奇跡
見上げれば、ぽっかりと浮かぶ大きな満月。
夜だというのに、月明りだけで庭を歩けるほど明るい。
流千に呪符を飲ませてしばらく経ち、その経過を見守っているうちに夜更けになっていた。
「重っ……」
私は八角形の井戸の前に立ち、水がたっぷり入った桶を縄で引き上げようとする。
呪符と薬湯を飲んだ流千は、呪いから解放されて眠っている。けれど、呪いに抵抗するためにたくさんの神力を使ってしまい、目に見えて衰弱していた。
眩暈に頭痛、耳鳴り、全身の筋肉の鈍痛を訴えていたときはまだマシで、夜が深まるほどに手が冷たくなっていった。
呪符を飲んだ後、流千は後宮内で呪われたと言っていた。
『怪しい小屋があったから入ってみようと思ってさ、扉を開けたら呪われてこのざまだよ。調べられたくないことのある誰かが、罠を張っていたんだろうね』
詳しい事情はあとで聞くから、今はとにかく眠って回復を……と言った私に向かって流千はいつものように笑ってみせた。
『神力が回復したら元気になるから。心配しなくても平気!』
あれから二刻は経つが、容体がよくなっているようには見えない。
流千のように神力を宿している人間は、それが尽きると死に至る。私みたいに最初から神力を持たない人間でたとえるなら、血を流しすぎて死ぬようなものだと聞いた。
もしかして、私と流千が思っていたよりも呪いは強いものだったのでは……?
嫌な可能性が頭をよぎる。
「妙薬が本当にあればよかったのに」
父が騙されるきっかけとなった妙薬。万病に効くといわれる伝説の薬なら、今のような状況でも何とかなったかもしれないのに……。
どうしても薬が欲しい。店を訪れるお客さんたちの切実な思いを、こんな形で知ることになるなんて思わなかった。
厨房と寝所を何度も往復し、できることはすべてやってなお「まだ何かないか?」と焦りだけが募っていく。
これ以上は本人の体力と気力頼みとなるので、できることは何もない。
私は心配のあまり眠ることもできず、流千が起きたらすぐに食事がとれるようにと豆を煮たり水を汲んだりして朝を待つ。
水なんてもう水瓶にいっぱいあって、私は井戸で何をしているんだろうかとふと我に返った。
あんなに弱っている弟を見るのは初めてで、姉として薬屋の娘として不甲斐なさを感じる。
「私が後宮に入るって言い出したせいでこんなことに……」
後宮がこんなに危険な場所だなんて知らなかった。
私が妃にならなければ、流千は今頃どこかの貴族のお抱え仙術士になって平穏に暮らせていたはずだ。
流千の苦しげな顔を思い出したら、自分が何もかも間違っていたのではと後悔が押し寄せる。
「私のせいだ」
流千は薬屋を継ぐつもりはなく、范家を守りたいというのは私の希望だった。病に苦しむ人のために、両親のために、私は范家を今のままで残したかった。
でも、大事な家族を失ってまで守る価値はあるのだろうか。
私は身の丈に合わない願いを叶えようとしたのではないか。
「あっ」
手が滑り、桶が落下してせっかく汲んだ水がばしゃんと地面に飛び散った。
たったこれだけのことなのに、何もかもがうまくいかないような気がしてきて心の中が黒く濁り出す。
尚薬局から返事がこない時点で、無理に足掻こうとせず諦めていれば……?
皇帝陛下に会えないという現実を受け止めて、召喚術なんて使わなければよかったのでは?
悔やんだところで後戻りはできないとわかっているのに、もっと別の道があったかもと嘆くのをやめられなかった。
「にゃあ」
しばらく俯いたままだった私の足首に、猫が顔を擦り付けてくる。
その金色の目は不安げに揺れているような気がした。
「目が覚めたの? ごめんね、放って置いて」
この子は宮に戻ってきてから流千の寝所でずっと眠っていた。
目が覚めて、私のことを探しに来てくれたらしい。
両手で持ち上げ抱き締めれば、伝わってくるぬくもりで心が少し和らぐ。
「──がんばらないと。私が流千を助けないと、ね」
「にゃ?」
今も流千は生きようとがんばっているのだ。
元気な私が、後悔して落ち込んでいる暇はない。
「呪いはすでになくなったんだから、あとは神力を回復させるだけ……何か方法はあるはずよ」
失った分の神力を取り戻せば、流千は助かる。
自然に回復する分に加え、どこかから神力を補充できればいいのだ。
猫は考え込む私を見上げ、不思議そうな顔をしている。
「神力を増やす……神力を増やす……あっ」
私は、流千の部屋に転がっていた道具たちのことを思い出す。
「水晶の首飾り!」
小ぶりの水晶玉が五つ並んだ首飾りは、流千が市場で薬と交換で手に入れてきたものだった。
どこかの部族が生み出した、生命力を神力に変換する首飾りである。あのときは「そんな恐ろしい物は捨ててきなさい」と流千をしかったけれど、きっとまだ部屋に置いてあると思う。
「あれを使えば、私の生命力を神力に変えて流千を回復させられるんじゃない!?」
「にゃあ?」
多分ちょっと寿命が縮むけれど、でも平気!
