逃げたい
宦官の視線が私と蔵を交互に行き来する。困惑するその様子から見るに、私が素手で扉を破壊したのかと疑惑を持たれていた。
どうしよう! 「適当にごまかしておいて」という流千の言葉が頭をよぎるも、まったく言い訳が思い浮かばない!
ここは堂々と……!
「私は関係ありません」
「そんなわけないだろう!?」
「本当です、私も今来たばかりです」
「はぁ?」
流千をお手本にして、真顔できっぱりと言い切ってみた。
いつ嘘だとばれるか、さっきから心臓がばくばく鳴りっぱなしである。
でも、おどおどして目を逸らしたら負ける気がする!
もう一度「知りません」と言おうとしたら────。
「何をしている」
突然、低い声が割って入ってきた。
鮮やかな赤い髪が視界をよぎり、黒い服を着た背中に目の前を塞がれ、宦官の姿は見えなくなる。
「この者は、喜凰妃様に仕える女官だ。取り調べたいなら、喜凰妃様並びに孫大臣を通すことになるがそれでもいいのか?」
「い、いえ! 滅相もございません!」
「ならば行け」
「はい!」
広い背中から顔を出せば、さっきの宦官が転びそうになりながら走って逃げていくのが見えた。
よほど恐ろしかったのだろう、振り向きもせずに一目散に駆けていく。
有無を言わせぬ態度だったけれど、もしかして私を助けてくださった?
いや、でもこの方に限ってそんなことがあるはずないんだけれど……?
とにかく助かったことには違いない。ただし気になることはある。
「あの、仁蘭様。よろしいのですか? 勝手に喜凰妃様や孫大臣の名を出して」
見上げればその端正なお顔があった。
彼は前を見たまま、少し嘲るようなに言った。
「あいつらは権力に弱く、己に利がなければ動かない。今見たことを他言すれば面倒な事になるとわかっているから口外はしないだろう」
「なるほど……ところで仁蘭様はどうしてここへ?」
「おまえがなかなか現れないから様子を見に来たんだが?」
そうだった。竹林で待ち合わせをしていたのをすっかり忘れていた。
「すみません、ちょっと事情がございまして……」
ほかにも人が集まってくる前に早く場所を移さなければ。
ほっとしたら右足の裏がじんじんと痛みを訴えてくる。さっき灰を踏みつけたせいで火傷をしたらしい。
「どうした?」
「あ、えっと……とりあえず私の宮へ寄ってもいいですか?」
私は平静を装い、笑顔で西側を指さす。
痛みで顔が引き攣っているかもしれないが、ここで一から説明している時間はなかった。
仁蘭様は頷き、私と共に歩き始めた。
宮に到着するまでに、蔵で起きたことはおおまかに報告した。それに、未だ美明さんの行方はわからないということも。
歩くたびに右足の裏にぴりっとした痛みが走り、ここまで来るのも少しつらかった。
私は茶を淹れるからと待っていてくれと仁蘭様に告げ、湯を沸かすために厨房へ入る。湯が沸くまでの間、戸棚にあった清潔な布を手に取って土間に腰かけた。
仁蘭様をあまり待たせるわけにはいかないから、十分には冷やせないな。そう思ったとき、頭上から突然声が降ってきた。
「おい」
「ひっ!」
私は小さな悲鳴を上げた。
脱ぎかけた靴がはずみで転がり、ころんと裏返るのが見える。
「な、何でしょう?」
「茶はいい。先に手当てをしてしまえ」
「え……?」
「歩き方がおかしかった。ごまかせると思っていたのか?」
気づかれないようになるべく右足を踏みしめずにいたのに、完全にバレていた。
仁蘭様は私の隣にあった布を取り、水瓶に近づく。そして慣れた手つきでそれを濡らし、軽く絞ってから私に手渡した。
「あ、ありがとうございます」
受け取った布を右足の裏にあてると、ピリッとした痛みと共にひんやりとした心地よさもあった。
仁蘭様は私をじっと見下ろしている。
火傷の手当てが珍しいの? それとも「火傷なんてしやがって」と睨まれている?
