追われる女官
「何か食べさせる物は……」
薄い皿に水を入れ与えてみると、ぴちゃぴちゃと音を立てながらそれを飲んだ。流千が神力を注いでおいた水だから、これを飲んだら少しは回復するはずだ。
「猫って何を食べるんだろう? この人懐っこさだと誰かに飼われていたみたいだし、普段から食べ慣れていなければトカゲやネズミは食べないよね?」
ここには人間用の薬や乾物はあるけれど、どれも猫にはよくない気がする。
しかも、弱っているこの子に固形物は無理かもしれない。水を飲む白銀の猫を見ながら、私は悩んだ。
「あ! 宮廷の食堂になら山羊の乳がある!」
ここには何もないけれど、密かに宮廷に連れて行けばいいのでは?
流千が使っている抜け道を使えば宮廷へ行けるし、今や仙術士として堂々とあちらにいる流千には自由に使える部屋もあると聞いている。
そこならこの子を預かってもらえるのではと思った。
「よしよし、一緒に食べ物をもらいに行こうね」
「みゃ!」
猫を抱きかかえようとしたところ、手の間をするりと抜けて走っていく。
一体どこへ行くのかと後を追うと、猫は厨房に入ってしまっていた。
大丈夫、火は消してある。怯えさせないようにゆっくりと近づけば、猫は窓辺に干してあったヤモリに噛みつきもしゃもしゃと口を動かしていた。
「え! それがいいの!?」
信じられない。器用に前足を使ってヤモリを掴み、躊躇いなくかぶりついている。私の問いかけに返事はないが、猫は満足げな顔に見えた。
こういうのが好きなんだろうか……?
私は壺に入れてあった蛙の干し物も差し出してみる。
「これも食べる?」
「にゃ!」
大きな口を開け、ぱくりと噛みつく。
猫はすべてきれいに平らげた後、丸くなって目を閉じた。どうやらおなか一杯になったのでひと眠りするらしい。
よく見ると毛並みが輝くように光を放っていて、ついさっきまで衰弱していたとは思えないほど元気そうだ。
「どういうこと……?」
保護しなければ死にそうなくらいに弱っていたのにこんなにすぐに回復するとは!?
どう考えてもおかしい。
「う~ん、元気になったのはいいことだけれどあなたは何者……?」
すやすやと眠っている姿は普通の猫だった。
私は戸惑いながらも、その背をそろそろと撫でる。
「かわいい……」
息をするたびに上下する背中に、触り心地のいいふわふわの毛。
それを見ていると、こんなに愛らしいこの子にはもっときちんとした食事をあげたいという気持ちになった。
「やっぱり宮廷に連れて行こう。ここには大した物がないし」
いくら食事を運んでもらえるようになっているとはいえ、あくまで人間用である。私は猫を腕に抱え、宮廷にいる流千を訪ねることにした。
注目を集めてこの子がびっくりしないように、藍染の布で猫をくるんでから宮を出る。
流千に教えてもらった抜け道は、竹林を抜けてすぐの場所にあった。管理局のある黒い屋根の建物を横切り、後宮と宮廷の間に作られた壁を目指す。
藪で隠してある大きな穴を通り抜ければ、そこは人通りのない宮廷の西側だった。
後宮を出たのはここに来てから初めてで、見つからないか緊張で胸がどきどきした。幸いにも、ちらほら目にする女官たちは私と同じ装束を着ていて、髪型も似たり寄ったりで気づかれなさそうだった。
しばらく歩いていくと石畳の小道に出て、そこで数人の官吏とすれ違ったが彼らは会話に夢中で私のことを気にも留めない。
堂々と歩いていれば注目されないものなんだなと安堵し、流千から聞いていた双頭の竜の飾りがついた朱色の建物の中へと入る。
三階まで階段を上がったところで、きれいな夕日が見えた。今日の仕事を終えた官吏たちが行き交っていて、さすがにここでは私は浮いているように感じる。
緊張しながら一歩ずつ歩いていく。
「みゃ」
それなのに、今まで眠っていた猫がふいに鳴き声を上げた。周囲の人々の視線がこちらに向けられ、どきりとして体が強張った。
「し、失礼いたします」
ここで身分や役職を尋ねられでもしたらまずい。
私は猫を布ごと腕の中に隠しながら、足早に廊下を進んだ。
あと少し、あと少しで流千の部屋につく……! どうか誰にも声をかけられずに済みますように。
心の中で必死に願いながら歩いていく。
「おい、そこのおまえ」
「っ!」
願いも空しく、髭を生やした武官に声をかけられてしまう。
正面からやってきたその人は後宮でも見かける黒い装束の武官とは違い、紺色の装束に帯刀姿だった。
しかも彼の目線は私の腕の中に向けられていて、「なぜここに?」といった風に眇められている。
もしかしてこの子のことを知っている……?
でも武官の雰囲気は、ただの女官や猫に向けられるにしては険しかった。
「それはどこで見つけた?」
「あぁ~、ええーっと……」
後宮で、と正直に答えると後宮から宮廷へ出てきていることが露呈する。
私は返答に困ってしまった。
けれど、彼は私が何か言うより前にその手を猫に伸ばしてきた。
「まぁいい、これはもらっていく」
「えっ!」
私は猫を奪われまいと咄嗟に身をよじって武官の手を避ける。どう見てもこの人が猫を大事にするようには見えず、渡したくないと思ったのだ。
その瞬間、白銀色の塊が武官に向かって飛んでいく。
「みゃう!」
「うわぁっ!」
あんなにおとなしかった猫が、爪を立てて武官に襲い掛かった。
右手にひっかき傷ができた彼は恐ろしい形相に変わり、床にトンッと着地した猫を睨む。
「痛ってぇ」
私は驚きで目を丸くするも、武官の手が刀の柄にかかるのを見て慌てて猫に声をかけた。
「早く! 一緒に来て!」
私が呼びかけると、まるで意思疎通ができているかのように猫は再び腕の中に戻ってくる。
こうなったらもう注目されたくないだなんて言っていられなかった。踵を返して今来た道を全力で駆け、官吏たちの間を縫って必死に走った。
「待て!」
後ろから武官の声がした。でも振り返っている余裕はない。
このまま駆けても、私の足では後宮に逃げ込む前に掴まってしまう。どこかに隠れる場所ないかとあちこちに視線を向かわせて扉を探す。
回廊まで走ってきたところで、下を歩いている人影が視界に入った。
赤い髪が夕日を浴びて美しく輝いて見えて、私ははっと目を見開く。
「じ……!」
危うく大声で名を呼びそうになり、私は口をつぐむ。
一階の小道を歩いていた仁蘭様は、そのたった一言に気づいて顔を上げてくれた。目が合った瞬間、助かったと思った私は彼に向って言った。
「受け止めてください!」
「なっ……!?」




