鬼上司の様子がおかしい
流千、仁蘭様、私の順番で階段を下りていくと、石造りの壁には等間隔で灯篭が取り付けてあり、埃や砂はさほど落ちていない。
人の出入りがあるのが感じられる。
下へ行くほどだんだんと冷気と生臭さが漂ってきて、鳴き声こそ聞こえないものの何か動物を飼っているような雰囲気はあった。
私は右腕に神獣を抱き、左手の袖で鼻を覆いながら一歩ずつ下りていく。
「ここって最近作られたものではないですよね……?」
小さめの声で仁蘭様の背中に尋ねる。
彼は前を向いたまま、声量を抑えて答えた。
「昔のものだろうな。戦で王都が落ちたときに備え、地下通路や避難場所を作っていたという話は聞いたことがある。宮廷だけでなく後宮にもあったとは思わなかったが」
「皇帝陛下は、この地下の存在をご存じなのでしょうか?」
「いや、おそらく何代も前の遺産だ。ご存じならば、美明が行方知れずになった際にまずここを探せと命じられたはず」
「そうですね……」
ここなら神獣どころか、隠したい物は何だって隠せる。
一歩一歩進むにつれて、緊張感が高まっていく。
階段を一番下まで下りると、そこには石造りの廊下や扉が見えた。想像していたよりもずっと広く、ここで暮らせるのではと思うくらいだった。
耳を澄ませば、かすかに水が流れる音が聞こえてくる。
誰かに出くわさないか警戒しながら廊下を歩き始めたとき、流千が石の壁を手で触れながら言った。
「かなり頑丈に作られていますね。これなら王都が落ちても本当に助かりそうだ。──兵部を率いる孫大臣ならここの存在を知っていたのでは?」
兵部は、有事の際には宮廷を守る役目を追っている。皇帝陛下が代替わりしても、そこには情報が残っていてもおかしくない。そしてそれを、皇帝陛下をよく思わない孫大臣が秘匿することも十分に考えられた。
喜凰妃様に会いに来た孫大臣は、娘を気遣う父親といった雰囲気だったけれど……。
「孫大臣ならやりかねない。尚書省の役人たちでも後宮には強引に踏み込めないとわかった上で、ここに都合の悪い物を隠していると考えるのが当然だろうな」
仁蘭様は少し悔しげな声でそう言った。
何年も欺かれていたとあれば、皇帝陛下の側近として許せない事態である。
「喜凰妃様もこのことをご存じなのでしょうか?」
父親の悪事についてどこまで把握しているのか?
四妃をまとめようとする喜凰妃様のひたむきなお姿を思い出して胸が痛んだ。
「父親が何をしているか知らずとも、ここの存在を認識していて黙っていればそれは皇帝陛下への背信行為にあたる。何らかの処罰は免れない」
「……」
「とはいえ、すべてはこれからここを調べてからだ。俺たちはここが何に使われているのか調べなければ」
私は無言で頷く。
仁蘭様は小窓のついていた扉を見つけ、それを少し覗いてから流千に仙術で鍵を開けさせた。
中へ入ると水を張った巨大な平たい桶があり、中には無数の亀がおとなしく入れられているのが見えた。その光景から「臭いの原因はここだったのか」と察する。
「首に黄色い線ってことはクサガメかな。地下で日に当たっていないだろうに、状態は悪くない。ここでずっと飼育されているっていうわけじゃなさそうだ」
「どこかから連れてこられたってこと?」
「うん、王都でも亀は気軽に仕入れられるからね」
流千は桶に近づき、躊躇いなく亀の甲羅を掴んで持ち上げる。
私も流千の隣に並び、亀をじっと見つめる。薬屋でも素材として亀を仕入れるけれど、生きている状態で見ることはほとんどなかった。
物珍しさから、流千が持ち上げている亀の甲羅を人差し指でつんと突いてみる。神獣様も興味津々といった様子で亀を見ていた。
「神獣様がいたのはこの部屋ではなさそうね。でも、この亀たちはなぜこんなに……?」
「仙術の贄として使うんじゃないかな? 亀は昔から贄の定番だし。それに食用としても体にいいしね」
「そういえば、うちの店でも薬の材料にしていたわね。腹甲を薬にするのか、それとも調理して味わうのか……」
「うん、僕が持って帰りたいくらいだよ」
私たちが亀に気を取られている間に、仁蘭様は隣の部屋と向かい側の部屋も調べていた。鍵はかかっておらず、がらんとした空き部屋だったらしい。
私も廊下に出て、ほかに入れそうな部屋はないかときょろきょろと辺りを見回す。
曲がり角の前の扉に目を向け、小窓から中を覗こうとしたところで後ろから手を掴まれてぐいっと引っ張られた。
「ひゃっ」
「おまえはじっとしていろ」
仁蘭様が困り顔でそう言った。
今はまだ危ないことは何一つ起きていないのに、心配そうにする仁蘭様の態度に戸惑う。
どうしてそこまで……?
