鬼上司に拉致されました
置いていかないで、と言いかけた私は無言の仁蘭様に横抱きにされて小さく悲鳴を上げる。
「突然どうしたんですか!? あの、私はもう歩けるのでこんなことしてくれなくても平気です!」
お願いだから下ろしてほしい、半泣きで懇願する。
けれど仁蘭様は、うっすらと笑みを浮かべて却下した。
「陛下のご命令だ。任せる、と」
「だからって」
「それにこれは証拠保全だ」
「まさかの証拠品扱い!」
だったら仕方ないですね、とはなりませんよ!?
「ほら、腕を回さなければ落ちるぞ」
「いっそ落としてください!」
必死の願いも叶わず、仁蘭様はすたすたと扉の方へ歩き始めた。
私を抱えてこのまま宮廷まで戻るつもり? それとも私の宮まで行くの?
どうせ運ばれるならと私は流千に向かって手を伸ばした。
「流千!」
神獣様と流千がこちらを見ている。
流千は私が何か言うまでもなく、首を横に振った。
「重いから無理。僕は肉体労働はしないから」
「酷い! このあいだ、あなたの看病をしたのは私よね!? それなのに私のことはほったらかしだなんて信じられない!」
「諦めろ」
仁蘭様が容赦なく言い捨てる。
手を振る流千はどんどん遠ざかり、ついに私は祈りの間から出てしまった。
「薄情な弟……」
「弟?」
ぐったりとして呟いた私に、仁蘭様が少し驚いた顔で聞き返す。
「え? そうですよ。話していませんでしたっけ?」
「聞いてない……弟なのか? あれは」
「はい。今は朱流千と名乗っていますが、あの子はもともと范甲天という名でして范家の息子です。私の実の弟です」
仁蘭様は目を丸くしていた。
私たちが姉弟だとまったく気が付かなかったらしく、そんなに似ていないのかなと私も改めて驚いた。
「そうか、弟か」
「はい。弟ですね」
貴族と違い、平民には身分を示す戸籍がない。仁蘭様が今の今まで知らなかったのはそのせいもあるのだろう。
「はぁ……」
「どうしたんですか、ため息なんてついて」
仁蘭様は、鬼上司らしからぬ大きなため息をついた。
相当に落ち込んでいるように見える。
姉弟だと気づけなかったのがそんなに衝撃だった……?
私は小さな声で「すみません」と謝罪する。
「弟か……。あいつなりに怒っていたのだろうな。俺がおまえを地下に置いてきたことを。せめて采華を運べということだろうな」
「そうでしょうか?」
重たいのは嫌だというのも本心で、怒っていたのも正解かもしれない。
あの子はあの子なりに私を大事に想ってくれているのは確かだから……。
祈祷殿を出ると、夜空には無数の星が煌めいている。
雲はすっかり流れていて、明日も晴れそうだと思った。
「もう気になさらないでくださいね。私が置いていってくれと頼んだんですから」
ここは鬼上司らしく「当然だ」とでも言ってほしい。そうでなければ、いつもの私でいられない気がした。
美明さんが見つかった以上、私はきちんと恋を諦めなければいけない。今こうして触れている胸も腕も、本当は私が頼っていいものではないのだから。
ふとしたときに押し寄せる寂しさを振り払いたくて、わざと明るい声で言った。
「あの呪符が消えれば、美明さんたちも元に戻りますね! よかったですね、仁蘭様」
「あぁ……そうだな。喜凰妃と禅楼は然るべき罰を受け、宮廷の膿もまた一つ減るだろう。大臣らが絶望の淵に立たされたときの顔が楽しみだ」
あっという間に暗い話に戻された。
私はじとりとした目で仁蘭様を見る。
「何だ?」
「いえ、何も」
仁蘭様は不思議そうな顔をしていた。
「……喜凰妃様のしたことは許されないことです。でも美しさこそすべてだとそのように教育したのはお父上である孫大臣なんですよね」
人は生まれる家を選べない。他家に生まれていれば、喜凰妃様もまた別の人生があったのではと思うとやるせない気分になる。
「自分以外に大事な物がないから若さと美しさに縋るしかなくて。喜凰妃様はいつも笑っていましたが、寂しかったんじゃないかと思います。だからって誰かを犠牲にしていいわけではないですけれど」
仁蘭様は、共感も反論もせず黙って私の話を聞いてくれていた。
「寂しいとロクなことにならないなって知りました。仁蘭様も気を付けてくださいね……って、恋人の美明さんが見つかったから大丈夫ですよね」
自分で言い出したくせに、悲しくなって視線を落とす。
美明さんは見つかり、呪符も奪ったことで元の姿に戻れるだろう。見つかってよかったと思う気持ちは本物なのに、笑みは次第に消えていく。
よかったですね、どうかお幸せに。
そんな当たり前の言葉が出てこない自分が情けなかった。
「美明は恋人などではない」
「え?」
顔を上げると、おまえは何を言っているのだとでも言うように仁蘭様は眉根を寄せていた。
私は呆気に取られてしまう。
恋人じゃない……?
