聞いてません!
一夜明け、流千は寝台に腰掛けたまま大きな椀を抱えて緑豆のスープを頬張っていた。
顔色は病人のそれではないけれど、やや疲れが残っているようには見える。
「これまだある?」
「あるよ。たくさん作ったから大丈夫」
碗が空になる前からおかわりのことを気にする流千に私はくすりと笑った。
神力が回復しても、その急激な変化は異常な空腹として体に影響を残すらしい。
今ここには、春貴妃様の使用人が運んでくれた肉包や山菜の炒め物、蒸した蛇なども卓の上にずらりと並んでいる。
昨夜は本当に大変だった……。
しかも朝起きたら自分の寝台で眠っていて、流千によればあれから仁蘭様が私を運んでくれたらしい。
──采華が仁蘭様の腕を離さなくて面白かった。
てっきりあの腕は流千だと思っていたのに間違いだったらしい。
すぐに謝罪しなくてはと思ったときには仁蘭様は一度宮廷に戻っていて、ついさっきここへ戻ってきたばかりだ。
出会い頭に頭を下げたら「おまえは本当に手がかかる」と嘆かれた。
今はまた流千の寝所に三人と一匹で集まり、お腹が空いたという流千が豪
快に料理を平らげるのを見ている。
スープもしっかりおかわりをした流千は、桑の茶を飲み干してからようやく話を始めた。
「その子は猫じゃないね。多分、神獣の虎だよ」
「神獣の虎? この子が?」
白銀色の毛並みといい丸い耳といい、ちょっと変わった猫だなと思っていたけれど……神の遣いと言われるあの神獣?
膝の上にいる愛らしい子をじっと見つめると、おとなしく見つめ返してくれる。
普通の猫が流千を回復させられるわけがない。それはわかるが、いきなり神獣と言われても実感がなかった。
「仁蘭様も同じ見立てでしょうか?」
困った私は、斜め前に座っている仁蘭様を見た。
彼は少し悩んだ後で静かに答える。
「そうだろうな。もとより違和感はあったが、あの力を目の当たりにした後では猫より神獣だと言われた方が納得できる」
皆の視線を集めている神獣様は、ご機嫌な様子だった。
「私のために流千を助けてくれたの?」
「みゃ」
そうだよと言っているかのような返事だった。
「ありがとうございます」
もしかして水と食事を与えたお礼? おつりが多すぎる気がするけれど、いいのだろうか?
戸惑いながらも、私は感謝の気持ちを込めてその背を撫でる。
「まさか神獣様が存在しているなんて……! でも、言い伝えでは『神獣様は神々の力が宿る山や森で暮らしている』って言われていますよね? どうしてこの子は後宮にいたんでしょう?」
人が住むところに神獣が現れたなんて、噂にも聞いたことがない。
しかもこの子に出会ったとき、可哀想なほどに痩せていて衰弱していた。
「もしかして、誰かに攫われてきたの?」
「みゃあ? みぁあ、みぁう」
うん、なんて言っているかわからない。神獣はこちらの話がわかっているみたいなのに、こちらは残念ながら神獣語が理解できなかった。
「飼い猫ならぬ飼い虎にでもするつもりで攫ったのかな? あれ、後宮って生き物を飼っていいんでしたっけ?」
流千が首を傾げながらそう言った。
仁蘭様は「禁止されてはいない」と答える。
「管理局に申請さえすれば基本的に許可は下りる」
「そうなんですか? 喜凰妃様の宮には動物はいませんでしたが……」
「四妃の中では二人だな。豊賢妃は三毛猫を、栄竜妃はタイヨウチョウを飼っている。その二人の他にも、猫や犬、蛇を飼っている妃もいる」
専属の世話係を雇えるだけの財力は必要になるらしいが、自分の宮の中だけで飼う分には問題ないというのが管理局の見解だそうだ。
ただし神獣については別である。
「神獣を飼うなどもってのほかだ。人が手を出していい存在ではない」
仁蘭様のおっしゃることはもっともだった。
この子を攫ってきた上に衰弱させるなんて……!
犯人への怒りがこみ上げる。
「神獣といってもまだ子どもで、人間に抵抗する力はないのだろう。森から攫われてきて後宮へ連れて来られ、逃げ出したときに采華に拾われたのでは?」
「それなら、この子を連れて宮廷へ行ったときに武官に追われたのは……」
「逃げ出した神獣を探していた、と考えるのが妥当だな」
この子を虐げたのはあいつか! 許せない!
