白銀色の猫
それからしばらくの間、何事もなく日々は過ぎた。
後宮の庭に目を向ければ木々の間を鳥たちが飛び回り、緑はより生き生きと輝き出している。
女官たちは私がこれまでと同じく平然と働くのを見て悔しげな顔をしていて、しかも私が虫などの贈り物を大歓迎していることにも気づき始め、苛立ちを募らせていっているように思える。
また何か起きなければいいけれど……。
今日も私は書机の前に座り、喜凰妃様がほかのお妃様に送る初夏の茶会の招待状を代筆していた。
それが終わる頃には空は爽やかな青から茜色に変わり、今夜も食堂や湯殿で宮女たちから情報を集めなければと考えていた。
美明さんの行方は依然としてつかめない。
宮廷に出入りし始めた流千によれば、あちらは不穏な空気でいっぱいらしい。
今、宮廷は皇帝派と孫大臣派に分かれている。
もちろん仁蘭様は皇帝派で、皇帝陛下に逆らう者は容赦なく罰することで『皇帝の犬』や『残虐非道な鬼』などと呼ばれていた。
流千いわく「すごく嫌われてる!」と……。
二つの派閥が犬猿の仲であるのは、六年前に亡くなられた先帝様の死がきっかけだった。先帝様は公には病死とされているが、実は孫大臣によって毒殺されたのではないか? という噂が流れていた。
宮廷を手中に収めたい孫大臣と、傀儡にはならずそれに抵抗する新皇帝。その勢力争いは次第に激化している。
そんな中で美明さんが失踪したのだから、孫大臣の娘である喜凰妃様が絡んでいると仁蘭様が考えるのは妥当だろう。
『仁蘭様は、孫大臣を失脚させたいんだよ。祖呉江には孫大臣の息がかかった組織の拠点があるらしくて、犯罪の証拠を集めるためにあの夜はわざわざ自ら調べに行っていたみたい』
流千は吉凶を占うと称して宮廷の事情を探り、この短期間でたくさんの官吏や武官と知り合い人脈を広げていっていた。
宮廷一の仙術士というより、宮廷一の人たらしの道を進んでいる。
『占いで稼いで、伊家よりたくさんの賄賂を尚薬局に渡せるようにするから!』
そんな新たな目標を掲げていた。
弟はどこまでも強かだった。
昨夜見た明るい笑顔を思い出した私は、小さく息をつく。
「伊家より多い賄賂って、一体いくらなのよ……」
途方もない額であることは確かだ。
それに、流千の態度からは私が美明さんを見つけられるとは到底思っていないということが伝わってくる。
家のことさえ解決できれば、二人で逃げようと考えていそうだなと思った。
「私、仁蘭様に逃げないって言っちゃったよ……?」
第一、たとえ賄賂作戦が成功したとして美明さんが見つからないまま後宮を出るのは気が進まない。成り行きで仕方なく引き受けた仕事でも、仁蘭様もほかに方法がなくて私に命じてきたのだろうし……。
力になりたいと思うのは無謀だろうか?
「恋人がいなくなったのなら、寝られないし食べられないのも当然よね」
仁蘭様の疲れた顔を思い出す。
私に恋人はいないが、もしも弟が行方不明になったら何としても捜し出そうとするはずだ。
それこそ、心配しすぎて正気を保っていられないかもしれない。
どうか無事でいてほしいと思いながら、仁蘭様への報告のために筆を取る。
『仁蘭様、きちんと薬は飲んでいますか? 体調はどうですか? 眠れないときは首筋を温めるなどが効果的ですよ。自分では疲労を感じていなくても、きちんと決まった時間に休むことをお勧めします。また新しい情報が入ったらご報告いたします』
これといった新たな手がかりも見つからず役立つ情報もないせいで、気づいたら文が体調を伺う内容になってしまっていた。
これまで同じ人に何度も文を書くこともなければ、報告書を上げることもなかったので文才のなさを実感する。
でも『報告なし』とだけ書くわけにもいかず、結局私はこのまま文を出すことにした。
そんな日々が五日ほど続き、代筆の仕事がある程度片付いた午後のこと。
──みゃー……。
窓の外から、今にも消えそうなほどか弱い鳴き声が聞こえてきた。
耳をすませばさらに二度高い鳴き声が聞こえてきて、それに呼ばれるように外へ出る。
深緑色の葉をつけた槐樹の方から聞こえる声を辿って行けば、根本の辺りを見るとふわふわとした白銀色の生き物がいた。
「白銀色の猫? 珍しい」
思わず上げた私の声に、丸い耳がぴくりと反応する。でも、目が合っても逃げるどころか少しも動こうとしなかった。
どこかで飼われていた猫だろうか? 人に慣れているように見えた。
「触ってもいい?」
当然、返事はない。出血があるわけでもなく、怪我を負っている様子はない。えさを十分にもらえていなかったのか、痩せていて衰弱しているように見えた。
このままここに置いておくと死んでしまいそうで、私はこの子を自分の宮へと連れて行った。




