仁蘭side②
(采華のことはほかの部下よりも気にかかるがそれはまだ取引をして日が浅いからで、しかも言動が理解できない変わった娘だからだ。特別に想っているわけでは……ない、はず)
そんなことがあるわけない。
信じたくない。
でも初めて会ったときの強い眼差しも、怯えて許しを請う声も、仁蘭に己を労われと諭す口ぶりも全部はっきりと覚えている。
貴族たちからは疎まれ、恐れられる仁蘭の体を気にかけるお人好しな娘。報告のために寄越されるはずの文には、『ちゃんと眠れているのか?』『無理は禁物だ』などと仁蘭を案じる内容がいつも書かれていた。
『私にとって仁蘭様は人間です。──命はお大事に』
『私は仁蘭様にも無事でいてほしいんです……!』
噓偽りのない黒い瞳を見ていると、捨てたはずの感情が胸のうちで動くのを感じた。
いつでも気丈な采華を期待して、でも悲しい顔をすれば助けたいと思って自ら動いてしまう。
気づけば自分にとって彼女は道具ではなく、范采華という一人の人間になっていた。
腐敗した宮廷で生き抜くために、他人は信用せず「人を人だと思うな」と自分に言い聞かせてきた仁蘭にとってはありえない変化だった。
(だから何だ? 俺が采華を特別に想っていようともどうにもならない。采華は妃で、美明を見つけるために取引をした相手だ。それに……あのことは絶対に明かせない)
仁蘭は強く手を握り締め、いつものように感情を抑え込もうとする。玄苑にも「采華のことは勘違いだ」と否定するつもりで、先へ進んでいた彼女の後を追った。
「陛下」
呼びかければ、玄苑は少しだけ振り返る。
その目は少し寂しげで、さきほどまでの楽しげな様子はない。仁蘭は何かあったのかと引っ掛かりを覚えた。
「やはり後宮に行くのはよくないな。貴族連中が勝手に作り上げた後宮のことなど知ったことかと思っていたがこうして妃の一人に会うと、思いのほか罪悪感があるものだ。あのように若い娘たちがずっと後宮という檻に閉じ込められ、永遠に訪れることのない皇帝を待っているのは哀れだ」
女性である玄苑に後宮を訪れろというのは無理な話だった。
これまで様々な儀式を乗り切ってきたが、後宮で妃と閨を共にするということだけはごまかしようがない。
どれほど美女を集めようと、玄苑が後宮に通うことはないのだ。
「後宮入りするのも貴族の娘に生まれた責務だから諦めろ、ずっとそう思ってきたのにな。まさかここまで感情を揺さぶられるとは思わなかった」
己がこれまで皇帝として国に身を捧げてきたように、貴族の娘たちにもまたその責務があると疑っていなかった。
望んで後宮入りした娘たちも然り「現状を受け入れろ」と、冷淡に見て見ぬふりをし続けることでほかの改革に注力してこられたのだ。
(采華に会ったことで、妃らを捨て置くことに罪悪感を持ってしまうとは……。しかし後宮を今すぐ廃することはできない。無用な反発を招くのは避けるべきだ)
仁蘭にはどうすることもできず、歯がゆさだけが残る。
だが、玄苑はすぐにいつもの凛々しさを取り戻して告げた。
「わかっている。今はまだその時ではない」
「……」
「次代に任せられるその時まで、私も妃もこのままだ。そんなことは覚悟の上で新皇帝の座に就いたのだ」
玄苑はそれから一言も話さなかった。
ふと漏らした己の弱さに蓋をして、前を向いたまま歩き続ける。
隠し通路を使い後宮から宮廷へと戻ってきた二人は、玄苑の私室へと密かに入った。
玄苑が女官のふりをするのはここまでで、またいつものように皇帝陛下として振る舞わなければならない。
玄苑は着替えが用意してある奥の間へ入り、仁蘭は美しい山々が描かれた六曲一隻の衝立の手前で控えていた。
