仁蘭side③
(俺は紅家の庇護下で、真実を知るまでのうのうと生きてきてしまった)
紅家の兄は二歳上で、仁蘭のことを本当の弟だと思っている。
父に似て穏やかで優しい気性の兄は、学問が好きでよく書物を読んでいた。自分が紅家に居続ければ、兄の邪魔になるのでは? と悩んだ仁蘭は人知れず姿を消した方がいいのではと思い悩む日々だった。
ところがある日、紅家の父が療養する屋敷に賊が侵入するという事件が起きた。
(一体なぜ……!? 紅家は中立、父が襲われる理由がない)
金持ちを狙った賊ならば、もっと家格の低い家を狙う。
嫌な予感がした仁蘭は、護衛が止めるのも振り切って馬を走らせた。
そこで見たのは、敵味方判別がつかないほどの数多の死体。紅家の父は無事だったものの、最初に赤子の仁蘭を匿った叔父が犠牲になった。
この日、本当は父を見舞う予定だった。けれど、一緒に向かうはずだった兄の都合で「夕暮れまで出立を待ってほしい」と言われて仁蘭は難を逃れていた。
(狙われたのは俺だったか)
賊の生き残りは、仁蘭の赤い髪を見ると途端に狙いを定めて刀を振るってきた。それを見た仁蘭は、一撃で賊を倒しながらそう思った。
(自分さえいなければ……)
無表情で敵にとどめを刺したとき、黒ずくめの少女が現れて手を差し伸べてきた。
『おまえに会いたいという方がいる』
紅家の養父によれば、少女は東宮である玄苑の部下だった。
(あの日、俺をここへ連れてきた美明は玄苑様の唯一の友だった)
美明は玄苑の乳母の娘で、幼少期から玄苑のためだけに生きてきた。仁蘭が何も知らず名家の子息として育てられている間も、ずっと玄苑に寄り添っていた。
(今、玄苑様を支えられるのは俺しかいない……だが、俺の存在が露呈すれば玄苑様の治世に影響してしまうだろう)
皇族として籍のある皇子と公主は十二人。
皇子たちは、天遼国の成人年齢である十七歳には達していない。
(流千の使った召喚術は、髪の毛こそ俺の物だったが……呪符に記した条件に合致するのは間違いなく俺しかいない。玄苑様の性別は女性なのだから)
おそらく流千は、仁蘭が皇族であることに気づいている。それでいて明言はせず、仕事を与えろと交渉してきたのだった。
(孫大臣の側に付かれるよりはずっといい)
今ここで仁蘭の存在が公になれば、必ず自分を担ぎ出そうとする者が出る。
(俺は本来生まれるべきではなかった。だが、玄苑様一人にすべてを背負わせるわけにはいかない)
美明に連れられて初めて玄苑のもとを訪れたとき、ずっと東宮だと思ってきた人が実は女性で異母姉であることを打ち明けられた。
紅家を襲わせたのは医官が亡くなる直前に出生の秘密を打ち明けていた官吏による策略で、「玄苑のため」という大義名分を掲げた末の暴挙だった。
けれど玄苑はそれを望まず、仁蘭を生かそうとしていた。
ずっと彼女は一人で戦ってきたのだと悟った仁蘭は、玄苑のために尽くそうと決意する。
(俺にできることは、せめてこの方の国づくりをこの手で手伝うこと。それに……もうこれ以上、俺のせいで誰かを死なせたくない)
玄苑の着替えを待つ間、黙って控えている仁蘭に玄苑は衝立越しに声をかける。
「我らのことを知る者は宰相と乳母、それにおまえたちわずかな腹心だけか。考えてみればよく父上を騙し通せたものだ。父上が突然亡くなったのは『もしや母上が……?』と思ったが、あの狼狽ようを見るに母上にとっても想定外だったのだろう。年を重ねて自我を持った面倒な皇帝などいらぬと、孫大臣が動いたと考えるのが妥当だ」
この二十三年間に、不審な死を遂げた者たちは何人もいた。口には出さないだけで、そのうちのいくつかは玉静による謀殺だったはず……と二人は考えていた。
「母上は皆を騙したにも拘わらず、私を己の思う『名君』を育てようとした。『国を守る、良き皇帝になるのです』とずっと言い聞かせてきた。後宮の醜さを体現したような人が、子には清廉であることを求めるなど……あまりに滑稽だと思わないか?」
玄苑の口ぶりに悲哀はない。
仁蘭にとって、彼女がすでに前を向いてくれていることは救いだった。
「幼い頃はそんな母上を恨み、いっそ皆を道連れに何もかも終わらせてやろうかとも思ったものだが、懸命に生きる民には宮廷の諍いなど関係ない。彼らが気にするのは皇帝が誰なのかではなく、どんな国にしてくれるかだ。私のような紛い物でも皇帝になれるのなら、不正に手を染めるやつらを一掃し民が食うに困ることのない豊かな国を作るのもいいだろう」
「玄苑様は民を想う立派な皇帝です。紛い物など……そんな風におっしゃらないでください」
仁蘭は本心からそう思っていた。
(腐敗した宮廷でまっすぐに生き続けるのは難しい)
キュッと紐を結ぶ音がして、玄苑の支度は手早く進められていく。
これまでは、美明がずっと玄苑の身支度を整えていた。二年前、美明を喜凰妃の宮へ女官として向かわせてから、玄苑はずっとこうして己の手で皇帝の姿を作り上げている。
(俺たちのことを知る者はもうほとんどいない。だが、流千に知られてしまった)
初めて出会ったとき、流千は言った。『こちらにも色々な事情がありますが、仁蘭様にも何か複雑な事情があるように見えました』と。
流千の笑みを思い出すと、無性に苛立ちが募る。
(召喚術を使ったのも、采華ではなくあいつが言い出したことだろう。口先から生まれてきたような調子のよさに、胡散臭い笑み……しかも人を金づる呼ばわりした挙句、盾にするとか何とか無礼にもほどがある。それにあいつは采華に近すぎる)
流千のことを思い出せば出すほど、仁蘭は険しい顔になる。
取引をしてしばらく後、流千はたった一人で宮廷にやってきた。
そして、危険な役目を引き受ける代わりに「僕に何かあったら采華を匿ってください」と願い出てきたのだった。
(こんな俺に己を捧げるほど采華が大事なのであれば、二人で逃げればよかったのだ。昔からよく知る関係だと言っていたが……? 采華がどうしても薬屋を守りたいと言って譲らなかったのか?)
仁蘭は、最初は流千の願いを笑ってあしらおうとした。
『おまえ、俺が貴族共に何と言われているか知らないのか?』
──あいつが通った後は草も残らぬ。
誰かを守るのは不得手だ。考えたこともなかった。
しかし流千は笑いながら言った。
『僕よりマシでしょう? 僕は……いずれ何かやらかす気がします!』
『何を言っているんだおまえは』
ふざけているのか本気なのか、流千はつかみどころのない笑みを浮かべて「お願いします」と言ってきた。
まるで仁蘭がこの追加の取引に応じるとわかっているかのようで癪に障る。
だが、使える仙術士がいれば後宮内の調査は格段にはかどる。紅家出身の春貴妃のところに仙術士がいないということもあり、仁蘭は流千の提案に乗った。




