女官長がお怒りです
翌朝、私は素知らぬ顔で喜凰妃様の宮へ向かった。
掃除をしている宮女たちにおはようと声をかけ、いつも通りの自分を装う。
廊下を歩けば庭の木々の根本にハコベの白い花が増えていることに気づき、本格的に春が来たなと思った。
「おはようございます、喜凰妃様」
「おはよう。今日もがんばってね」
朱色の生地に薄紫色の糸で花模様をあしらった襦袢を纏った喜凰妃様は、今日も眩しいほどに美しい。何もかも私たちの勘違いなのではと思うほど、この方は清廉に見えた。
私には今日も代筆の仕事が割り振られ、喜凰妃様への挨拶を終えるとすぐに別室へ移動する。
慈南さんとは廊下ですれ違ったが、目も合わなかった。女官たちに悟られないよう、昨夜のやりとりはすべて「なかったこと」になったのだと理解する。
こんな調子では再び話を聞くのは難しそうだ。仁蘭様に言われた通り、おとなしくしながら機会を窺うしかないか────。
と思っていたら、角の部屋から出てきた女官とばったり出くわす。
「わっ」
「きゃあ!」
ぶつかりそうになって、二人して悲鳴を上げた。私は持っていた文箱を落としそうになり、咄嗟に胸に抱える。
突然部屋から出てきたのは、女官の笙鈴だった。私が流千と蔵に閉じ込められたとき、あそこへ行くように誘導した女官である。
私に気づくと、笙鈴さんは気まずそうな顔をした。
ほかの女官たちに命じられて仕方なくあんなことをしたんだろうけれど、さすがにきれいさっぱり忘れることはできない。
私は無言で立ち去ろうとするも、笙鈴さんの左手が指先から甲にかけて赤くなっているのに気づき足を止めた。
「それは?」
「あ……」
笙鈴さんは、ぶつかりそうになったことで捲れてしまった袖をさっと元に戻し、衣の中に隠した。
目を伏せて黙り込む彼女の反応から、ある程度の予想はつく。
「私の部屋の扉に何か塗ったのはあなたね?」
「っ!」
昨夜、慈南さんが警告してくれたとき扉に細工した犯人が誰なのかまでは教えてくれなかったけれど、その命じられた女官というのは笙鈴さんだったのだろう。
塗るときにうっかり自分にかかってしまったのか、笙鈴さんの手は見事に被れている。
私は文箱を廊下に置き、少々強引に笙鈴さんの手を取った。
「やだっ! 見ないで、やめて!」
「そんなこと言っている場合? こんなに赤くなって湿疹まで……かなり痛むでしょうに」
「…………」
「医官に見せなかったの? これだけの症状が出ていたら薬をもらえるでしょう?」
症状を見せれば、塗り薬くらいはもらえるはず。
私は話しながらも、彼女の左手を裏返して指先や手首全体まで確認した。
笙鈴さんは涙目で答える。
「理由が言えない怪我は診てもらえないわ……」
なるほど。確かになぜこんなことになったのかを説明するには、私にしようとしたことを話さなければならなくなる。
医官が女官らに苦情を訴えることはないとはいえ、笙鈴さんからすればとても言えなかったのだろう。私への嫌がらせは許せないけれど、この人もまた被害者なのだと思うと哀れだった。
「こっちへ来て」
私は文箱を再び持ち、笙鈴さんにそう言った。
彼女は少し迷った素ぶりを見せるも、おとなしく私の後ろをついてくる。
後宮の裏庭に出るとそこら中に広がっているハコベのそばでしゃがみ、笙鈴さんを振り返った。
「あの……?」
「この草をたくさん集めて、絞ってその汁を赤くなっているところに塗ればいいわ。被れたときに塗れば、痛みや痒みが治まることがあるとされているから」
笙鈴さんは半信半疑といった様子で、ハコベと私の顔を交互に見る。
きっと「本当に効くのか?」とか「どうしてこんなことを教えてくれるのだろうか」と思っているに違いない。
私は立ち上がり、笙鈴を見下ろして言った。
「怪我人は助けるって決めているの。小さな怪我が命を脅かすときだってあるんだから、自分の体は大事にして」
笙鈴さんは俯き、唇を嚙んでいたがこくりと頷いた。
同情などいらないという気の強さと、でもそうも言っていられないくらい痛い……ということが伝わってくる。
今もなお謝らないのはどうかと思うが、この状況でこの気の強さを保てるところは感心してしまった。
「あなたたち、何をさぼっているの!!」
突然、厳しい声が飛んできて私たちはびくりと肩を揺らす。
廊下に目線を向ければ、そこにはこちらを睨む女官長がいた。ただ庭先に出ていただけなのに、なぜか鬼気迫る様子で私を睨んでいる。
「おまえには罰を与える! こっちへ来なさい!」
「えっ!?」
女官長はまっすぐに私の下へ近づいてきて強い力で腕を掴み、宮の中へ連れ戻す。まるで笙鈴のことなど目にも入っていないようで、その場に置き去りにした。
罰を与えるって一体どんな!?
