仁蘭side①
紅家の二男、紅仁蘭。
天遼国きっての名家に生まれ、十五歳で宮廷に上がってから瞬く間に皇帝陛下の懐に入り込み、異例の出世を果たした若き尚書……というのが表向きの顔である。
仁蘭は、尚書といってもその実は皇帝直轄の枢密院に所属する側近だ。
宮廷のみならず国内各地に情報の網を張り、貴族たちを徹底的に調査する。その結果により、不正を行っていた者たちは容赦なく排除する役目を負っていた。
公の場で皇帝陛下からの裁きを言い渡すこともあれば、秘密裏に命を奪うことも躊躇わない。
すべてはこの腐敗した宮廷を正すため、八年近く皇帝陛下のために働いてきた。
仁蘭を懐柔しようと賄賂を寄こしたり、美女を送り込んできたりと様々な謀略も見られたが、彼の行動は一貫して変わらなかった。
(愚かな者たちだ。自分たちの保身ばかりで国のことなど考えもしない)
皇帝陛下の名代として、不正に手を染めた者たちは容赦なく処断する。
紅仁蘭の名が記された喚問状を受け取った者たちは、いよいよ自分の番が回ってきたのだと絶望した。
──次は誰が裁かれるのだ?
──素直に従った方がいい。抵抗しても斬られるだけだ。
旧時代から権力を握っていた者、そこから甘い汁を吸っていた者たちの間では次第に恐れや嘲りが広まっていく。
──皇帝の犬が……! あれに狙われると一族すべてが憂き目にあう。どうにかしなければ!
──当代の皇帝陛下は我々の存在を軽んじているのでは? この国を治めてきた我らには、それ相応の役職や褒美があって当然なのに……! 我らは生まれながらに尊い存在であって塵芥に過ぎぬ民とは違うということがどうしてわからないのか?
──今や孫大臣しか頼れる方はいない。孫大臣なら紅仁蘭をどうにかしてくれる。
宮廷は、皇帝派と孫派に分かれ始めていた。
(この国の貧しさをあいつらはわかっていない。このままでは他国に飲み込まれる)
今この国は、先代皇帝まで三代続いた浪費と無策によって財政難に陥っている。
一部の貴族の違法行為により、隣国に塩や穀物が多く流れていることも問題だった。あちらを片付ければこちらで膿が見つかり……と八年経っても仁蘭の役目は終わらない。
宮廷の中央にある先代皇帝が作らせた朱色の回廊は金銀の彫り物が至るところに飾られていて、そこを歩くたび「これを作らせるためにどれほどの財が注ぎ込まれたのか」と怒りを覚えた。
『いつもそんな恐ろしい顔で歩いていたら、仁蘭が婚期を逃してしまうな。でも、そうさせてしまったのは私か……どうしたものか?』
報告のために寝宮へやってきた仁蘭を見て、皇帝がそう言って困り顔で笑ったことがあった。
右側にわずかに首を傾けながら目を細めて笑う仕草は、その人が皇帝陛下としてではなく玄苑という一人の人間として話しかけるときによくする癖だ。
今もまた、そのようにしながら竹林を歩く仁蘭に問いかける。
「怒っているか? 勝手にいなくなったこと」
腰まである長い濃茶色の髪を後ろで一つに結び、普段なら絶対に着ない華奢な骨格がわかってしまう女官の衣装を着た史亜──いや、玄苑が顔色を窺ってくる。
悪いことをしたという自覚はあるようだが、仁蘭なら許してくれるだろうという思いが透けて見えた。
仁蘭は周囲を警戒しつつ、前を向いたまま答える。
「私より浩林が怒っているのでは? 護衛を置き去りにするのは困ります」
「それはすまない。で、その浩林は?」
「離宮を探しに行かせました」
「そうか。でも、『すぐに戻る』と書置きはしてきたのだから許してほしいな。伝えておこうかとも思ったのだが、あいつは生真面目だから事前に話したら絶対おまえに言いつけるだろう?」
玄苑は、涼しい顔でそう言った。
それを横目に見て、仁蘭はため息を吐きそうになるのをぐっと堪える。
(今までこんなことはなかったのに……そんなに神獣を見たかったのだろうか?)
