ピンチの上塗り
一刻と少し経った頃。
私と流千は再び彼のもとへ戻ってきて、床に敷いてあった薄い絨毯の上に座っている。そして、寝台に腰掛けている赤髪の美丈夫から鋭い視線を向けられていた。
「一体これはどういうことなのか説明してもらおう」
息をしているか様子を確認しに来ただけなのに、扉を開けた瞬間に彼が目を覚ましたからとてもびっくりした。来なきゃよかった……と思ってももう遅い。
見たところ少しは眠ることができたようで、さっきよりも顔に生気が戻っているようだった。
とはいえ未だ顔色は悪く、彼がこうして起き上がって話せているのが不思議なくらいだ。
「まずは食事にした方がよろしいのでは? 話せば長くなりそうなので」
流千がそう提案するも、彼が頷くことはない。卓の上には茶と粥、薬を用意してあるのに、相変わらずの警戒っぷりでまったく手は付けられず冷めていっている。
いきなり知らない場所で目覚めたんだし、状況が知りたいっていう気持ちはわかるけれど……。
今は話よりも体力回復を優先すべきだ。そう思った私は、彼の機嫌を窺いながらお願いする。
「毒は入っていないので、お体のためにとにかく食べてくれませんか?」
「そんなことはわかっている。殺すつもりならとっくにやっているだろう」
「だったら」
「話が先だ。おまえたちは誰だ? ここはどこだ? 窓から朱色の屋根の建物が見えたが、あれは宮廷で間違いないのか?」
矢継ぎ早に尋ねられ、私と流千は困った顔で目を見合わせた。
これはもう質問に答えるしかない。
私は彼に向き直り、姿勢を正して胸の前で合掌する。
「范采華と申します。こちらは仙術士の朱流千です。私は薬屋の范気堂を営む范家の娘で、三カ月前に後宮へ参りました。あちらに見えるのは宮廷で間違いありません。ここは後宮の外れでして、私に与えられた宮です」
彼は黙って話を聞いていたが、ひび割れた壁や建付けの悪い扉を一瞥してほんの少し目を眇めた。
あぁ、「こんなに古びた宮に妃が住んでいるのか?」と疑問に思ったのだろうな。
がんばって掃除したんだけれど……と少し居たたまれない気持ちになる。
「あの、お名前を伺っても?」
私は恐る恐る尋ねる。
「何のために?」
険しい顔が一層険しくなった。
怖い。私がこれまで出会った人の中で、最も威圧感がある。
具合がよくないからこの険しさなのか、それともこれがこの人の普通なのか?
誤解を生まないよう、私は彼の機嫌を窺いながら説明した。
「便宜上、知っておいた方がいいかと思いまして。あくまで『呼び名』が必要ということです。他意はございません」
貴族の場合、名前を名乗り合うのは懇意にしたいという意味があるのだと聞いたことがある。でも私にそういう考えはまったくなく、ただ話すのに不便だから名前を教えてほしかった。
偽名でもいいんですよと目で訴えかければ、彼は一拍おいてから名乗った。
「紅仁蘭だ」
「紅……?」
どこかで聞いたことがある。
紅家といえばこの国でも有数の名家で、皇帝陛下を支える一族だ。その領地は広大で、天遼国建国時からの由緒正しい貴族家で、庶民の私でも知っているくらい有名な家だった。
「紅家のご当主様ですか?」
「違う。当主は兄だ」
「ご当主様の弟君でいらっしゃいますか……」
「知っていて俺を攫ったのではないのか?」
「攫っ……!? いえいえいえ! 私たちは何も存じ上げず……」
召喚術の対象は、皇帝陛下だったのだ。決して仁蘭様を狙ったわけではない。
私が慌てて否定するも、彼はまだ疑っているように感じられた。
まずい。紅家の怒りを買えば范家など即座に取り潰されてしまう。起死回生の大逆転を狙った結果、別の脅威が迫っている。
渾身の愛想笑いが消えていった。
「紅仁蘭様、このたびは誠に失礼をいたしました!」
とにかく謝るしかない。私は深々と頭を下げる。
一体この状況をどう説明すればいいの?
召喚術を使ったなんて話をそもそも信じてもらえる!?
でもなぜこの方を間違えて召喚してしまったのか、私たちにもわからない。
手に入れた髪が皇帝陛下の物ではなかった? それとも儀式自体に問題があった?
わからない……!
