逃げそびれる姉
翌日、さっそく事件は起きた。
「ああっ、警戒していたのに……!」
喜凰妃様から珊瑚をいただいてしまった私は、女官たちに宴の招待状を代筆する仕事を押し付けられた。
汚い筆と欠けた硯を与えられ一人きりで作業をするよう命じられ、「何だか尼寺で修行しているみたい」という感想を抱いていた。
必死で書き続けること三刻。どうにか終わりが見えてきたとほっとしたとき、女官の笙鈴さんが私のところへやってきた。
『東の外れにある蔵から書物を運び、それも今日中に書き写しておくように』
私がおとなしく「わかりました」と返事をしたのが気に食わなかったのか、笙鈴さんは目を細めて睨んできた。でも、彼女もまた女官の中では下位である。ほかの女官たちの使いっ走りなのだろうと思うと、こんなことでしか憂さ晴らしができないんだなとちょっと同情した。
ここにきて新しい仕事が追加されるのは明らかに嫌がらせだったけれど、もっと陰湿な虐めも覚悟していたので「これくらいなら……」と思って言いつけに従う。
けれど東のはずれにある蔵に到着した途端、突然扉が閉まって出られなくなってしまった。
「笙鈴さん!?」
扉を叩いて叫んでも、誰かが助けてくれる気配はない。
蔵というより納屋といった方が合うボロボロの建物は、ところどころ壁が剝がれていて薄気味悪い。
「油断してた……!」
頭を抱えて反省していると、蔵の奥にいた人物が声をかけてきた。
「あれ? 采華が何でここに?」
「流千!?」
振り返れば見慣れた顔がそこにあり、私は驚いて目を瞬く。
流千は藍色の法衣姿で、その手には花奇楠の数珠と神具の鈴を持っている。
「女官の一人に騙されて閉じ込められたの」
「へぇ、それは災難だったね」
緊張感のない声はいつも通りだった。
私は流千のそばに寄り、木箱の上に座って尋ねる。
「あなたの方こそここで何してたの?」
「僕はお客さん待ちだったんだよ。宮女や宦官から占いをしてもらいたいって言われて」
弟は私の知らない間に副業を始めていた。
紅家の春貴妃様に頼んで、仙術士として出入りする許可をもらったんだとか。
「え? 今、流千は私の仙術士でありながら春貴妃様の仙術士でもあるの?」
「うん。後宮の規則では掛け持ちは禁止されていなかったんだ。春貴妃様の仙術士っていう身分があった方が後宮内を歩きやすいし、後宮と宮廷を堂々と行き来できるから。仁蘭様に頼んで紹介してもらった」
後宮の規則を作った人も、まさかそんな抜け穴があるなんて思っていなかっただろうな。
春貴妃様は「いらない」と言って仙術士を連れてこなかったらしいが、それがここにきて役立ったということだった。
「いい小遣い稼ぎだと思ったのに、面倒なことに巻き込まれちゃったなぁ……」
「私は流千がいてくれてよかったけれど」
一人より二人、しかも相手が弟でホッとしている。
「采華、半月でここまで嫌われるのは才能だね」
「いらないわよ、そんな才能」
喜凰妃様から珊瑚をもらってしまって、そのせいで女官たちの嫉妬心が燃え上がったのだと説明する。
古い棚の上に腰かけた流千は「なるほどね」と言って苦笑いだった。
「あっ、才能といえば、私ってちょっと神力があるんだって」
「は?」
禅楼様から初日に声をかけられたことを思い出し、流千に伝えた。
けれど弟は「そんなはずないのに」と真剣に考え込む。
「采華に神力はないよ。これっぽっちもない」
「そうなの?」
「うん、人並外れて体は丈夫だし精神的にも図太いけれど、それは神力のせいじゃなくて持って生まれたものだし」
「もうちょっとほかの言い方はないの? 失礼ね……! でも、それじゃあなぜ禅楼様はあんなことを言ったのかしら?」
