茉莉繍球
与えられた部屋に戻ると、窓の外は空が薄紫色に染まっていた。
「掃除しなきゃ……」
宮女と違い、女官はそれぞれの部屋を一人で使うことができる。
この支度部屋と寝所は、美明さんが使っていたところだった。
小さな寝台と黒檀の四角い机、箪笥の上には丸い鏡が置いてあるだけの簡素な部屋で、私がここへ来たときには美明さんの荷物はすでに処分されていて何も残っていなかった。
窓の格子や部屋の隅には埃が溜まっていて、とりあえず目に付くところは箒で掃いたけれどまだまだ綺麗とは言えない状態だ。
「掃除なんてしていたらまた仁蘭様に叱られるんだろうな」
思わずそんな独り言が漏れる。
それでも何か手がかりが掴めるまではここで寝泊まりを続けるのだ。健康のためにはまずは掃除をしようと箒を手に取った。
一度手を付け始めると、あちらもこちらも気になってくる。窓や寝台の下の埃を取り終わった私は、いっそ箪笥の裏も濡らした布で拭いてしまうことに。
「うわ……けっこう重い」
箪笥を動かしてみれば、壁際に埃が溜まっていてしかも床板の一部が割れて溝ができてしまっている。
美明さんがいなくなってからおそらくこの部屋の窓が開けられておらず、湿気が溜まってこうなったんだろう。
「?」
ふと目に留まったのは、灰色の埃をたっぷり被った二つの丸い茶葉の塊だった。
「茉莉繍球……?」
手に取って埃を払うと、やはりそれは私の知っている茶葉だった。
茉莉繍球は香りづけした茶葉を球状にしたもので、茶器に入れて湯を注げば手軽にお茶が味わえる。普通は湯を用意できる厨房で壺に入れて保管してあって、寝所の端に転がっていることはない。
粥を鍋から直接食べる流千ならともかく、控えめでまじめな人という評判だった美明さんが落ちた茶葉をそのままにするとは思えなかった。
これは仁蘭様にお会いしたときにご報告しなくては。
私は二つの茉莉繍球を手巾で包み、そっと懐の中に入れるのだった。
翌日。ひたすら書物を運ぶ合間に女官長の目を盗んで自分の宮へと戻った私は、届いていた食糧の木箱の中に仁蘭様宛の文を入れた。
この食糧は、春貴妃様に仕えている紅家出身の宦官が密かに運んでくれている。
もし何か知らせたいことがあればここに文を入れておけと仁蘭様から言われていた。
──夜、ご報告があります。
誰かに見られてもいいように、それだけを書いて篭の中に残しておく。
いったん喜凰妃様の宮に戻って書物の整理をした後で、私は夜中にこっそりと部屋を抜け出して再び宮へと戻ってきた。
流千は塩漬けした瓜をぽりぽりとかじりながら私を出迎え、一緒に仁蘭様を待つことに。
「随分と眠そうね?」
「あぁ、ちょっと内職をがんばってたから」
「内職?」
また何か護符を作って、こっそり街へ売りに言ったのだろうか?
あまり無理ないようにと告げると、流千は明るく笑った。
「采華が働いているときに自分だけ遊んでるわけにはいかないからね。僕にできることはしようと思って」
「流千……!」
そんなことを考えていたなんて、姉としてとても嬉しかった。
胸がじんとなり、口元に手を当てて声にならない感動を噛み締める。
「成り金貴族ってちょろいよね。占いで『言って欲しそうだな~』っていうことを言ってあげたら銀板くれた」
「詐欺はダメよ!?」
感動が一瞬で吹き飛んで、私は慌てて「やめなさい」と止めた。
才能の使いどころを間違っている……!
それからしばらくして、私がお茶を淹れるために湯を沸かしていたところ仁蘭様がお一人で姿を現した。
入ってくるなり「報告とは?」といきなり尋ねてきたので、私はいったん彼を部屋に通して三人分のお茶を用意した。
席に揃ったところで、懐から茉莉繍球を取り出し卓の上に置いて見せる。
「これが寝所に……箪笥の裏に落ちていました」
「何これ? 茶葉? もう飲めそうにないね」
流千は眉根を寄せてそう言った。この茉莉繍球の古さや汚さが気になるらしい。
仁蘭様はこれに見覚えがあるかのように、かすかに目を瞠る。
指で茉莉繍球を掴むと何かを確かめるようにじっと見つめた。
「──これは新年の宴で皇帝陛下から下賜された物だ」
「皇帝陛下から?」
宮廷では、年が明けてすぐ宴が開かれる。
赤や黄色の吊るし灯篭があちこちに飾り付けられ、皆で食事を取るのだ。
「宮廷で開かれた新年の宴に、皇帝陛下と美明さんは出席なさっていたのですか?」
「いや、宴が終わった後で側近たちだけが密かに陛下の私室に集まったのだ。下賜されたのはそのときだ」
新年の宴では、家族や恋人のために自ら刺繍を施した鞠を贈る慣習がある。
皇帝陛下はその代わりにと側近たちに茉莉繍球の茶葉を与えたらしい。
「陛下からいただいた物なら、大事に取っておきますよね」
「あぁ、そのはずだ」
「ということは、年が明けたその日に寝所に戻ったところで美明さんは……? 自分でいなくなったのならこれを持っていくか仕舞ってから出かけるでしょうし、茉莉繍球をどこかに仕舞う暇もなく誰かに連れ去られたとか?」
想像するとぞくりとするほど恐ろしい。
夜中に寝所に戻ってきたところで誰かに襲われたら、気づく者もほとんどいないだろう。
多少の悲鳴を上げたくらいでは、新年を祝う喧騒にかき消されてしまうのは?
