入れ替わり
仁蘭様は半開きだった扉を足で押し開き、中へと入っていった。
暗がりの中、少しずつ目が慣れてくるとここが牢屋であることに気づく。
鉄格子で区切られた牢はほとんどが空で、泣き声のする一番奥の牢にだけ座り込んでいるような人影がいくつも見えた。私に与えられた女官の寝所よりも狭い牢屋に、膝を立てて座っている。
すすり泣く声は数人の女性のもので、仁蘭様の足音が響くとそれは一斉に止まった。
こちらの様子を伺い、怯えている気配を感じた。
こんなところに女性たちが閉じ込められていたなんて……!
残酷な光景に私は絶句する。
「──誰なの?」
牢の中から、気丈な女性の声が聞こえてきた。
暗がりでも、まっすぐにこちらを見ている目が見える。
長袍に似た薄橙色の服を着て、後ろで白髪を一つに纏めた初老の女性だ。突然現れた私たちを、警戒心の強い眼差しで睨んでいる。
「その声は……美明か?」
仁蘭様は鉄格子の少し手前で立ち止まり、信じられないといった風に呟く。
美明さんはまだ二十二歳のはずで、この女性とはどう見ても年齢が合わない。それなのに、仁蘭様はこの方がそうだと確信しているようだった。
彼女もまた驚きの表情に変わり、皺が目立つ手で鉄格子を握って呆然とする。
「仁蘭様? 本当に仁蘭様なのですか?」
こちらを睨んでいると思っていたが、彼女が瞳をあちこちに彷徨わせる様子からどうやら目がよく見えていないのだと気づく。
仁蘭様はそばに寄り、そっとその場に片膝をついて彼女の状況を確認した。私は床に座り、同じく美明さんだと思われるその女性を見つめる。
私が仁蘭様から聞いていた美明さんの特徴は『黒目黒髪』『右目の下に小さなほくろが一つあり、右手の親指の付け根に爪と同じくらいの痣がある』ということ。
目の前の女性は、髪以外その特徴に一致していた。
やはり、この方が美明さんなのだ。
仁蘭様がずっと捜していた大切な人。その人が今目の前にいた。
「美明」
「仁蘭様……!」
二人は鉄格子を隔てて、互いにじっと見つめ合う。
美明さんが見つかってよかった。
そんな気持ちを抱きながらも、私の胸はずきりと痛んだ。
見つめ合う二人を見ていられず目を逸らしそうになったとき、美明さんが興奮気味に問いかけた。
「陛下、陛下は!? 玄苑様はご無事ですか!?」
真っ先に聞くことがそれ? と私は驚く。
忠義心のある臣下は、恋人より主君が気になるものなの?
美明さんはどうしても陛下のことが気がかりらしく、それに対し仁蘭様も当然のように答えた。
「陛下はご無事だ。変わりなく執政をなさっている」
「あぁ、よかった……!」
美明さんは鉄格子から手を離し、心から安堵した顔で大きな息をつく。
仁蘭様は、変わり果てた美明さんに驚きつつも慎重に問いかけた。
「これは一体どういうことだ? おまえのその姿は一体……?」
牢の中にいるのは美明さんだけではない。全員がお婆さんと呼ばれるくらいの年齢に見える。
美明さんは、ほかの白髪の女性たちに目線を向けて言った。
「私のこの姿は、喜凰妃と禅楼によるものです。この牢にいるのは、後宮で働いていた女官や宮女たち。皆、私と同じく若さを奪われてここに閉じ込められています」
「若さを奪われる?」
仁蘭様が目を瞠る。
普通はそんなこと到底できない。しかし、仙術を使えばありえない話ではない。
「喜凰妃は禅楼に命じ、娘たちから若さを奪い己のものにしてきました。あの
女は美しさこそすべてだと思っているのです。新年の宴の夜、私はようやく証拠を掴んだのですが……!」
美明さんは悔しげに俯く。
新年の宴の夜は、仙術を使う絶好の機会だった。
禅楼様が宮女の若さを術で吸い取り、それを『気』として喜凰妃様に与えた。そのときに使われていたのが白い紙で作られた人型の呪符で、美明さんはそれを持ち出そうとしたところで囚われてしまったのだと話す。
そして仙術で若さを奪われ、ここに閉じ込められたそうだ。
「禅楼はなぜおまえを始末しなかったんだ?」
「想像ですが、殺せばせっかく奪った若さが失われる可能性があるのかもしれません」
「なるほどな……それで皆ここに集められているのか」
私が目で数えただけで二十人。こんなにもたくさんの女性たちが牢に閉じ込められていた。
すすり泣く者、諦めた目でぼんやりとしている者、壁にもたれて眠っている者……皆それぞれだが、仁蘭様と私が現れても取り乱したり助けを求めたりしないところから絶望の深さを感じる。
「見張りはいないのか?」
誰かを閉じ込めるなら、普通は牢番など見張りを置くだろう。
私も仁蘭様も誰にも会わずにここまで入って来られたことが不思議だった。