懲罰室があるのは知っていて、そこで監禁されるのか鞭打たれるのかと色々な想像が頭を巡る。
仁蘭様に自重すると言ったそばからこんなことに……!
「あ、あの」
笙鈴さんが蒼褪めているのが目に留まる。
私は女官長に引っ張られながらも彼女に言った。
「それ! 絞って塗るのよ!」
「今そんなこと言っている場合!?」
笙鈴さんは慌てふためきながらもそう叫ぶ。
でも、彼女に私を助けることはできないとわかっている。
自分のことは自分で何とかしなきゃ……!
どんな言い訳をすれば軽い罰になるだろう?
私は必死で考え続ける。大した言い訳が思いつかないまま女官長に連れてこられたのは、予想していた懲罰室ではなかった。
豪奢な竜の飾り細工に、天井から吊るされた漆黒の御簾。
喜凰妃様の宮の中でもまだ入ったことのない部屋だった。
「おや、いかがしたかな?」
中にいたのは、仙術士の禅楼様だ。薄青色の如法衣の上に右肩から黒い覆肩衣を合わせた姿で、黒檀の椅子に座って机に向かっている。
突然やってきた私たちを見ても、迷惑そうな顔をすることもなく穏やかな顔つきだった。この人が流千に罠を……と思い出すと、笑顔の裏にある残酷さが恐ろしくなり私は咄嗟に身構える。
女官長は私の腕を掴んだまま、禅楼様に見せるかのように後ろから強く押す。
「禅楼様、どうかお力をお貸しください。この子はきっと悪い物に憑かれているのです! 働きが悪いし反省する様子もなく、女官と揉め事を起こしています!」
「私は何にも憑かれてなんて……それに揉め事も起こしていません!」
私は慌てて反論した。
でも女官長は聞く耳を持たない。
「ほら、このように生意気で可愛げもない!」
「それは生まれつきでは!?」
「鬼病に違いありません!」
「私はいたって健康です!」
薬を飲みたがらない人の間では『病は鬼が引き起こすもの』と信じられていて、回復が難しい病に罹るとそれを『鬼病』と決めつける。
まさか私がそうだと言われる日が来るとは。
さすがに酷いと思って反論するも、女官長は私を掴む手を緩めず「この者は罰しなければ」とさらに憤っていた。
「喜凰妃様はお優しいので女官を注意なさらないのです。禅楼様からきつい罰を与えていただきたく、ここへ連れてきました!」
禅楼様はしばらく黙って聞いていたが、小さく息をついた。
この方が女官長を窘めてくれれば私は逃げられるけれど、それは無理だとわかる。
「少し早いが、新しい術を試すにはちょうどいい」
人を虐げることを喜んでいるかのような目にぞっと背筋が凍る気がした。
この人は、私のことを同じ人間だとは思っていないのだ。
「新しい術……?」
一歩下がろうとしたものの、女官長にしっかり掴まれていて逃げられない。
白い呪符を持つ禅楼様の右手が私の眼前に翳されてすぐ、強烈な眠気に襲われる。
瞼を開けていられなくなり、全身の力が抜けていくのがわかった。
 




