そもそもの発端は……
『この世には、金銀財宝よりも大切なものがある』
病に苦しむ人を想い、いつだって身を粉にして薬づくりを行ってきた父が言っていた言葉だった。
范家は『范気堂』という天遼国で最も古い薬屋を営んできた。
けれど半年前、人の好い父が騙されて莫大な借金を背負い、店も家も何もかも理不尽に奪われそうになっている。
私が後宮妃になったのは、皇帝陛下ならば公正なご判断で范家を助けてくれるかもしれないと考えたからだ。
『人の命は何より大事。そこに身分や性別の貴賤はない』
幼い頃から父よりそう教わった。
この国で最も恵まれている首都においても、薬はごく一部の人しか手に入らない。
それでも范家は代々できるだけ多くの人が必要な薬を買い求められるよう、王都の人々に薬を提供してきた。
安価でよく効くと評判の茶や薬を材料から厳選して作り、身分を問わず病や怪我で困っている人々のために尽くす。
そんな両親が私の誇りであり、自分も早く店を継げるようになりたいと薬のことを学んできた。
今、その范家が取り潰しの危機に陥っている。
「早く皇帝陛下にお会いして、嘆願書を渡さなければ……!」
召喚術を行使する二日前。
私は、箒を手にしてボロボロの宮を掃除しながらずっとそのことを考えていた。
薬の販売を管轄する尚薬局には文を何度も送っているが返事はなく、范家の両親や薬師の皆、使用人たちは窮地に立たされたまま。
この国では尚薬局の許可がなければ薬を売れない。店同士のいざこざも間に入ってくれるはずなのに今回は介入する気配がなかった。
「尚薬局がきちんと仕事をしてくれればこんなことになっていないのに!」
箒の柄を強く握り締めながら嘆いていると、厨房で粥を作っていた流千がひょこっと顔を出して言った。
「あっちは無理だね。尚薬局の役人は、父さんを騙した伊家から賄賂をもらっているだろうから」
伊家はうちと同じ薬屋だが、貴族だけを相手にして多くの儲けを出している。
人の命よりも金の方が大事なのだ。
そのため、范家とは相容れない存在だった。
ところが一昨年、なぜか『より多くの人を救うために共に丹薬の研究をしないか』と持ち掛けられた。
丹薬とは鉱物と薬を混ぜて作る秘薬で『どんな病も治せる』『不老不死になれる』と言い伝えられていて、それを求める人々はとても多い。
父は世のため人のためになるのなら……と人助けのつもりでその話を受けた。私たち家族が止めるのも聞かずに。
人を信じやすい父の主張としては「伊家のご当主にも薬を扱う者として人々を救いたいというお心があるのだよ」ということだったのだけれど────。
「伊家に良心なんてあるわけがない」
流千が遠い目をする。
その目からは呆れや哀れみ、やるせなさなど色々な感情が見て取れた。
私も、父のお人好しはちょっと行き過ぎだと思っていた。でもそこが尊敬できるところでもあり、
これまでも騙されたばかりではなかったからさほど強く止められなかった。
「伊家をこれ以上のさばらせたくない人たちが范家に味方してくれているうちは店を続けられるけれど、それだって何年も続かないわ。家を守るには、皇帝陛下に直接お願いするしかない」
「今の皇帝陛下になってから宮廷の役人や貴族の腐敗は容赦なく粛清されているって聞くけれど、尚薬局にまで改革が及ぶのは時間がかかるだろうね。何としても、皇帝陛下に直接会わなきゃ」
「ええ、急がないと……!」
私は箒を握り締めたまま、下を向いて考え込む。
母は心労が重なり倒れてしまい、娘の私がこのまま見ているだけではいけないと奮起して後宮妃になったのだ。私が諦めるわけにはいかなかった。
流千は長い匙を手にして、粥を鍋から直接掬って口に運び始めた。
「あっ、こら。流千、ちゃんと椀によそって食べなさい」
「ん~。ここはいよいよ僕の仙術の出番かな」
「聞いて? お姉ちゃんが怒ってるのよ?」