不思議に思い、彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
「何だ?」
じっくり見過ぎて、仁蘭様が不機嫌そうに尋ねてくる。
私は慌てて目を逸らし逃げようとしたが、ぎゅっと手を掴まれていて逃げられない。
「仁蘭様、放してください……!」
鼓動が速くなり、落ち着かない。
繋がれている手が気になって仕方がなくて、でも動揺を悟られたくなくて苦笑いでごまかした。
「こんな風にしなくても大丈夫ですって」
「おまえは危なっかしい。ここでは不用意に部屋を覗かない、物に触れないと約束しろ。歩くときは俺か流千のそばに張り付いて離れるな」
「私が一体何をすると思っているんですか!?」
目を離したら問題を起こす危険人物と思われているの!?
仁蘭様は鋭い目で私を見つめ続けていて、これは「はい」と言うまで本気で手を放さないつもりだと理解した。
「わかりました、約束します」
自分の信用のなさに悲しくなり、やや投げやりに返事をする。
私が本当に危ないことをしたのは神獣様を抱えて飛び降りたときくらいで、あとは井戸に身投げしようとしたというのも仁蘭様の勘違いだったし、生命力を神力に換える首飾りを使おうとしたのもほかに方法がなかったから……で、しかも結局は使っていないのに。
仁蘭様は私の手を離したものの、まだ疑っていそうな顔をしていた。
ここまで信頼されていないとは。自分で自分に呆れて無言になる。
「……怒っているのか?」
「え?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。
仁蘭様は私の顔を見つめながら、戸惑っているように見える。
私は少し驚き、目を瞬かせる。
「怒ってなんていません」
「本当に?」
「はい」
私はただの部下なのだ。機嫌を窺う必要なんてないはずで。
実は心配性なの? そういえば、流千のことも自分の神力を分け与えてまで助けようとしてくれたし、地下へ入るときも私には来るなと言っていたし……本当は繊細な人なのかもしれない。
だとしたら悪いことをしたなと思い始める。
私は気まずい空気の中、おずおずと口にする。
「あの、すみませんでした。ご心配をおかけして」
「…………」
「重ね重ね本当に申し訳ありません」
「違う、謝ってほしいわけじゃない」
仁蘭様はますます困った風に眉根を寄せる。
「俺はただおまえが気になって、勝手にどこかへ行かないようにと……今度はおまえが呪われたり、苦しんだりするのは困ると思った。……なぜだ?」
「私に聞かれても」
一体どうしたんだろう。
仁蘭様は自分でもおかしなことを言っているとわかっていて、最後は首を傾げていた。
「あんまり見ないでください……」
答えを探すかのように、仁蘭様はじっと私を見つめてくる。
私はどうしていいかわからなくなり、すっと目を逸らした。
こんな風に見つめられると胸が詰まって、心臓がどきどきと速く鳴り始めて落ち着かないからやめてほしい。
「先へ急ぎましょう。ここは広そうですし!」
話題を変えたくて、早口でそう告げる。
「そうだな。だが、この広さを三人で調べるのは効率が悪い。もっと明かりも必要だ。一度宮廷に戻り、部下を呼んで俺が調べることにする」
仁蘭様の言うことはもっともだった。このまま先へ進んだとして今日中にすべては調べられないだろうし、もしもここを使っている誰かに遭遇したら私と神獣様は足手まといになる可能性が高い。
「それに神獣の保護を優先したい」
「保護ですか……?」
「ああ。俺たちがここを見つけたと仙術士に気取られないように、采華にはこれまで通り女官として喜凰妃の宮に戻ってもらわなければ。神獣がいたのではそれもままならないから、皇帝陛下にこのことを報告し、迎えの女官を宮へ寄越そうと思う」
「みゃううう」
これまで私の胸にぴたりとくっつき大人しくしていた神獣様が「嫌だ」と言っているみたいに声を上げた。
もしかして、仁蘭様が迎えを寄越すと言ったのを理解して拒否している?
