呪い
警戒しながら、来たときと同じく藪に隠された壁の穴を抜けて後宮へ戻る。
仁蘭様は「流千のやつ、勝手に穴を開けたな?」と眉を潜めていたが聞こえなかったふりをした。
うちの弟が本当にすみません。
「行き来するのに便利でしょう?」
「何のために壁があると思っている? 行き来を防ぐためだ」
「ははは……」
苦笑いでごまかす。
「だいたい、流千はすでに行き来できる許可証を持っているだろうが。こんな穴を開けて」
「本当に申し訳ございません」
ときおり強い風から腕の中にいる猫を庇いながら歩き続け、ようやく宮の明かりが見えたところで異変に気付いた。
「あれは……流千!?」
扉にもたれかかり、ぐったりとした様子で地面に座っていた。
私は驚いてひゅうっと息を呑み、急いで駆け寄る。
「流千! 流千!」
隣に膝をつき、肩や頬に触れながら呼びかけた。明らかにいつもと違い、血色が悪く青白い顔をしている。
昨夜会ったときは元気だったのに……!
「流千、目を覚まして!」
呼びかけていると、流千は薄っすらと目を開けて力なく笑った。
「ごめん、ちょっと失敗して呪われちゃった」
「呪……!?」
掴んだ手が信じられないほどに冷たい。私は小刻みに震えるそれを握り締めるだけで、体が動かなくなってしまった。
このままじゃいけない。寝台に寝かせて温かい薬湯を飲ませて、それから────。
「除け」
「え」
大きな手が私の肩にかかり、視界が斜めになった。
直後にパーーン! と大きな音がして、仁蘭様が流千の頬をおもいきり叩いたのだとわかる。
「ええええ!?」
「痛い!」
赤くなった頬は痛々しく、でも流千の目にやや生気が戻ったのは気のせいじゃない。
流千に恨みがましい目を向けられながら、仁蘭様は冷静に言った。
「呪いに意識を呑まれるな。目を覚ませ、寝ているおまえに価値などない」
酷い。弱っていても仁蘭様は厳しかった。
でもそのおかげで流千はしっかりと目を覚まし、叩かれた頬を手で押さえながら「くそぉ……」と呟いた。叩かれてからずっと恨みの篭った目で仁蘭様を睨んでいる。
「鬼がいる……!」
「元気そうだな。その呪いとやらは人に広がるのか?」
「広がらないように僕が神力で抑え込んでるよ! だいたい、人に広がるようならここへは来ないだろ、采華がいるのに!」
流千は叫ぶようにしてそう言った。
「こいつを中へ運ぶぞ」
「は、はい」
私が返事をするより早く、仁蘭様は流千の腕を自分の肩に回し、半ば担ぐようにして宮の中へと入っていった。
猫もトタトタと軽い足音を立ててついてくる。
そういえば、いつだったか流千から聞いたことがあった。
『呪われたときは、とにかく意識を保つのが大事』
まさかひっぱたくのが効果的だとは思わなかったわ……。
私は走って二人を追い越し、先回りして流千の部屋の扉を開ける。
「ここです」
中にはよくわからない模様が入った円鏡や銅の壺などが床の上に転がっていて、私は急いでそれらを端へ放って寝台への道を作る。
仁蘭様に支えられながら寝台に横たわった流千は、息苦しそうに顔を顰めて襟元を寛げた。
「はぁ……はぁ……」
意識はあるけれど、呼吸が荒く冷や汗がこめかみを滴っている。かなりつらそうだった。
私は急いで薬棚を開け、流千が作った呪符を取り出す。
「湯を沸かしてこれを溶いて、それに薬湯も飲ませないと!」
今はちゃんと体が動く。
大丈夫、流千から呪いの対処法は聞いているしその通りにすれば助けることができる。
「流千、がんばって……!」
湯を沸かしてくるから待っていてと伝えると、弱弱しい声で「うん」と返事が聞こえた。
流千は仁蘭様の存在が気になるようで、こんなときでも言い争いは続いた。
「もう帰ってくれません? 十分助かりましたので」
「おまえが眠らないよう見張っていてやろう」
「いり……ませんよ。どうせまた……ぶん殴る気でしょう?」
「わかっているならその目をこじ開けておくんだな。今度寝たら首を吹き飛ばすぞ」
「うわぁ、どっちにしても……死ぬ……」
流千が嫌がるのも無理はないけれど、今は仁蘭様がいてくれることがありがたかった。
「すぐに戻ります!」
私は二人を置いて厨房へ走り、大急ぎで湯を沸かした。
手を動かしながら、胸の中で「大丈夫」と何度も自分に言い聞かせる。
「にゃ?」
足元で猫の声がするも、そちらを見る余裕はなかった。
早く早くと竈の火を見ながら湯が沸くのを待っていると、仁蘭様が厨房へやってきた。
「流千は?」
「元気そうだ。俺がそばにいると気が休まらず死にそうだというから出てきた」
「すみません……」
緊急事態とはいえかなりの無礼な言いぐさである。
私は申し訳なさに目線を逸らす。
「火くらいなら俺が」
「え?」
仁蘭様が竈に向かって右手を翳せば、火が一気に大きくなる。
流千がしていたのと同じ光景を見て、私は目を丸くする。
「俺にも一応は神力がある。流千のように特別な術が使えるわけではないが」
「いえ……! 助かりました! ありがとうございます!」
一刻も早く呪符を飲ませたい私は、仁蘭様の右手を掴んで感謝を伝える。
そしてすぐに鍋の湯を器に入れ、呪符を溶かすために匙で懸命に混ぜた。
真っ白な紙でしかない呪符が湯に溶けると薄青色の液体へと変わる。
「これを冷まして飲ませれば……ってどうかしました?」
視線を感じて隣を見れば、仁蘭様がじっと私の顔を見ていた。
もしや手順に何か問題でもあったのかと不安を抱く。
「私、何か間違えましたか!? ただ溶かすだけって聞いてたんですけれど」
「いや、間違っていない。あとは冷まして飲ませればいいと思う」
よかった、間違っていなかった。
私は大きな安堵の息を吐く。
「……あの男がそんなに大事か」
仁蘭様は、私の手元にある茶器を見ながらそう言った。
何気なく呟いたといった感じで、私はきょとんとしてしまう。
「大事ですよ?」
この世でたった一人の弟なのだ。何としてでも助けたい。
「あっ、ありがとうございました! あとは私が何とかしますから、仁蘭様は宮廷へお戻りください」
「本当に大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です。しっかり看病します。だからどうか仁蘭様も休んでください」
この方も万全とは言えない状態なのだ。
今だって普通に神力を使わせてしまったけれど、本当はそれもよくなかったはず。
流千のことは私がきちんと世話をするから大丈夫だと宣言する。
「あ、そうだ。きちんと薬を飲んでくださいね?」
私はそれだけ念を押すと、呪符を飲ませるために再び流千の寝所へと急ぐのだった。