仁蘭様は美明さんを好きだから、これまで必死に捜していたんじゃなかったの?
「美明は皇帝陛下にとって唯一無二の友人だ。心の支えとも言える存在だった」
「友人」
「俺にとっては志を同じくする者で、そこに恋だの何だのという感情はない」
「ないんですか!?」
何をどう勘違いしたらそう思うのだと、仁蘭様は呆れていた。
そっか……恋人じゃなかったんだ。
すべては私の思い込みだったとわかり、胸のもやもやが消えると共に力が抜けてしまう。
「仁蘭様ったら紛らわしい」
「俺が今まで勘違いさせるようなことを言ったか? そんな覚えはないが……?」
思い返してみるが、確かにそんな言葉は口にしていなかった。
私が勝手に勘違いして、決めつけていただけだ。
気まずくなって黙ったままでいると早々に私の宮に着いてしまい、門扉の前でようやく仁蘭様の腕の中から解放された。
「一人で平気か?」
仁蘭様の様子から、中へ入る気はないのだと察する。
これから喜凰妃様たちの取り調べがあるのだろう。彼がすぐに戻らなければならないことはわかった。
私は笑顔で「はい」と答える。
これから私はどうすればいいのだろう?
このままここで別れたら、もう会えなくなるの?
色々と聞きたいことが山積みだったが、質問の答えが望んだものではなかったら……と思うとなかなか言葉が出てこない。
もどかしい気持ちでいると、仁蘭様がまっすぐにこちらを見下ろして言った。
「采華。俺はおまえを諦めるつもりはないと言ったのを覚えているか?」
私が地下に残ったときに言われた言葉だった。
「はい、覚えています」
必ず助けてくれるという『諦めない』だと思っていたけれど、もしかして違う意味だったのだろうか?
今私に向けられている目を見ていたら、甘い期待が生まれてしまった。
「覚えているならよかった。まさか明日から解放されるとでも思ってはいないな?」
「……え?」
仁蘭様の口角が上がる。
それを見れば嫌な予感しかしなかった。
「おまえたちが犯した罪はそんなに軽くない」
私はぎょっと目を見開く。
「まだ仕事があるんですか!? でもまぁ、取引なんで仕方ないですね……! また『死んだらそれまで』という危険な仕事ですか?」
もうどうとでもなれ、と投げやりな気持ちになる。
ため息交じりにそう言うと、仁蘭様は私の両肩に手を置いて苦しげな声音で言う。
「そういうのはもうやめてくれ。二度と自分を犠牲にするようなことはしないと約束してくれ」
その言葉が意外すぎて、私は小さな声で「わかりました」とだけ答える。
なぜ今私はこうして縋られているのだろう。
仁蘭様のことは相変わらずよくわからないけれど、本気で心配してくれているのは伝わってきて自然に笑みが零れる。
わかりにくい、でもかわいい人。そんな風に思ってしまった。
くすりと笑う私に、仁蘭様が低い声で詰め寄ってくる。
「なぜ笑っている? おまえは本当に約束を守る気があるのか!?」
「すみません!」
「目を離せば何かを起こしそうで置いていけない! おまえもこのまま宮廷に来い!」
「えええ!?」
仁蘭様は怒ったようにそう言い、強引に私の手を引いた。
「本当に行くんですか!?」
「当然だ!」
どうやら本気らしい。
鬼上司に連れ去られた私は、本当にそのまま宮廷でお世話になることになってしまった。




