私の知らない鬼上司の話
「仁蘭様はわかりにくいですよね? でもお二人のことは確かに信用なさっていますよ」
「そ、そうですか?」
「はい。誰かを気に掛けることなど滅多にないあの方がお二人の話はよく聞かせてくれますし、そのときの仁蘭様はいつもと違って感情が豊かで面白いのです」
あの仁蘭様のことを面白いと言えるなんて、史亜様は随分と変わったお方なんだなと思った。
近頃は意外な一面もあるのだと見えてきたものの、仁蘭様といえば『鋭い目線』や『厳しい口調』がまず思い浮かぶ。
「采華殿からもらった薬はきちんと飲んでいましたし、信頼しているのだなと私は思いました」
「飲んでいたんですか!? 本当に?」
本人から飲んだと聞いていたけれど、第三者から聞くとより驚きが増す。
いや、疑っていたわけでは……うん、疑わしいなとは思っていたのよね……。
仁蘭様が私の渡した薬を飲んでいた。その事実が嬉しかった。
喜ぶ私を見て、史亜様は微笑ましい目をこちらに向ける。
「彼はあのように見えて優しいところもあります。これからもどうか支えてあげてください」
「は、はい」
まるで保護者からのお願いみたいだなと思った。
史亜様は、仁蘭様ととても親しい間柄のようで、その口ぶりからは親しみや慈しみといった温かさが伝わってくる。
この二人はどういう関係なんだろう?
胸の内で疑問が生まれる。紅家の子息とただの関係者……といった感じではなさそうだ。
仁蘭様が本当は優しいことを知っているのは私だけじゃないなんて、それがどうしてか寂しく感じていた。
「史亜様は仁蘭様をよくご存じなんですか? 特別なご関係で?」
流千は遠慮なく質問をする。
「ええ、昔なじみです。特別な関係というと誤解を生みそうですが……そうですね、五年前に宮廷勤めを始めてからはよい関係を築いてきました」
流千は意外だという風に「へぇ」と声を漏らし、なおも質問を続ける。
「昔なじみですか。仁蘭様にそんな方がいらっしゃったとは意外です。人間関係が希薄そうだなって思っていたので」
「ふふっ、流千様ははっきりと物をおっしゃる」
「すみません、こういう性分なもので。あぁ、昔なじみということは丹美明さんのこともご存じですか?」
「はい、彼女は……友人です。長く共に過ごしてきました」
「そうでしたか」
美明さんのことが話題に上がったことで、史亜様は纏う空気が変わり視線を落とした。
口元は笑みを浮かべているもののその瞳は寂しげで、苦しい胸の内を察する。
友人がある日突然にいなくなったのだから、さぞ心配だろう。
「あなた方が美明の行方を捜してくださっているというのは、仁蘭様から聞きました。美明のために、ありがとうございます」
「いえ、そんな! お礼を言われるようなことは……」
今のところ、見つかった手がかりは茉莉繍球と怪しげな地下の存在であって美明さんの現状はわかっていない。
一歩ずつ進んでいっているような気はするものの、こうして改まってお礼を言われると胸を張ってそれを受け取れない自分がいた。
でも史亜様は私を見つめて優しく微笑んでくれる。
「私は采華殿のように喜凰妃様の宮へ入ることは叶いません。ただ待つだけの日々がとてももどかしくて仕方がありませんでした。だからこそお二人の協力が嬉しかったのです。それに、危険な目に遭っても役目を続けてくださって……本当に感謝しています」
「史亜様……」
私たちへの感謝の気持ちを伝える様子からは、史亜様がどれほど美明さんを大切に思っているかが伝わってきた。
「本当に大切な方なんですね」
これほど想われている美明さんはきっと素敵な人なんだろう。
史亜様にも仁蘭様にも、どうしても捜し出したいと切望されるほどの女性。一体どんな方なのかと興味を抱く。
「美明さんはどのような方なのでしょう? よければお話を伺えませんか?」
仁蘭様からは、美明さんは責任感の強い性格だから失踪なんてしないということしか聞いていなかった。
大切な人がいなくなってしまったというときにその人のことを口にするのは躊躇われたが、史亜様は快く話してくれそうな気がした。
思った通り、史亜様は懐かしそうな目をして話し始める。
「美明はそうですね……はっきりと物を言う、気の強い女性です。しっかり者で、私と仁蘭はよく美明に小言をもらっていました。とても愛情深くて、私が悩んでいるとそれに気づいて話を聞いてくれる頼もしい存在です。あぁ、己の職務に忠実なところは仁蘭様とよく似ています」
「仁蘭様と?」
「ええ、二人とも真面目すぎるくらいで。もう少し自分を大事にしてほしいと私はずっと思っていました」
困った風に笑う史亜様だったが、その笑顔は親愛の情を感じさせた。
三人の間には深い絆があるのだとこの短い会話からでもわかる。
「自分を大事に……それは、よくわかります。心配ですよね」
仁蘭様の様子を思い出し、私はつい深く頷いてしまう。
そんな私を見て、史亜様はやや前のめりで尋ねた。
「そうなんですか? それはつまりあなたも仁蘭様のことを思いやってくれていると?」
「え?」
なぜ史亜様は嬉しそうなんだろう?
