どうかしている
迷っている時間はなかった。
私は手すりを跨ぎ、猫をぎゅうっと抱いたまま飛び降りる。
落ちるのは一瞬のことで、髪や頬を風が一気に撫でていった。あまりに必死で痛みや衝撃はほとんど感じられなかったが、どんっという鈍い音の後で目を開ければ鬼のような形相の仁蘭様がものすごく近くにあって驚いた。
咄嗟の出来事だったのに、仁蘭様は私を横抱きにして受け止めてくれていた。猫もちゃんと無事である。
「おまえは死ぬ気か!?」
「すみません!」
「火傷の後は飛び降りとは、どうかしている!!」
心の底から呆れられていた。仁蘭様は焦った顔をしていた。
びっくりさせて申し訳ないと思いつつも、私はうっかり呟く。
「死んだらそれまでって言ったのは仁蘭様じゃないですか」
「こういう意味じゃない!」
でも今は言い争いをしている場合ではなかった。「みゃあ」という鳴き声に、はっと我に返る。
仁蘭様はここで初めて私が抱いている猫の存在に気づき、その視線を落とす。
「何だ……?」
「追手が! 隠れないと!」
せっかく飛び降りたのに、ここで見つかったら元も子もない。
「この子を狙う武官が追ってきているんです!」
仁蘭様はなぜ武官が猫を追うのかと思ったようで眉根を寄せたが、私を下ろすと「こっちへ」と言い歩き出した。
遠くから人が走ってくる足音がばたばたと聞こえてきて、私を探しているのだとわかる。いつの間にか人が増えている!?
このままじゃ、走って逃げたとしても追いつかれてしまう。
「何なんだ、その猫は?」
「拾いました!」
私の前を歩いていた仁蘭様は小さく舌打ちをし、すぐそばにあった壁に向かって自分の刀の柄を翳した。
ガタンと何か仕掛けが動く音がして「何だろう?」と思っていると、仁蘭様に肩を掴まれた。
「えっ」
「入れ」
壁に見えていたところは扉になっていて、私は強引に中へ押し込まれる。
「狭っ」
「我慢しろ」
とても二人で入れるような空間はなく、バタンと扉が閉まった後は仁蘭様の逞しい体躯と壁に挟まれる体勢になっていた。
すぐ目の前には仁蘭様の襟元があり、あまりの近さに心臓がどきどきと激しく鳴り始める。
「な……何ですか、ここは」
「密書のやりとりに使っている隠し部屋だ。文を置くための保管庫のようなものだ」
どうりで狭いと思った……!
仁蘭様は外のかすかな気配や音を探っているようで、私も息を潜めてじっとする。
今はおとなしくしてくれている猫に対し、「お願いだから今は鳴かないで」と心の中で懇願した。ちらりと目をやれば、じっとこちらを見つめる光る瞳だけが暗闇の中で浮いている。
猫なのに、今は鳴いてはいけないと理解しているらしい。
随分と賢い子だなと感心しつつも、賢すぎて違和感を抱く。
回復力といい、言葉が通じているかのような反応といい、やはり普通の猫じゃないのでは?
「行ったようだな」
壁の向こうからかすかに聞こえていた人の声や足音が次第に遠ざかっていった。
私は安堵の息をつく。
でも、広がる静寂が私の心臓に悪すぎた。狭いから仕方がないとはい仁蘭様の腕が私の顔のすぐ横にあり、まるで抱き締められているみたいな体勢で落ち着かない。
これはさすがに近い……!
頬が少し熱を持っているのがわかり、ここが暗くてよかったと思った。
しばらく耐えていると、仁蘭様がため息交じりに言った。
「まったく、おまえは想定外のことをしてくれる」
喋ると目の前の喉が動く。そのせいで存在を意識してしまい、私は視線を落とした。
「すみません……」
この子を守るためには仕方なかったのだけれど、偶然通りかかっただけの仁蘭様からすれば巻き添えである。
「受け止めた腕の骨が折れていたらどうしてくれるんだ」
「平気ですよ。仁蘭様はそんなにか弱くないはずです」
「それも勘か?」
「いえ。前に体を拭いたときに随分と鍛えていらっしゃるなと思ったので」
「おまえには恥じらいというものはないのか」
盛大に呆れられているが、あの時は弱っているこの人を助けなければと必死だったのだ。
「ずぶ濡れの人を助けるのに、脱がせるのを恥じらっていたら死なせてしまいますよ」
今の方が緊張しているし、恥じらいがなければこんなに息が詰まるような思いはせずに済んだのに……と残念なくらいだった。
私よりも仁蘭様の方が平気そうで、何だか悔しくなった私は強引に彼の胸を手で押して自分の空間を確保しようと試みた。
「おい! 動くな愚か者!」
「だって狭いんです! 猫が動けなくて可哀想ですし!」
「もうしばらくおとなしくしていろ!」
暗闇に目が慣れてきて、仁蘭様が私を見下ろし睨んでいるのがわかる。
視線がぱちりと合うと途端に気まずさがこみ上げてきて、私は再び下を向いた。
「まったく、前にも言っただろう。おまえは下級妃とはいえ皇帝陛下の妃だ。品位を保て」
冷たい声音はいつものことだ。私が妃であることもただの事実だった。
それなのに、なぜか胸のあたりがもやもやして苦しくなる。
この間は手当てを手伝ってくれて、実はそんなに悪い人じゃないかもって思っていたのに……。
仁蘭様にとって私はあくまで下級妃で、皇帝陛下のために品位を保ってもらわなければ困るといったところなのだろう。
そんなこと最初からわかっていたはずなのに、何だか無性にもやもやした。
「…………」
再び訪れた静寂を破ったのは仁蘭様の方だった。
「それは本当に猫なのか?」
「え?」
「俺の知っている猫とは随分と雰囲気が違う」
今もじっとこちらを見ている猫は、私たちの会話がわかっているようだった。
金色の目を見ていると吸い込まれそうで、不思議な感覚に陥る。
「後宮で衰弱しているようだったので保護したんです」
「衰弱? そのようには見えないが」
今は毛並みも艶があり、元気そうにしている。
仁蘭様がそう疑問に思うのももっともだった。
「水とエサを与えたら回復したんです。普通の猫じゃないかも、とは私も思いました」
私たちの視線を集める猫は、ぺろぺろと手を舐めて毛づくろいを始めた。こういう仕草だけを見れば普通の猫である。
「私の宮にいるよりは宮廷の流千のところにいた方がきちんとしたエサにありつけるのではと思って、連れて行こうとしたんです。けれど途中で武官に見つかってこの子を奪われそうになって……」
「武官が猫を?」
飼い猫でもなさそうだったのに、なぜあの武官は猫を奪おうとしたのだろう?
「この子はそんなに貴重な猫なんでしょうか?」
「…………」
猫はじっと見つめる私を見つめ返し「みゃあ」と鳴いた。
仁蘭様は武官が猫を追いかけるなんて普通はあり得ないと言うし、私もそう思った。
何か理由があったのではと首を捻っていると、仁蘭様の腕が動いた。
「そろそろいいだろう。ここを出よう」
「はい」
私は仁蘭様に続いて隠し部屋の中から外へ出る。
すでに日は傾いていて、遠くに灯篭の明かりが点々と浮かんでいるように見えた。
武官の姿はなく、うまく逃げられたらしい。
今ここで再び宮廷内に戻るのは危険すぎるので、流千に会いに行くのはいったん取りやめて私の宮で猫を匿うことに決まった。