私はそのときまだ范家で暮らしていたけれど、新年はあちこちで夜通し宴が開かれている。それは宮廷や後宮でも同じだと聞いていた。
「あれ? でも後宮の管理局からの報告では、新年から三日後までは美明さんの姿を見た人がいるって話じゃありませんでした?」
流千が思い出したかのようにそう言った。
確かに私もそんな風に聞いた覚えがある。
「報告は間違いだったのでしょうか? でも、喜凰妃様や女官たちは朝の挨拶で必ず顔を合わせるはずです。そこに美明さんがいなければ『どうしたんだろう?』って誰かが不思議に思いそうなのに……全員がその日を正確に覚えていないなんて思えません」
「俺は、意図的に失踪した日をごまかそうとしたんだと思う」
「え?」
新年の宴の翌日にいなくなりました、では何かまずいことがあったのだろうか?
私が悩んでいると、流千が真剣な顔で呟いた。
「仙術か……」
その目は何かを確信しているように感じられた。
仁蘭様もまた「そうだ」と納得したそぶりを見せる。
この場でわかっていないのはどうやら私だけらしい。
何がわかったんですか? じっと仁蘭様を見つめれば、彼は視線を落として話し始めた。
「新年の宴の夜は仙術を使う絶好の機会だ。流千が召喚術を使った夜と同じく、神力が高まる」
そういえば、召喚術を使おうと流千が提案してきたときに聞いたような気がする。
『僕らが後宮へ来る前の新年の宴があった日が仙術士の力を高めるいい機会だったんだ』と。
「誰かが仙術を使って美明さんを攫ったということですか?」
自分で言っておきながら、それは少し腑に落ちなかった。
流千も「それはないよ」と言う。
「そりゃあ、皇帝陛下よりは美明さんの方が確実に召喚できるだろうけれど女官一人攫うのに召喚術を使うなんて割に合わない」
「そうよね」
相槌を打つ私を見て、仁蘭様はある仮定を口にした。
「あくまで推測だが、新年の宴の夜に誰かが大掛かりな仙術を使い、美明はそれを見てしまったのではないだろうか? 或いは、その証拠を掴んだ」
今の段階では、それが一体何の術かはわからない。でも、仁蘭様の予想通りなら美明さんが茉莉繍球を残して消えてしまったことに説明がつく。
「誰かが仙術を……って、それは喜凰妃様の仙術士しかいませんよね」
流千はごくりと茶を飲んでそう言った。
美明さんは喜凰妃様と孫大臣のことを調べていたんだ。真夜中にほかの宮へわざわざ行くとは考えにくいし、何より攫われたであろう寝所があるのは喜凰妃様の宮。
あそこで仙術を使えるのは禅楼様だけだ。
「あの方が?」
私の頭の中に、一見すると温厚そうな禅楼様の顔が思い浮かぶ。
「喜凰妃様は……すべてご存じなのでしょうか? 美明さんの失踪に禅楼様が関わっていると知った上で、新年から三日後までは美明さんがいたと嘘をついた……?」
あの優しい笑顔は嘘なのか。
心臓がどくんと跳ねる。
「喜凰妃は禅楼と長い付き合いだ。たった二年しか仕えていない女官より、禅楼を守るのは当然のこと」
「だとしても美明さんを攫うなんて」
「言っただろう? 使用人の代わりなどいくらでもいる」
「っ!」
理解していたはずなのに、残酷な現実を突き付けられた気分だった。
いつのまにか俯いて黙っていると、流千が突然ぎゅっと私をその腕で抱え込む。
「ちょっと、うちの采華を虐めないでくれません? 可哀想じゃないですか、こんなに悲しんで。いくらそれが現実だとしても何となく濁すとか言い方っていうものがあるでしょう!」
流千は、いかにも私が可哀想だという風に大げさに頭を撫でた。
それを見た仁蘭様は呆れた風に目を細める。
「おい、いくら陛下の訪れがないとはいえ采華は妃だ。品位を保つためにも気安く触れるな」
「今は女官ですよ」
「だが妃だ。まったくおまえは禁術を使っただけでなく、常習的に後宮から抜け出して商売をしていた上にこの態度……あぁ、宮の裏には畑も勝手に作っていたな?」
並べ立てられると申し訳なさで気まずくなる。
しかし流千は私から腕を離し、ぱっと目を輝かせて嬉しそうに話し出した。
「ご覧になりました? 仙術で水と風を操って瓜を十日で栽培してみたんです! あっ、塩漬けにしたんで食べていきませんか?」
「いらん!」
仁蘭様は苛立った様子で即座に断る。
一体何の話をしていたんだっけ……?
私は二人を交互に見ながら考えていた。
そうだ、仙術士の禅楼様と喜凰妃様のこと! 今は瓜の話をしている場合ではない。
前のめりになる流千の袖を引っ張って止めながら、私は仁蘭様に言った。
「あの、私は引き続き喜凰妃様の宮で情報を集めます。だからもう少しお待ちください……!」
女官たちは相変わらず冷たくて情報を聞き出せるかは怪しいが、喜凰妃様の宮を探せば何か見つかるかもしれない。私が部屋で茉莉繍球を見つけたように。
「そうだ、この茉莉繍球は仁蘭様が預かってくださいませんか?」
もう茶葉としては飲める状態ではないけれど、もしも美明さんが見つかったら返してあげたいと思った。
仁蘭様は「わかった」と言い、私の手から茉莉繍球を受け取る。
それを見つめる彼の表情が少し曇ったように感じ、やはりお二人は恋人だったのではと……と傷ましい気持ちになるのだった。




