美明さんが付き従っている。
美明さんは艶やかな黒髪が美しい、二十二歳らしい姿に戻っていた。奪われた若さを取り戻した後もしばらくは療養が必要だと聞いていたのに、どうやら早くも仕事に復帰したようだ。
仁蘭様と同じように「死んだらそれまで」の精神で陛下のために働いていた美明さんらしい。
彼女は私と目が合うと、少しだけ微笑んでくれた。
牢で会ったときより随分と穏やかな空気を纏っている。
皇帝陛下もまた、先日お会いしたときより和やかな雰囲気だった。
「采華、また会えて嬉しいぞ」
「あ、ありがたき幸せにございます」
仁蘭様に抱き寄せられたまま、窮屈な状態で合掌しようと試みる。でもすぐさま陛下に「いい」と制された。
いや、よくはないです。この状態はよくない。
けれど陛下は微笑ましい目で私たちを見ていた。
「私のことは玄苑と呼び、以前のように接してくれ」
「え!? よろしいのですか……?」
この国で最も高貴な方を、庶民の私が名前でお呼びしてもいいの!?
「たった今、妃をクビになったんですけれど」
「構わん。私がそれを望んでいる」
本当に? と信じられない気持ちだったが、陛下があまりにまっすぐな目で私を見るので、きっと本心で望んでくれているのだろうと思った。
「わかりました……。では、玄苑様と呼ばせていただきます」
私の返事に、玄苑様は満足げに笑った。その雰囲気は私が自分の宮で会った史亜さんと重なる。
今、私の目の前にいらっしゃる方はお姿こそ皇帝陛下だけれど間違いなく女性だった。祈祷殿でこの方が華奢な青年に見えたのは、衣装や化粧、それに口調や仕草が男性のそれだから。
明るいところでこのように近い距離でじっくり拝見させてもらえば、笑ったときの目が仁蘭様とよく似ておられて…………考えないようにしていたことを思い出してしまった。
玄苑様は私から離れない仁蘭様に目をやると、仕方がないなという風に笑って言った。
「采華、面倒な弟だがよろしく頼む」
弟。今はっきりと弟とおっしゃいましたね!?
私は驚きのあまり返事ができない。
「のちほど仁蘭から説明させるが、このことは本当に限られた一部しか知らぬ。紅家の長男も、仁蘭のことは本当の弟だと思っているくらいだから他言しないように」
「そのような重要なことを私に!?」
庶民が聞いていいような話ではない。
狼狽える私に、仁蘭様が囁く。
「俺のことを知りたいのだろう? 話すつもりはなかったが、おまえが知りたいと言うからこれを機にすべて教えることにした」
「その『知りたい』ではありません……!」
解釈違いも甚だしい。
さっきとは違った意味で泣きそうになりながら仁蘭様を見つめる。
聞きたくなかったと落ち込む私を見て不思議そうに首を傾けていた玄苑様が、ふと思いついたように言った。
「そうか、考えてみれば采華が望みさえすれば私の女官にするという手もあるな? 范家のことはこちらから何人か尚書をやれば目が行き届くだろうし、職さえあればどこかへ急いで嫁ぐ必要もないだろう。女官になるのも選択肢に入れてもらおうか」
「なっ」
仁蘭様が途端に険しい顔になる。
その反応に玄苑様は苦笑いに変わった。
「冗談だ。私はそなたたちの邪魔をするつもりはない」
「…………よかったです」
「本当だぞ? またしばらくこうして会える時間はなさそうだから、顔を見に来ただけだ。それに采華は腹の探り合いができぬだろう、宮廷の女官は難しい」
おっしゃる通りです。
玄苑様の指摘に、私は申し訳なくなって小さな声で「はい」と呟いた。
「宮廷は今、孫大臣の失権で混乱が広がっている。先帝殺害は喜凰妃が独断で行ったこととはいえ、それをそのまま信じる者は少ない。少なくとも、娘の行いを知っていて隠ぺいしたのは許しがたい。一族すべてを滅ぼすべきという声も上がっているが……そこまですれば余計な恨みも買うだろうから処罰の範囲はこれから協議する」
娘とその仙術士の罪は、当然父親である孫大臣も負うところとなった。兵部で築いた地位を追われ、あの夜から宮廷の牢にいるらしい。
これまで捜索できなかった孫家の屋敷も祖呉江にある拠点も大規模な調べが入り、他国との不正な取引や違法な人身売買などについて、孫家が手を染めてきた悪事が次々と暴かれているという。
証拠がおおかた揃わなければ、刑の執行も行われない。
少なくとも一年はかかるだろうと玄苑様はため息を交じりにおっしゃった。
「あの……喜凰妃様の宮はどうなるのですか?」
主のいなくなった豪華な宮。慈南さんや笙鈴さんのことが心残りだ。私はいつか女官でなくなることがわかっていたけれど、彼女たちは突然に居場所を失ったのだ。
「孫家の縁者である女官長はひとまず宮廷で拘束するが、それ以外の者はほかの妃の宮に移ることになった」
私の知るあの二人は、ほかの宮でそれぞれ仕事をするらしい。
それに玄苑様は、あと数年も経てば後宮を廃するおつもりだった。
「少なくとも私の代では後宮など必要ないからな。妃たちをあまり長く留めぬようにしたいと思っている。親が権力を得るために、娘を道具として使う慣習は終わらせたい」
何代も続いてきた後宮をご自身の代で終わらせるのは相当に骨が折れるだろう。
それでも実現してみせるという玄苑様は、とても頼もしく感じられた。