私は丈夫な方だし、元気だけが取り柄なんだし!
いける……と思った私は、井戸の石枠に手をついて勢いよく顔を上げ────。
「何をしている!」
「えっ!?」
仁蘭様の声がして、振り向く間もなく腰に腕が回されて無理やり捕えられた。
何!? どうしてこんなことに!?
突然のことにびっくりして固まっていると、仁蘭様は焦りを滲ませた声でしかりつけてきた。
「今度は身投げか!? おまえは目を離すとすぐに何か起こす!」
「なっ……! 違いますよ、身投げなんてしません! 勘違いです!」
どうやら井戸に飛び込もうとしているように見えたらしい。
「私がそんなことするわけないじゃないですか!」
「信用がない」
「ひどい!」
否定しても、仁蘭様は険しい顔のままだ。
どうして私に対する評価はこんなに低いの……?
これまでのことを思い出せばそれも仕方ないかもしれないが、身投げはさすがにない。私は不満を口にする。
「私がいなくなったら弱っている流千の面倒を誰が見るんですか!? さすがにそんなにバカじゃないです!」
振り向きざまに怒った表情で文句を言えば、私の腰にあった腕はようやく離れていく。
けれど、まだ仁蘭様の目は疑っていた。
「だいたい、猫連れで身投げする人なんています!?」
「みゃう」
仁蘭様の視線が私の胸元に移動し、爪でしっかりしがみついている猫と目が合った。この場に猫がいることに今初めて気づいたらしい。
「……いたのか」
「はい」
仁蘭様はようやく自分の勘違いだったとわかったようで、気まずそうに黙り込む。
その顔を見ていると、もしや本気で心配してくれたのかと驚いた。
いつも冷静なこの方が必死に私を助けようとするなんて……まさか情が移ったとか?
「仁蘭様……?」
「で、おまえはここで何をしていた?」
その質問に私ははっと目を見開く。
そうだった、流千を助ける方法が見つかったんだった!
私は猫をしっかりと抱き直し、興奮気味に訴えた。
「思い出したんです! 流千の神力を回復させるまじない道具が部屋にあるかもって!」
「そうなのか!?」
「はい。人の生命力を神力に変える首飾りがあって、私の生命力で……って何ですか!?」
話の途中で、大きな手が私の肩をがっしりと掴む。
仁蘭様は苦しげに顔を歪めて言った。
「それだけはやめろ」
「どうして!?」
「そんな怪しげな物を信用するな!」
「やってみないとわかりません!」
可能性があるならそれに賭けてみたい。私は必死だった。
けれど仁蘭様は心の底から呆れているといった口調で呟く。
「何なんだおまえは……どうしてそう無謀なことを」
「無謀じゃありません、ちゃんと考えた結果です!」
「本当にやめてくれ……!」
私だって普通に看病して回復するならそっちを選んでいる。このままでは流千が弱っていってしまうから、怪しげな首飾りにも縋りたいのだ。
仁蘭様はぎりっと奥歯を噛み締めるようにしながらこちらを睨んでいたが、しばらくすると自分を落ち着かせるように大きく息をついた。
この方がこんなに感情を露わにするなんて、一体どうしたのかと不思議に思う。
「ほかに方法があれば、その首飾りは使わないんだな?」
苛立ちを含んだ低い声。
質問されているのに問いかけるつもりなどなく、私の答えが何にせよ彼の中ではすでに私の好きにはさせないと決まっているみたいだ。
「ほかに方法って……そんなものがあるんですか?」
胸がどくんと大きく跳ねる。
仁蘭様は何か知っているのかと私は期待を込めて見つめた。
「必要なの神力の回復だ。特別な呪符を使えば、人から人へ神力を渡すことができる」
「人から人へ? そんなことが……?」
理屈としては、私が使おうと思っていた首飾りとほとんど同じだろう。むしろ生命力を神力に換えて与えるより、神力をそのまま与えられるのだから効率はよさそうだ。
「でも私は仙術を使えませんし、そんな呪符を作れもしません。……やはり首飾りしか」