私は思わず顔を顰めた。
「そういえば、ヤモリとか芋とか、それに薬草も……干してあった物が全部きれいになくなってるね? もしかして神獣様が食べちゃった?」
流千は苦笑いだった。まさかあんな物を神獣が食べるとは、と呆れているみたいだ。
「お腹がいっぱいになって元気になったから、流千に神力を分けられたのかなぁ」
私の膝の上で丸くなっているこの子は、体の大きさの数倍もの食事を取っていた。今は満腹なのか、何にも興味を示さずただゴロゴロしている。
「かわいい……」
見ているだけで心が和んですべてを忘れそうになるけれど、流千の言葉で一気に現実に引き戻される。
「う~ん、確かにかわいいんだけれど神獣を攫ってきて愛玩動物として飼うっていうのは普通じゃないよね。僕を一瞬で回復させられるくらいの神力を宿していることを考えれば、もっと別のことに使うつもりで攫ってきたんじゃないかな?」
「別のことって」
「生け贄……とか?」
「っ!!」
おぞましい話に背筋がぞくりとする。
生け贄を捧げることで願いを叶える仙術があるのは知っているが、まさかこの子を犠牲にしようと?
恐ろしくなった私は、無意識のうちに神獣をぎゅっと抱き締めた。
「采華が神獣を見つけたのは喜凰妃の宮にある裏庭だったな」
「はい。でも、これまで一度も鳴き声なんて聞こえてきませんでした」
どれほど記憶を辿ってもあの宮で鳴き声なんて聞いたことはない。いくら広いと言っても、この子をずっと宮の中に閉じ込めていたならさすがにわかるはず……と私は首を傾げる。
「後宮内には妃の宮以外にも小屋や蔵が複数ある。護衛武官や宦官しか出入りできない屋敷もあるしな。檻に入れて、密かに飼うことはできると思う」
仁蘭様は、すでに幾つか可能性のある場所を思い浮べているようだった。
私が閉じ込められた蔵もそうだったようにしばらく使われていなさそうな古い建物はあちこちにあり、誰かがそこに神獣を閉じ込めていても早々見つからない気がする。
「もしかして、神獣を攫ってきたのも僕に呪いの罠を仕掛けたのも同じ人物では?」
閃いたといった風に流千が仁蘭様を見る。
「やましいことがなければいくら僕に後宮内を探られても問題ないわけですし、罠が張ってあったってことはそれこそ『人に言えないことをやっています』と宣言しているようなもんじゃないですか? 今、神獣が見つかるなんてやっぱり禅楼がすべての元凶なんですよ!」
私はそれを聞いて「ん?」と疑問に思った。
流千は私と違い、後宮や宮廷で占いをして副業に励んでいただけなのでは……? 後宮内を探っていたの……?
しかも禅楼様って?
一体どういうことなのかと流千を見つめるけれど流千の目は仁蘭様に向かっていて、私が問いかける前に話は進んでいく。
「よかったですね、仁蘭様。喜凰妃様の宮に踏み込む理由ができたんじゃないです?」
流千はにやりと笑って言った。
しかし仁蘭様はいつも通りそっけない。
「まだ弱い。証拠が必要だ」
「ええっ!? 将来有望な仙術士の僕が殺されかけたんですよ!? 国の損失です!」
自分が呪われたことが何よりの証拠だと訴える流千だったが、仁蘭様は「すでに解かれた呪いが証拠になるわけないだろう」と呆れた声音で答えた。
「禅楼が罠を張ったという物的証拠が出てこなければ、喜凰妃の宮に踏み込むことなどできない。しかも単に盗みを警戒していたと言われればそれで話は終わる。現時点ではおまえは呪われ損だ」
「うわっ、さすが後宮。人の命を何だと思ってるんだよ……! 死にかけたのに!」
拳を握り締め、悔しそうに卓を何度も叩く流千。ガタガタと食器が鳴り、仁蘭様は迷惑そうな顔をした。
二人のやりとりを見ていた私は、次第に疑念が膨らんでいく。
仁蘭様は後宮に直接手が出せないから、私を女官として潜入させたんじゃなかったの?
流千が呪われたのは後宮内を調べていたせいなの?
どうして私にそれを教えてくれなかったの?
神獣を抱き締めながら、私は叫んだ。
「二人で何を企んでいたんですか!? 呪われるような危ない仕事をしていたなんて、聞いてなかったんですけれど!?」




