仁蘭side④
「……どうしたんだ? そんな顔をして」
黄色の衣装に着替え、玉冠を被った玄苑が衝立から顔を覗かせてこちらを見つめていた。すでに化粧も自ら施していて、冠から垂れ下がる糸状の装飾越しであれば美麗な顔立ちの青年に見える。
生まれたときから男として振る舞っているので、さきほどまでの女官姿よりもこちらの方がずっと自然だった。
仁蘭は小さく咳ばらいをして「何でもありません」と答える。
(感情など捨てろ。今までだってそうしてきた。これからもできるはずだ)
心の中でそう言い聞かせる。
しかし、一度乱れてしまった感情は思うように抑えられなかった。
「そうだ、大事な話を忘れていた。采華妃のことなのだが」
「っ!」
その名前を聞くだけで、一体何を言われるのかと身構えてしまう。玄苑がそんな仁蘭の反応に気づかないふりをして話を進めたのはありがたかった。
「地下を調べれば美明の行方もそう遠くないうちにわかるだろう。美明が見つかれば、采華妃には褒美を取らせるつもりだ」
「それは范家の店を助けるだけではなく……ですか?」
「あぁ、動機はどうあれ結果的には仁蘭のことも救ってくれたわけだから。范家のことに加えて、采華妃を後宮から出しておまえに嫁がせるのはどうだろうか?」
「は?」
仁蘭は驚きで目を瞠る。
そこまで驚かなくても、と玄苑は不思議そうな顔をした。
「神力を与える呪符が欲しいと言ったのも、采華妃のためなのだろう? 仁蘭がそこまでして誰かを助けようとするのは、その人のことが本当に大事だからと思ったのだ」
「それは……」
あのときはただ采華が望むようにしてやりたかった。
流千を失いたくないと必死で看病する采華を見ていたら、自分にできることをしてやりたいと思ったのだ。
(俺は采華を大事に想っているのか?)
仁蘭の表情には困惑が浮かんでいる。
玄苑はそんな弟を見て、呆れたように笑った。
「ははっ、まさか気づいていなかったとは。……私としては、おまえがそこまで想う相手を後宮に留めたくはない」
「しかし」
「私はおまえを自分の分身だと思っている。だからこそ、私の手足のごとくおまえを使ってきてしまった。そんな私が何を言うのかと思うかもしれないが、せめて仁蘭にだけは人並の幸せというものを知ってほしい。これまでのおまえならともかく、采華妃と出会ってからはそれが叶うかもしれんと思うようになったのだ」
「…………」
仁蘭は戸惑っていた。
(宮廷の腐敗を一掃することだけを考えて生きてきて、結婚など考えたこともなかった。人並の幸せが何なのかもわからない。それに、采華には俺の出自をすべては明かせない)
ぎゅっと拳を握り締め、肯定も否定もできずにいた。
沈黙が続き、仁蘭は渋面で視線を落とす。
玄苑は「少し急ぎすぎたか」と呟いてから苦笑いをした。
「もちろん無理強いはしない。ただ、采華妃への褒美として良い嫁ぎ先は用意してやった方がいいと思うぞ」
玄苑の言うことはもっともだ。范家の店が助かれば采華が後宮にいる理由はなくなり、褒美として妃の位を上げたところで意味はない。
采華の目的は妃として地位を築くことではなく、生家を守ることなのだから。
(調べによれば采華には一つ下の弟がいたな……。家を継ぐのはおそらく弟なのだろう)
後宮入りまでして己の身を尽くして店を救ったとしても、采華は家に戻ればいずれ他家に嫁がなくてはならなくなる、と考えるのが普通だった。
(采華が誰かに嫁ぐ? 俺以外の誰かに、采華があの笑顔を向けるのか? 手を取り合い、笑い合って生きていくのか? 俺の知らない場所で、誰かと)
考えただけで体の奥が熱くなるのを感じた。
しかもふと頭をよぎったのは、今も采華のそばにいる流千のへらりと笑う顔だった。
当人同士にその気はなさそうだが、流千の気安い態度を思い出すとこれから心変わりする可能性だってないとは言い切れない。
(あいつにだけはやりたくない)
仁蘭はぱっと顔を上げ、玄苑を見た。
迷っていては機を逃す。采華を失うわけにはいかないと強く思った。
「采華のことは俺に任せていただきたい」
玄苑はそれを聞き、穏やかな笑みを浮かべて頷く。ただし、条件を付けるのは忘れなかった。
「今すぐではないにしても、采華妃の意見も聞いて承諾を得てから妻にすること。おまえはわかりにくいから、きちんと言葉にして気持ちを伝えること。わかったね?」
「…………承知しました」
少しの間を空けて、仁蘭は返事をした。
自分のどこがわかりにくいのか? 部下には明確に指示を出してきたつもりだったが、わかりにくい部分があったのだろうか?
腑に落ちない部分はあるものの、玄苑の言わんとすることは理解できた。
(今回のことが解決すれば、采華と話をする)
仁蘭はそう決意した。
──史亜です。謁見のお時間にございます。
扉の向こうから、本物の史亜が玄苑に声をかける。
「では、行こうか」
玄苑は大きく膨らんだ袖を翻して扉へと向かい、仁蘭もまたその後に続いた。




