お食事会
何か悪い知らせでもあるのかと思うほど、仁蘭様の顔つきは焦りすら感じさせるものだった。
「ここにいたか……!」
「仁蘭様!?」
彼の目は、亀と鶏の骨で出汁を取ったスープの椀を持っている史亜様に向かっている。
史亜様は仁蘭様に対し、にこりと笑って言った。
「あら、意外に早かったですね。史亜はこのように神獣様との時間を満喫しておりました」
「…………」
仁蘭様は必死に怒りを堪えている様子で史亜様を睨む。
普通の人なら凍り付くくらい恐ろしい形相の仁蘭様を前にしても、史亜様はずっと笑顔だった。その目はとても楽しそうで、まるで仁蘭様をからかっているように見える。
「神獣様のことは『こちらでよきに計らう』と申し上げ……言ったが、聞いていなかったのか?」
「はい、ですから私がここへ来ました」
「答えになっていない」
史亜様はじっと仁蘭様を見つめ、「何が悪いのですか?」というかのように堂々とした態度で向き合っていた。
聞いていた通り、随分と親しい間柄であることがわかる。
しかも、史亜様の方が仁蘭様より強いような……?
「だって、すぐお会いしたかったのです。私がここへ来た方が早いですし」
二人の会話から、私は何となく状況を察する。
史亜様は、きっと仁蘭様に指示された日時よりも早くここへ来てしまったのだ。神獣様にすぐに会いたかった……とご本人も言っていたし。
もしそうなら命令違反といえば命令違反だけれど、ちょうど私たちも宮にいてこんな風に時間が持てたのだからこれでよかったのでは?
そんなに怒らなくてもいいのではと、私は笑顔で仁蘭様を宥めようとする。
「仁蘭様、どうか落ち着いてください。史亜様と神獣様の対面は果たせましたし、これから保護していただくにしても段階を踏んでからと思えば、初対面は早い方がいいですよ」
「おまえは何もわかっていない」
いきなり全否定され、私はむっとして言い返した。
「何がですか? 神獣様のお世話についてはちょっとわかってきました。何もわからないということはございません」
「…………違う」
仁蘭様は大きなため息を吐き、呆れた顔をして黙り込んだ。怒りは収まったみたいだけれど、とても疲れているご様子だった。
史亜様はそれを見て、くすくすと笑っている。
「せっかくですから、座って一緒に食べません? おいしいですよ」
流千は自分と私の間の椅子を示し、仁蘭様に着席を促す。
私も「どうぞ」と薦めてみた。
「まさかこれは地下の?」
さすが仁蘭様、察しがいい。
神獣様ももぐもぐと食べているのを見て、仁蘭様はげんなりした顔で言った。
「本当に調理するとは……出所のわからない怪しいものをよく食えるな」
「これは作戦です。敵が必要とする物の数を減らすという完璧な作戦です」
流千は真剣な目でそう訴えた。
単に食べたかっただけなのに、すらすらと言い訳が出てくるのは流千らしい。
仁蘭様は、史亜様の手元を見てさらに顔を引き攣らせた。
「史亜も食べたのか?」
「ええ、とてもおいしかったです」
絶句する仁蘭様とは対照的に、史亜様は本当に楽しそうに笑っていた。すっかり空になった碗と皿を見れば、料理を気に入ってくれたのだとわかる。
私は、仁蘭様にも薦める。
女官である史亜様があまり温かい食事を取れないくらいだから、仁蘭様もきっとそうだろう。せめて今くらいは栄養のある温かい物を食べてもらいたくなった。
「亀は滋養強壮にいいですよ。疲労回復にもお薦めです」
「いらん」
「味が苦手ですか? それなら、水菓子にして蜜をかければ食欲がなくてもするっと食べられます。あ、砕いた腹甲と甘草など混ぜて薬を調合しましょうか?」
「やめろ。より怪しい物を薦めてくるな」
力なくそう言うと、仁蘭様は諦めて席につく。
私は大皿に盛ってあった亀の煮込みを椀によそい、仁蘭様に差し出す。
「どうぞ」