これには仁蘭様も少し困った様子で眉根を寄せた。
私は神獣様をなだめようと、その背を繰り返し撫でる。
「ごめんね? 私はもうすぐ喜凰妃様の宮へ行かなければならないの。何も言わずに休んだら怪しまれちゃうから」
「にゃあ……」
まるで「仕方がない」と言っているように、しゅんとおとなしくなる神獣様。私はそれを見て、もう一撫でする。
「とにかく、ここを出よう」
仁蘭様がくるりと背を向け、赤い髪がさらりとなびいた。
流千と合流し、私たちは再び階段を上ってひとまず宮へ戻ることに。
「奥の部屋で、亀とイモリと鹿の角みたいな物が転がっているのを見つけました。もう少し調べたかったけれど、あまり長居するのは危険ですね。僕はまだしばらく大きな術は使えないし、誰かに見つかったら仁蘭様を盾にしなきゃいけなくなりますから」
流千はあははと笑いながらとんでもないことを口にする。
仁蘭様は、いちいち反応するのが面倒なのかどうでもいいという風に聞き流していた。
「ねぇ、何を持ってきたの?」
流千は茶色い麻の袋を持っていて、ときおりその中身がもぞもぞと動いていることに気づく。まさか……と思ったら案の定、亀を持ってきていた。
「お腹すかない?」
食べる気だった。
「さっきあんなに食べたのに!?」
「あれとは別腹っていうか、栄養のある物を食べて早く本領発揮できるようになった方がいいと思うんだよね。だからお願い!」
これで私に食事を作れということ?
さすがに亀を捌いたことはない。しかし流千は「下ごしらえは自分でするから」と言って、すでに持ち帰ることを決めていた。
「いつの間に」
仁蘭様は呆れていたが、返してこいとは言わなかった。流千の自由さをとがめるのは、もう諦めたらしい。
私もとっくの昔に諦めているので気持ちはよくわかる。
地上へと戻るとすでに周囲は明るくなっていて、私は神獣様を流千に預け、急いで喜凰妃様の宮へと向かった。
いつもより少し遅れているけれど、喜凰妃様は毎朝浴場で肌のお手入れをしてからゆっくりと朝餉を取るのでその後の朝の挨拶までに宮に戻れば私の不在が知られることはない。
「裏から回ろう」
私がいつも文の代筆を行っている部屋は裏口に近く、そこから入っていかにも早朝から仕事をしていましたという顔で出ていけばごまかせるはず。
靴音がなるべく鳴らないように気を付けながら石畳の上をそっと走り抜け、人目を盗んで裏口へと向かう。幸いにも水汲みの宮女たちが裏口から出ていくのが見え、私は入れ違いに中へと入ることができた。
あともう少し……!
朝餉の粥や煮物の香りが漂う中、廊下を小走りで移動していたら偶然にも薄絹の傘を運んでいる慈南さんと出くわしてしまう。
「お、おはようございます!」
不自然な大声で挨拶をする私。慈南さんはちょっと驚いて目を丸くしていたけれど、すぐに目を逸らして「おはよう」と小さな声で言うと私の脇を通り過ぎていった。
そっけない態度がこんなにもありがたいとは……!
遅れてきたことがバレなくてよかったと安堵する。
「地下の存在は……女官だって知らないよね?」
あんな怪しげな場所を見つけてしまっては、疑心暗鬼になる。
振り返ってみれば、すでに慈南さんはいない。いつも通りの朝だ。
立ち止まっていた私は再び歩き出し、急いで部屋へと向かうのだった。




