美貌の妃の正体②
「私はね、誰よりも美しくありなさいと言われて育ってきたの。美しければ何でも手に入るし、この世で最も幸せな女になれるって。それなのに……がっかりしたわ」
「何に、ですか?」
先帝様の後宮に入れられたこと?
それとも今の皇帝陛下が訪れないこと?
喜凰妃様は私の髪からするりと手を離し、視線を斜めに落とした。
「後宮入りしたら、皇帝があんなに老いていたんですもの。国中から崇められる皇帝なのに、ちっとも美しくなかったの。だから私、『いらない』って思ったわ」
喜凰妃様は満足げな笑みを浮かべ、また禅楼様の隣に戻っていった。
私は恐る恐る尋ねる。
「まさか、先帝様は喜凰妃様が……?」
流千が聞いてきたあの噂。六年前に亡くなられた先帝様は、実は孫大臣によって毒殺されたのではという不穏なものだった。けれど実際は────。
「お父様には叱られてしまったのよね。何の相談もせずに殺めてしまったから」
「なっ……!」
孫大臣は、先帝様を傀儡としていた。不和が生まれたならともかくとして、都合よく操れているのにわざわざ代替わりをさせる必要はない。
しかも、娘が寵妃となればさらに孫大臣の権力は増す。
喜凰妃様を後宮入りさせるところまでは、何もかもがうまくいっていたに違いない。
以前、私が見た喜凰妃様と話す孫大臣は不自然なほど娘の機嫌を窺っていた。
あのときは娘に対して負い目があるからかと思ったけれど、何をしでかすかわからないと喜凰妃様のことを恐れていた……?
「新しい陛下はお若いでしょう? 私の三つ下ならちょうどいいわ。昔一度だけお見かけしたことがあって、とても愛らしいお姿で驚いたの。だから先帝様にはいなくなってもらった」
「だからって……人を殺めるなんて」
「直接手を下したわけじゃないわ。私のために動いてくれる人はたくさんいるのよ」
私を見下ろす喜凰妃様の目が細められ、妖しげに微笑む。
「あなたも私のために役立ってね? その若さも美しさも、私がちゃんと使ってあげるから」
美しいはずの喜凰妃様が、初めて醜悪に見えた。
人を人とも思っていない口ぶりに、何も映していない瞳。彼女は自分だけを愛していて、自分のためだけに生きている。
すべては美しくあるため。私が見ていた、優しく健気な喜凰妃様はまやかしだったのだ。
「本当は何年か後に贄として使ってもよかったけれど、女官たちはあなたのことを疎んでいるし、禅楼が新しい術を試したいと言うから仕方がないわね」
「喜凰妃様のお心遣いに感謝しますぞ」
朗らかに笑い合う二人を見ていると、本当に人の心がないのだと思った。
私は禅楼様を睨みながら尋ねる。
「私に神力があると嘘を吐いたのは、女官たちの嫉妬を煽るためですか?」
「ははは、気づいていたのか? 神力の有無は女官たちにはわからん。この私が『ある』と言えばそれを信じ、妬む心は瞬く間に膨れ上がる」
女官たちの嫉妬を煽れば、私に対して嫌がらせが始まる。私がある日突然いなくなったとしても、嫌がらせに耐えかねて逃げたという理由ができる。
美明さんの失踪した日を偽ったことといい、私が消えても「仙術とは関係ない」と宮廷に思わせるために仕組んだのだろう。
「こんなことに手を貸して、仙術士として恥ずかしくないのですか!?」
私の言葉など、この人には届かないだろう。それでも言わずにはいられなかった。
禅楼様はわざとらしく首を傾けてとぼける。
「仙術士として、か? 仙術士は己の術を磨くことにこそ価値を見出す。そのためならどんな犠牲も厭わぬものよ。そもそもおまえは、仙術士に限らず世のため人のために生きる善良な人間など見たことがあるのか? くだらない理想だ」
そういえば流千も似たようなことを言っていた。『真面目な仙術士はずっと山に籠っていて宮廷勤めなんてしないよ』と。
でも、世のため人のために生きることはそんなにくだらないことなの?