「やめろと言っている」
即座に否定した仁蘭様は、じとりとした目で私を睨む。
しかしすぐに真剣な表情に変わり、まっすぐに私を見つめて言った。
「俺だ」
私は驚きで息を呑む。
「呪符はもらってきた。それを使えば俺の神力を流千に与えられる」
仁蘭様は私の肩からそっと手を離し、懐から一枚の紙を取り出す。
そこには朱墨汁で古い文字や虎の絵が描かれていて、仙人の修行場で百年以上生きていると言われる道士様の印が押してあった。
「俺にも多少は神力がある。全快とはいかずとも、流千が動けるくらいには回復させられるだろう」
「でも……そんなことをしたら仁蘭様が」
「弱るだろうな。だが死ぬわけじゃない」
仁蘭様は躊躇いなくそう言った。
私の方が動揺しているし、恐れている。
初めて会ったとき、死体だと思い込むくらいに青白い顔で倒れていた仁蘭様の姿を思い出してしまって震えが走った。
「あいつに何かあればおまえが使い物にならない。それでは職務に差し支える」
「それはそうですけど……」
一瞬納得しかけ、でも「いや、やっぱり理解できない!」とすぐ否定する。
私は小さく首を左右に振り、だめですと仁蘭様を制止した。
「死なないとは言い切れませんよね? だって仁蘭様はお体が万全の状態ではありません。こんなこと、どちらを犠牲にするか選べと言われているようなものです……!」
私は誰も失いたくなかった。
流千のことはもちろん大事だが、仁蘭様にもしものことがあったらと思うと気が気じゃない。
他人にすべてを押し付けて、私はただ見ているだけというのは嫌だった。
「ご自分が何をおっしゃっているのか本当にわかっています? 仁蘭様に私たちを助ける理由はないはずです。やめてください、そんな仁蘭様らしくないことは」
「ほう、その『俺らしい』とは一体何だ?」
「…………」
言えなかった。
人を道具扱いする鬼みたいなところです、とは言えなかった。
私はすっと目を逸らし、俯きながら伝える。
「と、とにかく! 私は仁蘭様にも無事でいてほしいんです……! 流千が助かれば何でもいいとは思えないんですよ」
流千が助かるなら何でもする。その気持ちは嘘じゃない。
けれど仁蘭様にそんなことをさせたくなかった。
「俺が心配か?」
「は?」
心配に決まっている。当たり前のことをわざわざ聞かれて驚いた。
ぱっと顔を上げて見つめた先には、意地悪く笑う仁蘭様の顔がある。
「報告のための文でもしつこく俺を案じていたくらいだからな?」
「あれは!」
ここ数日、報告できるような新しい情報がなかったので仁蘭様の体調を伺うだけの文を出し続けていた。
仁蘭様から返事が来ることはなく、様子がわからないからさらに私は心配が募って文を書き……の繰り返しで、「しつこく」と言われて初めてやりすぎだったと気づいた。
これじゃあ一方的に世話を焼きたがっている人みたい……!
恥ずかしくて居たたまれなかったが、どうにか平静を装う。
「あなた様はご自身の健康に無頓着ですから。きちんと薬を飲んでおられるか気になったのです」
「ふぅん」
話しながら、私は仁蘭様の顔つきに変化を感じた。
目元の疲労感が少し減っている? 月明りの下で見ても、全体的に以前より血色がよくなっていて青年らしい精彩を放っている。
もしかして、きちんと薬を飲んで休んだのだろうか?
信じられない思いでいっぱいだった。
私が『気づいた』ことに気づいた仁蘭様は、余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
「おまえに押し付けられた薬のおかげで、前より体調はよくなっている。絶対に死なないと言い切れるくらいに」
「この世に絶対はありませんよ!?」
「うるさい。おまえは黙って横にいればいい。そもそも俺のすることにおまえの許可などいらん」
こんなときでも鬼上司ぶりは健在だった。
何なの……? 私はこの人を信じてもいいの……?