衣擦れの音がしばらく聞こえていた後、玄苑がふと思い出したかのように口を開く。
「范家が営む薬屋は、よく効く薬を扱っているそうだな。この壊れた体を何とかすることができるだろうか?」
「……遣いの者を向かわせます」
「あぁ、頼む」
玄苑は医官が調合した特別な薬を、八歳のときから十五年間も飲み続けている。
女性らしさを抑え、より男性の体に近づけるように。体を変えるということは相当な負担がかかり、近頃では体調を崩すことも多くなっていた。
「亡き母上は、後始末もせずに逝ってしまわれた。迷惑なことだな」
玄苑の声が衝立の向こう側から聞こえてくる。
そこに悲哀はなく、こうして口に出せるほど割り切っている様子が伝わってきた。
(玉静妃は、自分がついた嘘がどのような結末を迎えるか想像していたのだろうか? いや、おそらく何も考えてはいなかっただろうな。ただ、皇后として一番先に男児を産むことしか考えていなかった)
仁蘭はたった一度だけ遠目に見た先帝の皇后、玉静の空虚な瞳を思い出した。
建国記念の祝典で、民を前にして皇帝の隣で立つ小柄な妃。東宮である玄苑の母なのに、本来あるはずの自信や幸福感などまるで持たない人形のように表情を失くした人だった。
先帝には、皇后をはじめ正式な妃だけでも五十人ほどいた。
十五歳で皇后となった玉静が「何としても東宮となる男児を産むのだ」と生家からの期待を一身に背負わされ、本人もまた「そうなるに違いない」と強く思い込んでいたのは有名な話だ。
彼女は「次期皇帝の母になる。私はそのために存在している」と一心に信じ続けていたそうだ。
しかし、強すぎる思いは悲劇を招いた。
「もしもおまえの方が数日でも早く産まれていれば、何もかもが違っていたのにな。この国は私に騙されずに済んだのだ」
「……騙したのは玄苑様ではなく玉静様です。それに、騙された者たちが愚かなだけです。すべてがあのとき明るみに出ていれば、玄苑様が苦しむことはなかった」
仁蘭は冷めた目でそう言った。自分たちは旧時代の尻拭いをさせられているという悔しさが、真実を知った日から消えないままだった。
二十三年前の秋、後宮で二人の赤子が誕生した。
一人は玉静の産んだ子で、もう一人は貴族の中でも身分の低い妃の子。
東宮にこだわる玉静は医官や宦官らを金で取り込み、産んだ女児を男児だと偽らせた。
(性別を偽っていることが露呈すれば死罪は免れない。いくら望まぬ嘘であろうとも、玄苑様は生きるために東宮で有り続けるしかなかった)
一方で、身分の低い妃は玉静の執念を知っていたため「このままでは二人とも殺されてしまう」と怯え、生まれたばかりの男児を連れて後宮から逃げ出した。
(俺が先に生まれていたとしたら、おそらくは赤子のときに殺されていただろうな。俺がこうして生きていられるのは、皮肉なことに後宮の者たちが愚鈍だったからだ)
逃げ出した妃は紅家で護衛をしていた弟のもとで匿われることになり、生き延びた男児は事情を知った紅家の当主によって密かに育てられた。二男、紅仁蘭として。
(紅家の養父は、母と俺を哀れんでいた。弱者が踏みにじられる世をよしとない、優しい人柄だったから。これが別の貴族家であれば、やっかい者でしかない俺はとっくに始末されていたに違いない)
本当の母は乳母としてずっとそばにいたが、仁蘭が十歳を迎えると紅家の遠縁の貴族の後妻となって出ていった。それ以来、便りはないが人づてに元気でいることは聞いている。
仁蘭が真実を知ったのは十二歳のときだった。養父が病で亡くなる間際に本当のことを明かし、自分が皇族の血を引いていることを知ったのだった。