「まだちょっと麦が硬いな」
まるで人の話を聞いていない流千が、竈に右の手の平を翳せば念じるだけで薪が赤く燃え上がる。
仙術士はこんな風に不思議な力を持っている。
生まれつき神力を宿しているためで、風に火や水、風を操ったり、占いによって吉凶を予測したり、悪しき力を退けるための結界を生み出したり魔を祓ったり……と常人にはできない術が使えるのだ。
男子禁制の後宮に宦官でない弟がいられるのは、この仙術士という職業のおかげだった。
天遼国では、高貴な方々は占いを重んじる傾向があり何か起きれば事あるごとに「時がよくない」「方角の吉凶が!」と不安がる。
特に嫉妬や妬みを買いやすい上流階級ともなれば『呪い』や『祟り』といった目に見えない力を恐れるのだ。
高貴な方々にとっては大変に役立つ存在で、この後宮においても『妃付き仙術士』は男性であっても仕えることが許されていた。
といっても、大抵の仙術士は高齢だ。何十年も修行しないと仙術を習得できないから。後宮の規定もまさか十代で仙術士を名乗る者が現れるとは想定しておらず、なんと年齢の規定がなかった。
流千は既定の穴を突き、しれっと私についてきたのだった。
粥がぐつぐつを音を立てるのを見ながら、流千は言う。
「僕はこの日のために厳しい修行に耐えて、仙術を磨いてきたのかもね」
「一年で修行場を追い出された子が何言ってるの?」
耐えてない、耐えてない。
私は呆れて目元が引き攣る。
仙術士は何十年も山に篭って鍛錬を行うのが普通だが、流千は過酷な暮らしと狭い世界での嫌がらせに耐えきれず、先輩仙術士たちと喧嘩をして一年で王都に戻ってきてしまったのだ。
せっかく名家の養子にしてもらって、ゆくゆくは歴史に名を残すような立派な仙術士に……と家族皆で送り出したのに本当に短い間の出来事だった。
名前だって元の范甲天から朱流千に改めたのに、すぐに出戻ってくるとは思わなかった。
年齢にそぐわない類稀なる才能があることは間違いないのだが、自分が一番大好きなので努力や修行は性に合わないらしい。
「これまでは竈の火をつけたり甕の中の水を増やしたり、そういうことにしか使っていなかっただろう? 宮廷には特殊な結界が張ってあるから、建物の内部をここから覗き見ることも難しかった。でも、月が消える夜がもうすぐやってくる。神力が満ちるその夜なら、大きな術が使えると思う」
「大きな術?」
月が消える夜は、何年かに一度訪れる。
完全な暗闇に包まれることもあれば、太陽の環が夜空に浮かぶこともあるという。近頃、流千は神力が少しずつ高まっていくのを感じているそうで、もうすぐその夜が近づいているとわかるのだと笑った。
「仙術はいつでも使える術と機を選ぶ術があるから。直近で言えば、僕らが後宮へ来る前の新年の宴があった日が仙術士の力を高めるいい機会だったんだ。で、次の好機は月が消える夜」
「その時を逃せば、この先はもうしばらく機会がなくなってしまうってこと?」
「うん」
「……」
私は何と答えていいものか悩んでいた。
皇帝陛下には会いたい。会って范家の窮状を知ってほしい。
でも流千は優秀だけれどそれ以上に好奇心旺盛なところがあるから、その大きな術というものがまともな術なのかが不安だった。
「あなた一体何をするつもり? まさか空を飛んで宮廷に侵入するとか?」
護衛に見つかったら矢を射かけられるのでは、と不安がよぎる。
私が真剣に心配しているのに流千は「そんな子どもみたいなことしないよ」と笑った。
「皇帝陛下に会えないなら、いっそ召喚術でここへ喚んでみない?」
「は?」
「だって来てくれないんだから喚ぶしかないでしょう?」
あまりに大胆な方法に、私は息を呑む。
召喚術を使って皇帝陛下をここへ喚べば、確かにお目通りが叶う。でも……。
「召喚術って、会ったこともない皇帝陛下をここへ喚べるの?」
そんなことができるのだろうか?