私の両親はずっとそうやって薬屋を営んできたのに。
「あなたなんかより、世のため人のために一生懸命になれる人の方がずっといいわ」
禅楼様はそんな私に憐みの目を向ける。
「少なくともおまえの前にいる仙術士は、そのような生き方は忘れた。若返りの妙薬を作ることこそ、この禅楼のなすべきことだからな」
「若返りの妙薬?」
仙術で若さを奪うだけじゃないの? 若返りの妙薬が本当に存在する……?
地位も富も名声も、すべてを得た人ほど永遠の若さを求めるという。けれど、いつの時代もどれほど大枚をはたいてもそんなものは完成していない。
禅楼様は祭壇の上に置いてあった青銅の丸い器と短刀を取り、ゆっくりと私に向き直った。
「妙薬が作れるかは、類まれなる神力と困難に挑もうとする努力にかかっている」
「いい風に言わないでくれます?」
「ははっ、口の減らぬ娘だ。贄になれることを光栄に思え」
鈍色に光る短刀から目が離せない。
まさかそれで私を……?
嫌な予感がして座ったまま後退るものの、武官によって肩を押さえられて逃げられなかった。
「離して!」
必死の抵抗も空しく、私では武官を倒すことはできない。
禅楼様は私の正面に来ると、武官に命じて私を立ち上がらせた。
「仙術では、人間一人を贄に使うわりに奪える若さは少ないのだ。しかも贄を殺せば効果も減ってしまう……だが、生き血を使う妙薬ならば贄がどうなろうと効果は保たれる」
「生き血!?」
逃げようとするたび、手首に縄が食い込んでじりじりと痛む。
いよいよこれまでかと思うと体が強張った。
それでもおとなしく斬られるわけにはいかない。こんな状況でも、私はやっぱり諦めたくないと思った。
「私は贄になんてなりません!」
宣言と共に、禅楼様の腹を右足で思いきり蹴る。
「ぐっ!」
「禅楼!」
喜凰妃様の声が響いた。
青銅の器が床に落ちて転がり、禅楼様は腹を手で押さえて顔を歪める。ただし短刀は握りしめたままで、怒りに満ちた目がぎろりと私に向けられた。
「小娘が……!」
今の今まで見た目だけは温厚そうだった人が、憎悪を剝き出しにして睨んでいる。
あぁ、刺される。
そう感じた瞬間、祈祷殿の壁がドンッと大きな音を立てて壊れて木くずと埃が舞った。
「きゃああ!」
「っ!」
どこかで見た爆発だった。
いや、蔵を壊したときより遥かに威力が増している。
喜凰妃様が袖で顔を覆い、その場に倒れ込むのが見えた。
「何だ!?」
振り返ろうとした禅楼様は、眼前に現れた黒い影にはっと驚く。
「血なら己の血を使え」
「!?」
それは一瞬の出来事だった。
声を発する間もなく、禅楼様の右腕から真っ赤な飛沫が散る。禅楼様はぐらりと大きくよろめき、その場に片膝をついて小さな呻き声を上げていた。
「仁蘭様……!」
来てくれた。
本当にまた会えた。
胸がいっぱいになり、すぐに言葉が出てこない。
「采華、避けろ」
「え?」
今、この人は一体何と言ったのか?
理解するより先に仁蘭様が一足飛びにこちらへ近づき、左腕で私の頭を抱えて床に伏せる。
私を捕らえていた武官はその場に立ち尽くしていて、次の瞬間に襲ってきた風の渦に巻き込まれ吹き飛ぶのが見えた。
「がっ……」
黒檀の柱で全身を打ち付けた彼は、がくりと意識を失って倒れる。
なぜいきなり風の渦が発生したのかは聞かなくてもわかった。
「ごめん、采華。加減がわからなくてつい」
神獣様を右肩に乗せた流千が、壁に開けた大穴の前で苦笑いを浮かべている。
謝って許されるような失敗じゃないんだけれど……?
助けに来たはずの弟に危うく吹き飛ばされるところだった。
「神獣様に回復させてもらってから、神力が増えすぎてちょっとおかしなことになっているんだよね~。次は気を付けるから!」
次はないことを祈る。こんな危険な術を使うことが何度もあっては堪らない!
仁蘭様はいつかのように私の上に覆い被さっていて、流千が起こした風から私を守ってくれていた。天井から小さな木片がぱらぱらと落ちてくるのが見えた。