「朝晩二回、水や食事を運んでくる者はいますが……そのときに私たちの数を数えて全員が揃っていることを確認しています。それ以外は特に誰も来ません。どうせ逃げられないと思っているようで見張りはいません」
ここには暴れる者もいないし、万が一逃げられたとしてもこの変わり果てた姿では自分の身分も名前も証明することができない。
わずかな灯りしかない地下では、時間すらわからない。
こんなところに閉じ込められたら、体は生きていられたとしても心が死んでしまう。
逃げる気力すら残っていないのだと、牢の中の女性たちを見ていればわかった。
「なんて酷いことを」
ぎゅっと目を閉じ、私は思わず呟く。
「美明、ここを開ければ逃げられるか?」
仁蘭様は、青銅で作られた錠を見ながら尋ねる。
ここも神力が鍵になっているようで、食事を運んでくる者たちは特殊な呪符を持っていると思われた。流千が作った呪符を使えば、今すぐにここを開けられる。
でも美明さんは小さく首を振った。
「もうここに閉じ込められてどれくらい経ったか……逃がしてもらったところでうまく歩けないでしょう。私も皆も同じです」
「だがここにいるわけには」
「もういいのです。……敵に捕まるなど情けなくて、どの顔で戻ればいいのですか?」
「美明」
「仁蘭様、情けをかけるなら私を今ここで斬ってください。陛下のおそばに戻れたとしても、こんな体ではもう……」
自分のことが許せないのだと、美明さんは嘆いた。
この方は私と違い、皇帝陛下のためにという強い気持ちがある。譲れない信念や誇りがあるのだろう。
世の中には、無様に生き続けるよりも死んだ方が潔いとする人がいることは知っている。でも待っている人たちはどうなるの?
美明さんを大切な人だと言った史亜さんの顔が頭に浮かぶ。
私は、せっかく見つけられた美明さんをこのままにしておくことはできなかった。
「仁蘭様、美明さんを背負って宮廷に戻ってください」
私は彼を見上げ、そうするべきだと訴えた。
「美明さんをずっと捜していらっしゃったのでしょう? 一刻も早く安全な場所へ連れていってあげてください。私が身代わりになって、時間を稼ぎます」
人数が減っていなければ、見張りだって入れ替わったことに気づかないかもしれない。
美明さんを逃がせれば、皇帝陛下のお力でここへ乗り込むことも可能だろう。
「おまえは何を……」
仁蘭様は息を呑み、驚いた顔で私を見つめていた。
「美明さんやここの女性たちのことを、早く皇帝陛下に知らせてください。私ならしばらく休めば、自力で歩けるようになると思うし、だから……」
「その確証がどこにある? こんなところにおまえを置いていけと言うのか?」
「はい。そうです」
きっぱりと答える。
「俺が二人を背負っていけばいい」
「仁蘭様ならお分かりでしょう、それがいかに無謀なことか」
私はまだ一人では歩けないし、一緒に階段を上って逃げるのは無理だ。仁蘭様もさすがに二人は連れていけない。まして、誰かに出くわせば二人を守りながら逃げるのは困難だとわかりきっている。だったら、弱っている美明さんを先に連れていくのがいい。
「私という道具をうまく使ってください」
「っ!!」
仁蘭様は言葉を失っていた。戸惑いや悲しみが表情から見て取れる。
あぁ、その顔が見られただけで十分だ。
私を置いていけないと思ってくれているのがわかるから、それで十分だった。
仁蘭様は拳を握り締め、絞り出すような声で言う。
「おまえは道具なんかじゃない。だからこんなことはやめろ……!」
「道具でないなら、なおさら置いていってください。私は私の意志でこうしたいのです」
「約束したはずだ。『決して勝手に動くことはない。次にやめろと言われたらちゃんと引き下がる』と言っていただろう!」
今その話を持ち出すのはずるい。
しっかり覚えているとはさすが仁蘭様、と私は苦笑いになる。
どう説得しようかと悩んでいると、牢の中から美明さんの声が割って入った。
「あなたは女官? 見たことない顔だけれど」
「新人です。仁蘭様に雇ってもらいました」
「そう。仁蘭様の部下ならわかるでしょう? ……私は死をも覚悟の上で喜凰妃に近づいたのです。だからここで果てたとしても本望なのです」
美明さんを見ていると、初めて会ったときの仁蘭様を思い出した。自分を労わることを知らず、「死んだらそれまで」と言い切る悲しい姿を。
この方も仁蘭様と同じ考え方なのだ。
「だめですよ、そんなの」
助かるのに、自ら死を選ぶなんて絶対にだめだ。
だいたい、大事な人に斬ってくれだなんてどうして言えるの? その後、どんな想いで仁蘭様が生きていくのか考えたことある?