この事態をどう収めればいいか、冷や汗が背中を伝う。
「大変に申し訳ございません。ご迷惑をおかけいたしました」
私はひたすら謝り続ける。
「…………」
仁蘭様の反応がないのでちらりと顔を上げれば、その目線は流千の方に向かっていた。
流千はそんな状況でも背筋を伸ばして座っていて、堂々とした態度を貫いている。
仁蘭様の視線にも「僕が何か?」という風に目だけで問い返していた。
「おまえは? 見たところ宦官ではなさそうだが」
仁蘭様は、なぜ後宮に若い男がいるのかと不思議に思ったらしい。
「ええ、僕は妃付きの仙術士です」
「仙術士?」
「はい。きちんと届け出ています。後宮の人事を担っている管理局に確認していただければ」
じっと流千を見下ろす仁蘭様。流千の堂々とした態度に、仙術士だというのは本当だと信じてくれた様子だった。けれど、変わらず険しい声で話し始めた。
「俺は昨夜、祖呉江の激流に呑まれた。それなのに、気づいたらここに運ばれていた」
祖呉江は、王都の北東に位置する山から流れる川だ。
首都を巡っているのはその支流で、本流である祖呉江の辺りは馬で掛けても二日ほどかかる。
薬草が豊富に自生しているので、一度は採取に行ってみたいと考えていたのを思い出した。
「おかしいと思わないか? 祖呉江と後宮は一晩で移動できる距離ではない」
「そうですね」
「仙術士の仕業なら十分にあり得ることだが、な」
自分がここにいるのは流千の術のせい、仁蘭様はそう確信しているようだった。
見事に正解である。
彼は淡々と答えを導き出し、その声に怒りの感情は感じられないところがなおさら怖い。
黙り込む私とは正反対に、流千は前のめりになり大きめの声で主張した。
「確かに、仁蘭様をここへお連れしたのは仙術士の僕です。つまり激流に呑まれても助かったのは、僕らのおかげってことですよね!」
すごく都合のいい方向に持っていこうとしている!
流千の豪胆さに、私は唖然としてしまった。
しかし仁蘭様は騙されてくれない。はっと鼻で笑い「だったら何だ?」と言い捨てる。
「俺がいつ頼んだ? 第一、後宮や宮廷で使用していい仙術は決まっているはずだ。見ず知らずの他人を異なる場所に移す術など認められていない」
「ぐっ……」
「朱流千は、定められた術以外を勝手に使用した罪ならびに貴族を攫った罪。范采華は、妃の寝所に皇帝陛下以外の男を招き入れた不義の罪。おまえたち二人はよくて国外追放、場合によっては処刑もある」
仁蘭様の言葉はもっともだった。反論の余地がなく、私は青褪め、流千は悔しそうな顔で恨み言を漏らす。
「皇帝陛下は後宮に来ないのに、采華が不義の罪を負わされるなんて理不尽だ」
「人を連れ去ったやつがどの口で理不尽と言う?」
「鬼だ、鬼がいる」
「侮辱罪も追加しようか?」
あぁ、これはもうだめだ。どう考えてもこの場で言い逃れすることはできない。
どこまで事情を汲んでもらえるかわからないけれど、弟のことは私が守らなければ……!
「今度のことは、すべて私の責任です。私が召喚術を使えと命じました」
「采華!」
私がそう言うと、流千が慌てた声音で名前を呼んだ。
流千が口を挟めないよう、私は仁蘭様の目をまっすぐに見て訴えかける。
「どうしても皇帝陛下にお会いしたかったのです。召喚術を使えば、後宮にお越しにならない皇帝陛下にも直接お話ができると思いまして……」
「話?」
「はい、我が范家は今危機に瀕しています。それを直訴したくて……でも誤って仁蘭様をここに喚んでしまいました」
范家の父が騙され、店を奪われそうになっていること。あれこれ手は尽くしたものの、尚薬局に相手にしてもらえなかったこと。
皇帝陛下に一度も会えないまま時間だけが経ち、焦っていたこと。
これらを説明する間、仁蘭様はただ黙って話を聞いてくれていた。
「私の浅はかな行動で、誠に申し訳ないことをいたしました。本当に申し訳ありませんでした」
最後にもう一度深く謝罪をする。
間違って召喚されたこの方には何の関係もない話で、ただただ迷惑をかけた。
仁蘭様の言う通り、処分されても文句は言えない。何もかも覚悟して、私は謝罪した。