傲慢なのか優しいのか、この方のことがよくわからない。
そんな混乱などお構いなしに、仁蘭様は私の手を取って歩き出した。
扉を開けると、今まで私にくっついていた猫がぴょんと元気よく中へと入っていく。
猫は、まるで私たちを先導するように流千の寝所へ向かう。
「本当に呪符を使うんですか?」
「あぁ」
流千の部屋に入ると、仁蘭様は私の手を離した。
もう私が何を言ってもこの方が考えを変えることはないのだろう。
寝台に眠る流千は変わらず青白い顔をしていて、固く瞼を閉じている。一刻も早く苦しみから解放してあげたいと思うと同時に、神力を分け与えた仁蘭様がどうなってしまうのか不安で胸が押し潰されそうだった。
「みゃあ」
足元にいた猫を再び抱き上げ、その柔らかい体を抱き締める。
「流千の神力が回復して、仁蘭様がご無事でいられるようにあなたも祈ってあげてね」
何気なくそう口にしたときだった。
「あっ」
抱いていた猫がするりと腕をすり抜け、床に下りる。そして仁蘭様の脇をすり抜けたと思ったら、寝台の上に飛び乗った。
掛布から出ていた流千の腕の辺りにちょこんと座り、すんすんと匂いを嗅ぐ仕草を見せる。
「今はだめよ、こっちに……」
私が一歩寝台に近づくと、何を思ったか猫は流千の手首に勢いよくかぶりついた。
「ああっ!」
「っ!?」
私はぎょっと目を見開き、慌てて猫を引き剥がそうとする。けれど猫と流千の周囲が白く光り、思わず目を細めた。
「何だ!?」
「これって……」
風はないものの、流千が召喚術を使ったときに見た光景とよく似ていた。
光はすぐに収まり、何事もなかったかのような静けさが広がる。
「みゃあ」
猫はごきげんな様子で尻尾を振り、私を振り返った。その目はどこか誇らしげで「褒めて」と言って
いるみたいだ。呆気に取られていると、流千の手がぴくりと動いたのが見えた。
「流千!」
私たちはすぐさま寝台に駆け寄り、流千の容態を確認する。
でも、その手や頬に触れるより先に呑気な声が聞こえてきた。
「え、猫? 采華が拾ってきたの?」
流千は仰向けに寝転んだまま腹の上に飛び乗ってきた猫を見て、不思議そうな顔をしている。血色のいい頬や唇は見違えるほどで、目も声もしっかりとしていた。
「みゃう」
「かわいいね」
褒められた猫は喉をごろごろ鳴らしている。
一体これはどういう状況なの?
混乱しながら私は尋ねた。
「流千、あなた……もう何ともないの?」
「あれ? 神力が回復してる。さっきまでずっと寒くて体が重かったのに……」
流千はがばっと上半身を起こし、どうして何ともないのだろうかと眉根を寄せて考え始めた。どうやら猫に噛みつかれたことは覚えていないらしい。
その手首には、噛みつかれた痕も見当たらなかった。
猫は寝台の上で丸くなり、大きなあくびをして目を閉じる。
「こんなことが……」
仁蘭様が驚きで声を漏らす。
信じられないけれど、この猫が流千の神力を回復してくれたというのは疑いようがない。
寝台の上に座っている流千は、顔色もいいしすっかりいつも通りに見えた。
「さっきまでのつらさが嘘みたいに消えてる! すごい、今なら召喚術を二、三回使えそう」
「絶対に使うなよ」
仁蘭様に睨まれた流千は、冗談ですよと言って明るく笑う。
本当にもう大丈夫なんだ……! 助かったんだ。
心の底から安堵したせいで力が抜けてしまい、私はその場にへたり込む。
「よかった……! これで流千も、仁蘭様も死なずに済む……!」
奇跡だと思った。
薬屋の娘として育ってきて「祈るだけで命が救われることはない」と身に染みてわかっていた分、こんな風に思いがけない幸運が降ってきたのは震えるほど嬉しかった。
ただし、何が起きたかわかっていない弟はきょとんとしている。
「仁蘭様も、ってどういうこと? え、また死にかけたんですか? お騒がせすぎません?」
「おまえがな!」
元気がいいのはいいことなのか? 二人の言い争いはしばらく続いていた。
私は寝台に顔を埋めた状態で、ぐったりしたまま動けない。
一気に疲労が押し寄せるのを感じていた。
もうだめだ、眠い。安心すると急に体が重く感じる。
「少し寝かせて……」
それだけ言って目を閉じた。
「床で寝る気か?」
仁蘭様の声が聞こえてきたけれど、私にはもう答える力も残っていない。
しばらくすると何か温かい布が背中にかけられ、ほどよく重たいそれがさらに眠気を呼び、どんどん意識が遠のいていった。
「……可哀想……運んで……」
「おまえに言われ……そうする」
二人はまだ何か言い争っている。いい加減に静かにしてくれないかと思った私は、伸びてきた流千の手らしきものを両腕でしっかりと抱き締めて「あなたも寝なさい」と言った。
いくら神力が回復したとはいえ、夜はきちんと寝た方がいいはず。
それから何度も「采華、采華」と流千の呼びかけが続いていたもののその声は少し遠く、私は眠気に負けて朝までぐっすり休むのだった。