沈黙に耐えきれなくなって恐る恐る顔を上げれば、無表情の仁蘭様と目が合った。
「おまえを騙した女官に報復はするのか?」
「報復って……そんなことしませんよ」
「甘い顔をしているとまた同じような目に遭うぞ」
仁蘭様の言っていることは理解できる。
でも、私以外の証言や証拠もないのに女官たちに歯向かうのは分が悪い。それに笙鈴さんだってこうせざるを得なかった理由があると思うのだ。
「仁蘭様はあちこちと喧嘩しながら生きていらっしゃるのでしょうが、誰かと喧嘩をすれば禍根が残ります。どちらも無傷ではいられません。それに今の私は下っ端の新人女官ですから、何の武器もないのですよ……? 武器を持たぬ者に戦えというのは強者の暴論です」
仏の心で許してやっているわけではない。ただ単に、打つ手がないのである。最下位の新米女官にどうしろと言うのだと、笑いが漏れた。
「あっ、でも諦めるわけではありませんからね? 美明さんの行方がわかれば、私はすぐに女官たちから逃げます! ええ、それはもう華麗に颯爽と」
「逃げるのか」
「当り前じゃないですか! まともに戦ったら命がいくらあっても足りませんよ!?」
これだから戦える人は、と私は呆れて息を吐いた。
追い込まれたとき以外は『逃げるが勝ち』である。
「仁蘭様も、どうかご無理はなさらないように。川に飛び込んで何度も助かるとは限りませんよ?」
無茶ばかりしていると私よりも仁蘭様の方が先に命を落としそうだ。
「俺のことはいい。まだ薬は塗らないのか?」
「せっかちですね!? もう少し冷やさないといけないのに……」
でも文句を言ったところで仕方がないので、投げやりに答える。
「戸棚に軟膏があります。冷やしたら塗るので、仁蘭様はどうかあちらで待……って何を?」
仁蘭様は戸棚を開け、そこにあった小さな筒を取り出した。蓋を開けて中身を確認し、「これが薬? 色が汚すぎないか?」と呟いた。
我が家に伝わる秘伝の軟膏は、深緑色で見た目は悪いがよく効くのだ。
汚いなんて失礼な……と不貞腐れる私に、仁蘭様は無言でそれを差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
もしかして手伝ってくれているの?
私は信じられないものを見る目で仁蘭様を見つめる。
そういえば、竹林での報告に遅れるどころか仁蘭様に迎えに来てもらった形になってしまったのに一度も咎められていない。
鬼上司なのに意外と面倒見がいいんだろうか?
「仁蘭様、さきほどはもしや私を探しに……?」
嘘ですよねと思いながら尋ねてみると、彼は意地悪い顔で答えた。
「様子を見に行っただけだ。逃げたのかと思ったがきちんと働いているようで何よりだ」
後宮から逃げるどころか、閉じ込められていましたが?
私は苦笑いで視線を落とす。
「逃げてどうにかなるなら逃げていますよ。それこそ、後宮の壁をよじ登ってでも」
逃げたところで召喚術を使った罪でお尋ね者になってしまう。これは取引なのだから、役目をまっとうする以外にはないのだ。
それに、美明さんの行方は私も気になっている。
「私は私にできることをすると決めました。だから逃げません」
そう宣言すると、仁蘭様は少し驚いた顔をした。
でもすぐにまた不敵な笑みを浮かべて言った。
「俺は逃げた者を追いかけるようなことはしない。そもそも、皇帝陛下の敵ならともかくおまえたちはただの愚か者だしな」
「うっ」
追う価値もないということか……。
辛辣なお言葉が胸に突き刺さる。
「だが、今おまえが壁をよじ登っていたら引きずり下ろして引き留めるくらいはしてやろう」
「嬉しくない……! 目が笑ってませんよ!?」
想像しただけで恐ろしくてぞっとした。
絶対に逃げられそうない……!
怯える私を見て、仁蘭様はくっと喉を鳴らして笑った。