ただの冗談だった? ううん、あのときはからかっている雰囲気なんて感じられなかった。
私としては、よく知らない禅楼様より流千の言葉の方が信じられるので「やはり私には神力はない」と結論づける。
「私が受けている嫌がらせって、禅楼様が女官たちの前であんなこと言ったせいもあると思うのよね。あのとき注目されなければこんなことになっていないような気がするの」
「そうだとしたら、迷惑な爺さんだね。女官たちの間に諍いを起こして楽しみたいとかそういう趣味があるのかな」
なんという迷惑なことをしてくれたんだと、小さなため息が漏れる。
「ねぇねぇ、ところでこれって密会になる?」
流千がふとそんなことを言い出した。
「姉弟で?」
「だってそのこと誰にも知られていないからさ。困ったな……誰かに見つかったら『後宮の秩序を乱した罪で死刑だ!』とか言われかねないよ」
「こんなことで!? 本当に人の命が軽い……!」
まだ何も成果がないのに、これで捕まって処刑されたらすべて水の泡である。
絶対に誰かに見つかるわけにはいかない。
「女官たちは、若い仙術士がいると知って利用しようとした……? 二人きりにすれば秩序を乱したとか何とか言って責められるから?」
「そんなところじゃない?」
流千が扉の真正面に立ち扉を押してみるけれど、向こう側にしっかり錠がかかっているらしくびくともしなかった。
「僕が非力なんじゃないからね?」
「誰もそんなこと思っていないわよ」
振り返ってわざわざそんなことを言ってくる。
私は呆れ笑いを浮かべつつ答えた。
「ん? これは……」
扉のすぐ横に置いてある、古い樽が目に留まる。
近づくと、小さな香炉がちょこんとあった。青銅で作られた円筒状の香炉は庶民でもすぐ手に入るような物だが、蔵に置く意味はない。
「なぜこんなところに?」
香炉の中の黒い粉末から微量の煙が出ていて、ふわりと甘い香りがした。
流千もそれを見ると思いきり眉を顰める。
「うわ、まずい。『天女の微笑』だ」
「何それ」
「表で売れない薬の一種だよ。巷では『女乱香』とか色々な名前で呼ばれているけれど、これはおそらく媚薬効果のある香だね」
「っ!!」
私は慌てて袖で鼻と口元を覆い、香炉から離れた。
「ここで人に言えないような行いをして、私が処罰されればいいと考えて……?」
「そうだろうね。僕らが姉弟だったってことは計算外だったんだろうけれど」
「雑な計画! このまま人に見つかって、姉弟で罰せられるのは嫌よ!?」
ひとまず、ここから脱出しなければ。
この蔵の古さなら、壁を壊して出られるかもしれない。
壁に投げつける物はないかと辺りを見回していると、流千が扉に向かって右手を翳して何かを呟いた途端、風の塊が現れてドンッと大きな音がした。
「きゃあっ!」
「よし、開いた!」
「開いたっていうか吹き飛んでるわよ!?」
扉が粉々になり、地面に木くずが散らばっている。問題の香炉は落下して砕け、中身が出てしまっていた。
火が! 蔵が燃える! 火事になる!
「誰かに見られたらまずいから先に行くね!」
「えええ!?」
「適当にごまかしておいて!」
「ちょっと!」
流千は私を残して走っていく。その姿はあっという間に見えなくなった。
「そうだ、火!」
私は慌てて香炉のそばに駆け寄り、漏れ出た中身を靴でばんばんと踏みつけて火を消した。
「あっつ!」
薄い靴から熱が伝わってくる。灰が靴底にくっついて、なかなか熱が消えてくれない。
眦にうっすらと涙が滲んできた。
「これは一体……?」
私が必死に火を消していると、異変に気づいた宦官の人がやってきた。
扉の壊れた蔵を見て不思議そうな顔をしている。
「おまえが壊したのか? どうやって?」