「……」
仁蘭様は無言で受け取り、眉根を寄せてしばらく椀の中身とにらめっこしていたものの、ついには匙で掬って口の中へ放り込んだ。
史亜様はその様子が相当におかしかったようで、声を押し殺して笑っていた。
「それなりに、うまい」
「でしょう?」
まさかうまいと言ってもらえるとは思わなかった。
私はぱぁっと笑顔になる。
強引に食べさせている状況ではあるが、仁蘭様には栄養のある物を食べて元気でいてほしい。召喚したときのような弱った姿は見たくないし、元気でなければ亀たちがいた地下の捜索も行えない。
「以前よりよくなったとはいえまだ万全には見えませんよ、仁蘭様。地下室の調べはまだまだ終わらないんですよね?」
「あぁ、罠や隠し扉を見つけたから時間がかかりそうだ。急いではいるのだが……」
美明さんも地下にいるかもしれない。
何も言わなくても、仁蘭様が急いでいる理由は察しが付く。
史亜様の表情にかすかに緊張が走ったのもそのせいだろう。
私は温かいお茶を注ぎながら、仁蘭様に言った。
「焦りは禁物です。まずは仁蘭様のお体あってのお仕事ですよ。つらいときにこそ、おいしいものを食べて体を整えるんです。……大切な人のことを想うと堪らなく苦しいでしょうが、どうか希望を捨てずにお体を労わってください」
「大切な人?」
精一杯の励まししたつもりだったのに、当の仁蘭様はいまひとつのような反応だった。
何のことを言われているのかわからない。目がそう言っている。
私はそんなに的外れなことを言ったんだろうか?
互いに首を傾げて見つめ合っていたら、先に食べ終わっていた流千が神獣様を抱きながら尋ねた。
「結局、神獣様は宮廷で保護するんですか? 史亜様に懐くのも時間がかかりそうですけれど」
これに答えたのは史亜様だった。
「今日は諦めようと思っています。神獣様がお二人から離れたくないのでは、と」
「みゃ」
肯定するように鳴き声を上げられては、史亜様も苦笑いだった。
仁蘭様も今すぐには無理だと判断したそうで、「しばらくここで任せられるか?」と流千に言う。
私は女官として喜凰妃様の宮で働かなければいけないので、毎日ずっと一緒にはいられない。
流千は自分が世話をすると言ってくれて、しばらく神獣様の保護が流千の仕事になった。
「どうか、神獣様をよろしくお願いいたします」
帰り際、見送りに出た私たちに対し史亜様は来たときと同じように丁寧な合掌をした。
仁蘭様は、人に見られては困るといった風に周囲を警戒している。
私は笑顔で史亜様に言った。
「史亜様、また来てくださいね」
「……はい」
背の高い彼女は、私を優しい眼差しで見下ろした。
「神獣様のことがなくても、気軽にお越しください。また一緒に食事をいたしましょう」
私がそう言うと、史亜様は少し驚いた後に顔をくしゃりと歪めて笑った。
そして、仕方ないなという風に何度も頷く。
「はい、ぜひとも」
何度も来てくれた方が神獣様も早く懐くだろうし、それを抜きにしても私も史亜様とまた話がしたいと思った。
仁蘭様に「行くぞ」と急かされた史亜様は、歩き出してから少し振り返って私を見た。
「また必ず会おう、采華殿」
振り返った史亜様は、今までの雰囲気とはがらりと変わり凛々しく力強い雰囲気だった。さきほどまで一緒に笑い合い、食事をしていた人と同じようには見えない。
驚いている一瞬のうちに、彼女は仁蘭様と共に遠ざかっていく。
「史亜様は一体……?」
普通の女官ではないのだろうか?
仁蘭様から神獣様の世話係を任されるくらいだから、武芸に秀でているとか?
「次に会ったときには教えてくれるかな」
もしかすると、下級妃だけれど女官のふりをしている私と同じく、本当は別の顔を持っていらっしゃるの……?
いつか話してくれるかな。
そんなことを思いながら、私は宮の中へと戻るのだった。