流千が不思議な術を使えるのは知っているけれど、人を召喚するだなんて半信半疑だった。
「僕の神力だけじゃなくて、祭器や呪符、翡翠なんかも使うけどね。それに、皇帝陛下の髪の毛も」
「髪の毛なんてどこで手に入れるの……?」
皇帝陛下は後宮に足を運ばない。
そのお姿も声も何もわからないし、まして近づいて「髪の毛をいただきます」なんてことができるのならそもそも召喚しようなんて話にはなっていないのだ。
「皇帝陛下は政には熱心な方だって噂だから、外廷には必ずいるだろう?」
「それはそうね」
外廷には政を担う尚書省や議場などがあり、皇帝陛下はいつもそちらにいらっしゃった。ここから建物は見えるけれど、後宮との間には高い壁が存在する。
あちら側へこっそり行く方法はあっても、外廷に入れたとしても皇帝陛下には気軽に目通りできないことは明らかだった。
眉根を寄せる私に対し、流千はにやりと笑う。
「外廷の掃除係に金を渡して、陛下の髪の毛をもらってくる」
「まさかの買収!?」
「当然、それだけじゃないよ? 召喚術で使う呪符に『皇族の血を引く成人男子』って条件をしっかり書くんだ。それを神力で起こした火にくべる。あぁ、ほかにも必要な物があるからそれはこれから後宮を抜け出して市場で買い集めて……問題はほかの仙術士に気づかれないための対策かな? 邪魔されたくないもんね。ここ以外の宮に、呪符を燃やした灰をこっそり紛れ込ませるのがいいかな。あとは」
「ちょ、ちょっと待って。もう召喚術を使うって決めてるの!?」
相談じゃなくて報告だったの!?
私は慌てて流千の話を遮る。
召喚術については何となくわかったけれど、大きな問題が残っていた。
「召喚なんて、皇帝陛下からすればただの誘拐なんじゃ……」
誰だって勝手に召喚されたら恐ろしいだろうし、怒るだろう。
召喚されたときに皇帝陛下はどのような感情を持たれるのか?
せっかくお会いできても話を聞いてもらえなかったり、何なら誘拐罪で死刑になったりしない?
私は箒を放り出し、流千に詰め寄った。
「落ち着いて、別の方法を考えましょう!」
「考えた結果、もう手詰まりなんじゃないか」
「それは……」
「あ、召喚術を使うとき、采華は別に一緒にいなくていいよ?」
「どうして!?」
後宮へ入ると言い出したのは私なのだ。私には、姉として弟を連れてきた責任がある。
「術を使うなら私もそばにいるからね! 一人でそんなことさせられるわけないでしょう!」
即座にそう言うと、流千はそっと目を逸らしながら呟いた。
「いや、でも何かあって揉み消したいときに采華がいたら邪魔……」
「揉み消すって何」
皇帝陛下がお願いを聞いてくれなかった場合は『なかったこと』にでもするつもり!?
父の良心の欠片も受け継いでいない。
じとりとした目で睨むと、流千はいきなり真剣な顔に変わる。
「……今が禁術の使い時だと思うんだよ」
「召喚術って禁術なの?」
「そりゃそうでしょう? だから、采華は一緒にいなくていいって。僕が一人で何とかするから」
「…………」
昔からそうだ。流千は私の言うことなんて聞かないし、このまま放っておくと勝手に一人で召喚術を使うはず。
普段は生意気で自由な弟だけれど、こんなところについてきてくれるほど私を大事に想ってくれている。きっと召喚術の責任も自分一人で負うつもりなんだ。
「あなたって子は」
「だってほかに方法なんてないよ。このまま待っていても、どうせうちはおしまいだろう? だったらできるだけのことはした方がいいじゃないか。心配はいらないよ、采華に迷惑はかけないから」
いや、さすがにそれは無理がある。
私たちは姉弟で、妃と仙術士なのだ。一蓮托生、処分されるなら諸共である。
もしも自分は逃げられるとしても、流千だけに責任を負わせるなんてしたくない。
私はさっそく行動に移ろうとする流千の肩をぎゅうっと掴み、まっすぐに見つめて言った。
「逃がさない」
「え?」
「召喚術を使うなら、私もその場で見届ける! 約束してくれるまでは離しません!」
「えええ……? 痛い痛い痛い、ちょっと離してよ!?」
「嫌」
流千は本気で嫌そうな顔をしていたけれど、私は一歩も引かなかった。
「どうせ皇帝陛下に会えなければ范家は潰れておしまいでしょう? そうなったら後宮でただ朽ち果てるだけの私に何の意味があるの? だったら私も覚悟を決めるわ!」
「采華、やけになっていない?」
無謀なことだとわかっているけれど、もうほかに方法はない。
皇帝陛下に窮状を訴えることができたなら、その後でいくらでも罰は受けよう。私たちは、皇帝陛下に会うためにここへ来たんだから……!
私は、召喚術に人生を賭けることにした。
まさかそれが『別人を召喚してしまいました』という大事件に発展するとは知らずに────。