目覚めれば……
空気が冷たい。
どこからかヒューという風の吹く音がして、水の流れる音も聞こえてくる。
朦朧とする意識の中で、私は自分がいつもと違う場所にいることに気づき始める。
床の冷たさに顔を顰めたところで、誰かに呼ばれた気がした。
──華、采華!
上半身が持ち上げられ、誰かが私を腕で抱えて名を呼んでいるのがわかる。
重い瞼をゆっくり開けると、目の前に仁蘭様の顔があった。
なぜこんなにも焦っているのだろう?
ぼんやりとした目で仁蘭様を見つめる。
あぁ、これは夢……?
震える右手をそっと彼の頬にあて、そしてその確かな感触に驚いて目がぱちりと開いた。
「え?」
「采華! 目覚めたか」
本物!? 夢でも幻覚でもなかった!
咄嗟に右手を引こうとして、大きな手にしっかりと包み込まれてどきりとする。
「俺がわかるか?」
「わ、わかります……!」
今まで寝ていたのに、また意識が遠ざかりそうになる。
でも心臓が激しく鳴っていて気を失うことも叶わない。
「どうしてここに仁蘭様が!? 私は女官長に捕まって、禅楼様に……」
混乱する頭の中を整理する。
私はついさっきまで喜凰妃様の宮にいたはずなのに、目が覚めたら仁蘭様の腕の中とは一体どういうこと?
「ここは、例の地下だ。俺が調査をしていたら、武官が袋に入れたおまえを担いでここへ来た」
「武官?」
まったく記憶がない。
私はきょとんとした顔をする。
仁蘭様が近くにいてくれて助かった。
冷たい地下で、仁蘭様のぬくもりがあることにほっとした。
私は、禅楼様によって眠りの術をかけられたことを説明する。
「ここに閉じ込めるのが罰ということでしょうか? でもそれなら懲罰室でいいと思うんですけれど……? そういえば、『新しい術を試すにはちょうどいい』って禅楼様が言っていました」
「禅楼はおまえを贄にしようとしているのかもしれない」
「私を贄に!?」
流千がぽろっと口にした予想がここにきて真実味を増す。
人間を仙術の贄にするなんて、しかも自分が使われようとしているなんてぞっとする。
体はまだ思うように動かないのに、恐怖で手が震えていた。
仁蘭様はそれをぎゅっと強く握り、私の頭に頬を寄せる。
「おまえは生きている。贄になんてさせない、大丈夫だ」
「はい」
「こんな目に遭わせたくなかった。俺のせいだ」
片腕とはいえ抱き締められるような体勢で、仁蘭様らしからぬ言葉が続く。
これもすべて夢だと言われた方がまだ理解できるのに、触れる感触や温度が現実だと伝えてくる。
私はこの腕を頼っていいの……?
道具なんかじゃなく特別に想われている気がして、胸が熱くなる。
何もかも忘れて、この腕に縋ってしまいそうになった。
自分を労わることを知らない仁蘭様を何とかしてあげたいと思ったけれど、そばにいて心が救われるのは私の方なのだ。
仁蘭様には美明さんがいるのに……どうして私が勘違いするようなことを言うのだろうか。
こんなときに思い出したくなんてなかった。
伸ばしかけた腕をそっと引き、気持ちを押し込める。
「立てるか?」
「あ……」
彼に支えられながら懸命に立とうとするも、足にまったく力が入らない。意識はしっかり起きているのに、体が重くてまだ眠っているみたいだ。
仁蘭様は私の腕を取り、当然のように背負ってくれた。
赤い髪が頬を掠め、自分とはまったく違う逞しい体躯に息を止まりそうになる。
「重いですよ!?」
「人は死体が一番重い」
「死体と比べないでください」
「おまえはまだ軽い、ということだ」
つまりそれは、仁蘭様は死体を背負ったことがあるということで。
「あまり危ないことをしないでくださいね?」
「おまえが言うか?」
「すみません……」
私は黙って背負われることにした。
仁蘭様は人ひとりを背負っているとは思えないほどしっかりとした足取りで、地下の廊下を進んでいく。
ときおり吹く風の音に紛れて人のすすり泣く声のようなものが聞こえてきたのは、移動し始めてしばらく経った頃だった。
「この声って……?」
地上へと続く階段の手前。まるで幽霊でもいるかのような、不気味な声が聞こえた気がした。
「ここは喜凰妃の宮に最も近い出入口だ。俺たちが最初に見つけた階段はもう少し先にある」
「これまで仁蘭様が地下へ入ったときも、ずっとこんな声がしていたんですか?」
「いや、俺がさっき通ったときは何も聞こえなかった」
でも今は確実に声が聞こえている。
風の流れに乗って聞こえてきているのだろうか?
周囲を見回しても扉らしき物はなく、あるのは少し斜めに傾いた壁掛けの灯りだけだ。
殺風景な壁に、やけに豪華な金縁の飾りの灯りがついていて気になった。
「調べるのは後だ。今はおまえを地上に戻す」
仁蘭様はそう言って階段を上がろうとする。
私は「せめて斜めになっている灯りをまっすぐにしたい」と思い、灯りに手を伸ばして向きを整えようとした。
──ガゴッ。
石が擦れる音がしたと思ったら、階段脇の壁が横にずれている。
「え」
「……おい」
二人の目線は、壁に向かっている。
仁蘭様は静かに怒りを込めた声を発した。
「前も『不用意に物に触れないように』と言わなかったか!?」
「ですよね……!」
まさか灯りが仕掛けになっていたとは思わなかったから!
鬼上司復活の兆しに、私は「わざとじゃないです」と必死に弁明した。
しかしすぐに異変に気付いて耳を澄ませる。
「仁蘭様」
さっきより、聞こえる声が大きくなっている。この隠された部屋の中からそれは聞こえていた。
「この隠し部屋の奥で、誰かが泣いている……?」