思いやっていると言われるとそうなのかもしれないけれど、なぜか「はい」と即答できなかった。
ここで私が認めてしまえば、まるで仁蘭様に好意を抱いているみたいに思われるのでは?
一瞬そんなことが頭をよぎる。
「みゃあ」
そのとき、足元から小さな声が聞こえてきた。
私の後ろに隠れるようにして丸くなっていた神獣様が、ぴょんと膝に飛び乗ってくる。
返答に困る私の不自然な様子が気になって、飛びついてきたかのようだった。
「あっ、神獣様。史亜様ですよ」
「みゃっ」
両脇の下に手を入れて抱きかかえようとする私に対し、神獣様は私の袖に爪をひっかけて離れようとしなかった。
史亜様はじっくりと神獣様を見つめ、感心した様子で「こちらが神獣様……」と呟いた。
そうだ。史亜様は神獣様を迎えに来たのだった。
ここでようやく本来の目的を思い出す。
「神獣様?」
私の胸に顔を埋めたまま振り返ろうとしない神獣様は、必死で抵抗しているように見える。
でも史亜様は嫌な顔一つせず、それどころか胸に手を当てて感嘆の息を漏らした。
「あぁ、まさか神獣様をこの目で見ることができるとは思いもしませんでした。今日まで生きてきてこれほど胸が高鳴ったことはございません……! 攫ってきた愚か者共のことは断じて許せませんが、お会いできたことには心から感謝をいたします」
思いを述べている間は終始笑顔だったが、攫った人たちに対する強い憤りはしっかりと伝わってきた。一瞬、目の奥が憎しみで険しくなったのを見て背筋が凍るような心地だった。
もしや、ただの女官じゃない……?
「神獣様? ちょっとだけ、ちょっとだけお顔を上げてくれませんか?」
「…………」
私がどうにかご機嫌を取ろうと声をかけるも、神獣様は相変わらずしがみついたままで史亜様の方を見ようとせず、申し訳ない気持ちになった。
「すみません」
「いえ、いきなり訪れた人間に驚いているのでしょう。私も無理にとは申しません、また日を改めますので、どうか神獣様のお気の向くままに」
「史亜様」
自分に懐こうとしない神獣様を見ても、史亜様は気分を害した様子はなく笑顔のままだった。
何てお優しい方なんだろう……!
仁蘭様が神獣様を預けようと考えたのも頷ける。
神獣様はときおり盗み見るように振り向き、史亜様のことが気になっているそぶりも見せた。
愛おしげに目を細めた史亜様は、しばらく神獣様を見つめた後でふと尋ねる。
「そういえば、神獣様は何を召し上がるのですか? こちらでどのようにお過ごしなのか、とても興味があります」
好奇心に溢れた瞳は、神獣様に対する憧れを感じさせた。
私にとっては『ちょっと変わったかわいらしい猫』でも、史亜様にとったら崇拝の方が強いのかもしれない。この先、神獣様が史亜様に懐いて引き取られたとしてもきっとよくしてくれる……そんな気がした。
「何でも召し上がりますよ。干したヤモリや粥、それにさきほどまで亀もおいしそうに」
笑顔で答える私。でも史亜様は話を聞いた途端、目を丸くして驚いていた。
流千が気軽に提案する。
「実際に食事の様子を見てみます? まだ料理はたくさんあるので、史亜様も一緒にどうですか?」
「流千!?」
弟は、臆面もなく私の作った料理を薦める。
神獣様にも出しちゃったけれど、あれは庶民が食べる家庭料理よ!
史亜様みたいな高貴な女官の方に出せるようなものではない。
焦る私の気持ちとは反対に、史亜様は茶を飲んだときのようにあっさりと提案を受け入れた。
「ではいただきます」
「よろしいのですか!?」
ぎょっと目を見開く私をよそに、流千は「すぐに温め直しますね」と言って席を立つ。
本当によろしいのですかと重ねて尋ねる私に、史亜様は笑顔で答えた。
「神獣様が召し上がっているのですから、ぜひとも食べてみたいと思いました。それに、温かい食事がいただけることはめったにないので嬉しいです」
「あら、そんなにお忙しいのですか? 冷めた食事ばかりなのは残念ですね」
「あ……はい。そうです、忙しくしていることが多くて」
史亜様は頬に手をあて、苦笑いになる。
こんなに上品で優雅な佇まいの方でも、忙しく働かされるなんて……。
尚書省は恐ろしいところだと思った。
地下から盗んできた亀を使った料理に加え、私が作った庶民料理が食卓を埋め尽くして『神獣様とのお食事会』が始まってまもなくのこと。
建付けの悪い扉が酷く軋んだ音を立てたと思ったら、険しい顔つきの仁蘭様がやや息を切らして飛び込んできた。