玄苑は『史亜』と名乗り、采華の宮を訪ねた。
史亜というのは仁蘭が神獣の世話を任せようとしていた女官の名前で、今はまだ神獣用の部屋の支度をさせている段階だった。
神獣の存在を報告した際「早く会いたい」と玄苑が言っていたのは覚えていたが、まさか女官と偽って采華の宮へ行ってしまうのは想定外だった。
「でも、困ったな」
「何がですか?」
「采華妃にはまた会おうと言ったけれど、もう史亜という名は使えないだろう? 本物の史亜がいずれ神獣様を迎えに行けば、私が嘘をついたとばれてしまう」
玄苑は腕組みをしながら悩んでいた。
「史亜に別の名を名乗らせればいいのか? でも嘘が増えると面倒だ。采華妃とはこれからも付き合いを続けたいのだ。料理もおいしかったからな」
「怪しげな物を口にされては困ります」
「いいじゃないか。いつもは毒見役が食べてから一刻置いて、安全を確かめた後の冷めきった料理しか食べられないんだから。温かい食事など即位してから初めてだったのだ」
「ですが……」
(本当にまた采華の宮へ行くおつもりなのか?)
難しい顔つきの仁蘭に気づいた玄苑は、その思考を読んで言った。
「約束したからにはまた会いに行くよ。だいたい、今日の目的は采華妃に会うことだったからね。神獣様にはもちろんお会いしたかったけれど」
「……は?」
前を向いたままだった仁蘭が、咄嗟に玄苑の顔を見る。
「それはどういうことですか?」
采華たちとの取引については、包み隠さずすべてを報告してあるからわざわざ確認しにいく必要はない。
玄苑も仁蘭の報告を疑っているわけではないはずだ。
それなのにどうして、と仁蘭は困惑する。
「おまえが珍しく感情を隠しきれずに報告してくるから、どのような娘か気になっていたのだ。それにいくら体がつらかったとはいえ、他人からもらった薬を飲むなんて仁蘭らしくないだろう? 直接会ってみて彼女の人となりを確かめたかった。思いがけず護衛が手薄になったのでこれは今しかないと思ってな? ははっ、実際に会ってみたらあまりにかわいらしくて驚いた」
かわいらしいとはどういう意味なのか?
宮廷ではほとんどいない、裏表のない反応が子どものようでかわいいという意味なのか?
それとも、容姿や振る舞いが愛らしいという意味なのか?
(采華は妃だ。皇帝陛下に気に入られることは悪いことではない)
ただ気が合っただけ、とも考えられる。おそらくそういうことだとは思う。
采華の様子を思い出しても、女官の史亜としての玄苑に心を許していたようにも感じられた。
でもなぜか「そうですか」のたった一言すら言葉が出て来ず、胸の奥に何か重たい物が詰まっている気分になる。
玄苑は仁蘭の顔に戸惑いが滲んでいることに気づき、くすくすと笑いながら説明した。
「別に妃として興味があったわけではない。考えていることが素直でわかりやすくて、かわいいなと思っただけだ」
「…………」
「私のことを信用していないのか? 物心ついたときから男を演じているけれどやっぱり女性を好きにはなれないし、妃として寵愛することはないから安心するといい」
ほとんど予想通りの答えだったが、きっぱり宣言されるとほっと安堵した心地だった。
ただ、自分が何を恐れていたのかわからず疑問は残る。
そんな仁蘭の心情など何もかもお見通しだといった風に、玄苑は耳元でそっと囁いた。
「おまえの想い人を奪うようなことはしない」
その一言に、仁蘭は思わず足を止めた。
玄苑は「信頼されていないなんて心外だよ」と拗ねたように言いながら、長い髪を揺らしてさっさと歩いていく。女官の姿なのに歩き方は堂々とした皇族のそれで後ろ姿にはかなりの違和感があったが、今は指摘することも忘れていた。
(想い人とは? 俺が、采華を?)
仁蘭は知らず知らず眉間に皺を寄せる。




