パワハラか心配か
慈南さんの忠告を受け、女官として与えられた部屋の扉をきれいに拭いた後。
私は流千と神獣様の様子を見に、ひそかに自分の宮へと戻った。
空には丸い月が浮かんでいて、黄金色がとても美しい。
食事は運んでもらえる分があるし、今朝は私が仕事に出る前に流千が食べたいと言った醬大骨 や緑豆の粥をたくさん作って鍋に置いてきたからそこは問題ない。
流千はちゃんと神獣様のお世話をできているかな?
二人がじゃれているところを想像すると、自然に笑みが浮かぶ。
けれど、私が宮に戻ってきて見た光景はまた別のものだった。
「妃の寝台で寝る仙術士がどこにいる? 休むなら神獣様と一緒に宮廷へ来てそこで休め」
私の部屋で、寝転がる流千の掛け布を強引に引っ張っているのは仁蘭様だ。久しぶりに鬼の形相で流千を睨んでいる。
流千は神獣様と共に寝台の上にいて、掛け布を掴んで必死の抵抗を見せていた。
「いーやーでーすっ! 俺がどこで寝ようと仁蘭様には関係ないですよね! 第一、仁蘭様だって一度采華の寝台で寝たじゃないですか!」
「あれはおまえが召喚なんぞしたからだ!」
「ちっ……覚えていたか」
仁蘭様と流千の攻防はしばらく続き、私と神獣様はそれを無言で見つめている。
おそらく流千は自分の部屋が散らかりすぎてこっちで寝ていたのだ。私は気にしないけれど、仁蘭様は品位にこだわる方だからこんなに怒っているのだろう。
「まだ弱ってるのに酷いです」
「十分に回復したように見えるが?」
「え~、わかりましたよ。仕方ないですね、采華の作った醬大骨を食べたら行きます」
「にゃ」
「あんな濃い物が食べられるなら元気だろうが」
言われてみれば、豚の骨付き肉を甘いたれで煮込んだ醬大骨は療養中の人が口にするものではない。ただ食べたいだけなのでは……?
渋々といった顔で起き上がった流千は、扉の前にいる私を見つけ「あれ、来たんだ?」と言って笑った。
こちらに駆け寄ってきた神獣様を抱き上げた私は、「ただいま戻りました」と笑顔で告げる。
「仁蘭様、いらっしゃいませ」
「…………あぁ」
振り返った彼はこちらをじっと見ていて、なぜか不自然な間もあった。
何かあったのだろうか?
私も思わず見つめ返すが、その表情からは何もわからなかった。
「今日は史亜様は一緒じゃないのですね。流千を宮廷に、とは?」
ここで保護するのではだめなのだろうか?
この古びた宮は神獣様にふさわしくない上に、警備上の問題があることはわかっているのだけれど……。もうここを出たら神獣様に会えなくなるのかと思い、少し寂しく思った。
「流千がまだ療養を必要とする状態なら、神獣様と共に宮廷で匿った方がいいと思ったのだ。それに、おまえの寝台で寝るようなやつをここに置いておくのもよくないだろう」
「え? 私は構いませんよ?」
「……俺がよくない」
よくないのか。
やはり仁蘭様は品位に厳しい。
流千は寝台に腰かけ、腕を大きく広げて伸びをする。寛いだ空気を放つ流千を、仁蘭様がじとりとした目で睨んだ。
「んー、諦めて宮廷へ行きますか。あ、采華。醬大骨、まだ残ってるから一緒に食べようよ」
「あれを?」
流千に誘われたものの、今これから脂でベトベトの骨付き肉を手づかみで食べるのかと思うと躊躇ってしまう。
仁蘭様のいるところであれを……?
なぜか恥ずかしくなり、「私はいいかな」と断る。
「みゃあ」
「神獣様はたくさん食べて大きくなりましょうね」
何でも食べる神獣様は、嬉しそうに尻尾を振っていた。
ぴょんと私の腕から飛び降り、廊下を走っていく。
流千は立ち上がるとその後を追い、一緒に厨房へと消えていった。
部屋には私と仁蘭様だけの二人きりになる。
「あの、お茶を淹れましょうか?」
仁蘭様がここで自ら何かを口にしようとしたことはない。史亜様がいらっしゃったときは、渋々といった様子で亀料理を食べたけれど……。
お茶を出したところで飲まないだろうなと諦め半分で言ってみれば、予想外の答えが返された。
「あぁ、もらう」
「えっ」
「どうした?」
「いえ、あの、仁蘭様はいつも警戒なさっているので珍しいなって」
意外なことがあるものだ。
驚く私にゆっくりと近づいてきた仁蘭様は、困ったように目を細めて笑った。
その瞳が優しくて、心臓がどきりと音を立てて跳ねた気がした。
こんなの仁蘭様じゃない。何かがおかしい……!
見つめ合っていると緊張感が高まり、胸が苦しくなった。
「おまえに言っておきたいことがある」
しっかりと視線が絡み、目を離すことができない。
今にも逃げ出したい心地なのに、一歩も動くことができなかった。
「な、何でしょう?」
うわずった声で尋ねる。
仁蘭様は、静かに落ち着いた声音で言った。
「目的を果たすまで解放してやることはできないが、おまえにはもう勝手に傷つく権利もなければ死ぬ権利もない」
「は?」
どういうことなの?
私は瞬きも忘れて仁蘭様のお顔に見入る。
美しい人の真顔は怖いと仁蘭様と出会って知ったけれど、今は恐ろしいとは思えなくて、こちらの反応を窺っているように感じた。
私がちゃんと理解したか不安に思っている?
まったく理解できていないですよ!
傷つく権利もなければ死ぬ権利もないって、それはもはや取引ではなくただの支配なのでは?
最初に言われた『死んだらそれまで』から『死ぬ権利もない』に変わったのは、いいことなのか悪いことなのかもわからなかった。
私の反応の鈍さに、仁蘭様も次第に戸惑いの色を滲ませる。
いやいや、戸惑うのはこっちですからね!?
「すみません、意味がわかりません」
「…………」
しばらくの無言の後、仁蘭様は改めて言った。
「くれぐれも無茶はするな」
「わかりました……」
今度はいきなり優しくなったので、私はますます混乱する。
仁蘭様は一体どうなさったのだろう?
実はちゃんと優しいところもあるのだと知っていても、いざ面と向かって「無茶するな」と言われたら素直にお礼も言えなくなってしまった。
もどかしい思いで俯いていると、さっき厨房へ向かった流千がまた戻ってきて声をかけてくる。
「采華、せめて粥は食べていけば? 女官たちにまたいつ食事を抜かれるかわからないよ?」
その一言ではっと思い出す。
そうだ、女官といえば慈南さんだ。
「どうした?」
顔色を変えた私を見て、仁蘭様が尋ねる。
せっかく仁蘭様と流千が揃っているのだから、今ここで話しておかなければいけない。
私は顔を上げ、やはり美明さんは新年の宴の夜にいなくなっていたことを伝えた。