無性に腹が立った私は、美明さんと向き合い負けじと言い返す。
「命が懸かっているときに諦めてはいけません。死をも覚悟の上でとおっしゃいましたが、私と仁蘭様はそんなこと望みません。それに、美明さんが生きて戻れば証人になれるのではないですか?」
「それは……!」
「美明さんの証言があれば、皇帝陛下は喜凰妃様の宮を調べることもできるはず。死ぬ覚悟より、生きる覚悟を持ってください。少なくとも、あなたがここにいるなら私も動きません!」
牢の中で、美明さんが目を瞠るのが見えた。
私は絶対に譲らないという強い気持ちを態度で示す。
「采華」
仁蘭様が私を呼ぶ。
彼の手を握ると、爪が食い込み血が出ていることに気づく。傷に触れないよう、そっとその手を握ってから「行ってください」と告げてそれを離した。
仁蘭様もきっとわかっている。
今できる最善は何なのか。その上で、私を助けたいと思ってくれているのだ。
彼の迷いや苦しみを嬉しいと感じてしまうなんて、私はどうかしている。
「おまえは何もわかっていない。俺が……俺がどんな気持ちでおまえをここに置いていくのか。おまえは何も……」
「わかりませんよ」
後宮のこと、宮廷のこと、それに皇帝陛下のことも何一つ知らなかった。何も知らずに妃になり、ずっと寂れた宮で暮らすことになったかもしれないのに、私は仁蘭様に出会えた。
「また会えたら、ちゃんとおしかりを受けますから。それに、仁蘭様のことも教えてくださ
い。仁蘭様がどんな風に生きてきて、何を好むのか……これまで聞けなかったことを聞きたいです」
できることなら、美明さんより史亜さんより私が一番に仁蘭様のことを知っていたい。
たとえ報われなくても、これからもそばにいたい。仁蘭様が美明さんと共にいる姿を見続けることになっても、私は後悔することはないと思う。
「迎えに来てくださいね。おとなしく待っていますから」
精一杯明るく笑いかけると、彼は真剣な声音で言った。
「……必ず。俺はおまえを諦めるつもりはない」
仁蘭様は持っていた呪符で扉を開け、中にいる美明さんに肩を貸す。棒のように細い足首が裾から覗き、その痛々しさに私は思わず顔を顰めた。
「申し訳ありません、自分で歩けもしないなど」
「しっかり掴まっていろ」
美明さんは仁蘭様に支えられ悔しそうな顔をしていたが、すぐに前を向き一歩ずつ足を動かし始めた。
「──あなた、名前は?」
「范采華と申します」
「そう。この礼は今度会ったときに……だからそれまで無事でいるのよ」
「わかりました」
私は美明さんの代わりに牢に入り、見張りが来るのを待つ。
人数をごまかすためではあるものの、ほかにも囚われている女性たちの気持ちを思えばそれが最善だった。私がここに残ることで「自分たちも助かる可能性がある」と期待できれば、騒がれずに済むと思ったのだ。
私も打算的になったな、と心の中で呟く。
去り際、仁蘭様が振り返る。鉄格子に隔てられた今は、手が届く距離にいても随分と離れてしまった気がした。
かける言葉が見つからず、私は小さく微笑んで二人を見送った。
大丈夫、また会える。仁蘭様はきっと迎えに来てくれる。
全部解決して、またあの寂れた宮で流千と三人でお茶を飲むのだ。
石造りの扉が擦れる音がして、それが閉まると一層暗さが深まった。




