皇帝陛下を召喚しよう!
紺碧の夜空に浮かぶ、細く丸い月の環。
今宵は、数十年に一度の不思議な月が見られる特別な夜だ。
いつもより夜闇が濃い分、どこか怪しげな雰囲気が漂っている。
「どうしてこんなことに……!」
殺風景な石畳の中庭に、吹き荒れる風。
天遼国後宮には述べ二千人もの使用人が働いているが、今は真夜中で後宮の片隅にひっそりと佇む下級妃の宮の様子を気にする者は幸いにも誰もいない。
范采華、十七歳。
皇帝陛下の妃として後宮入りしたのが三カ月前のこと。
予定ではもうとっくに皇帝陛下にお会いして、目的を果たしているはずだった。
それがどこでどう間違えたのか、深夜の中庭で皇帝陛下らしきずぶ濡れの死体と対面している。
「私たち、皇帝陛下を死なせちゃったの……!?」
石畳の上でへたり込む私。長い黒髪は地面に流れ、初めて袖を通した煌びやかな薄紫色の襦裙には砂埃が付いていた。
「嘘でしょう……!?」
震える指先で袖をぎゅっと握り、唖然とする。
祭器として持ち込んだ銀の器に、ばらばらに砕け散った翡翠の欠片。儀式のために作った祭壇の前には、ぴくりとも動かない仰向けに倒れる死体があった。
その人は花模様の刺繍が入った黒い装束を纏っていて、その体つきや雰囲気からおそらく男性だ。
年は二十代前半。赤い髪は耳にかかるくらいの長さで、毛先からぽたぽたと雫が滴っている。
顔色は青白く、瞼は硬く閉ざされていて形のいい上がり眉は凛々しい。
ここにいらっしゃるのは、世にも美しい美男子の死体だった。
「嘘だろ? 召喚術は成功したはずなのに……」
すぐ隣から、同じく座り込んでいた流千の声が聞こえてくる。
流千は私の一つ下の弟だ。後宮では、占いや祈祷を担う『仙術士』として一緒に暮らしている。
柔らかな薄茶色の髪をぐしゃりと乱暴に握るその仕草から、ついさっき召喚術を使った彼自身もまた激しく混乱しているのが伝わってきた。
黒い長衣に藍色の羽織というせっかくの礼装も、私と同じく乱れてしまっている。
「この方が皇帝陛下? 死んでる……!?」
人を殺すつもりなんてなかった。
そもそも『召喚術』で対象の命を奪ってしまう可能性を想像すらしていなかった。
私たちはただ、皇帝陛下に会いたかっただけ。
『皇帝陛下に会えないなら、いっそ召喚術でここへ喚んでみない?』
一昨日の夜、流千がそんなことを言い出した。
普通の人にはない神力を生まれつき宿している仙術士の流千なら、条件が揃えば皇帝陛下をここへ召喚することができるという。
後宮に集められた妃は、最上位の四妃様たちをはじめ百人以上。皇帝陛下は誰のもとにも訪れたことはなく、どれほど待ってもそのお姿も声も何一つ知ることは叶わない。
私は迷いつつも、その提案に乗った。
『皇帝陛下に会えたら、我が范家の窮状を直訴できる』
范家は今、騙されて背負った借金で窮地に陥っている。
のんびり待っていては家が潰れてしまう……!
そんな焦りから私たちは召喚術を使ってしまった。
──その結果がこちら(死体)である。
「お死体様、何で濡れてるんだろう? 溺死? 召喚術は生きている人間しか喚べないはずなのに」
流千が不思議そうにそう言った。さっきまで混乱していたはずが、流千は冷静さを少し取り戻したらしく現状を分析し始めている。
お死体様という呼び方はどうなんだ……と疑問に思うも、今の私にはそれを口に出す元気はない。
ところがその瞬間、力なく横たわっていた青年の体がわずかに動く。
「かはっ……!」
「っ!?」
「生きてる!」
青年は、肩を揺らして大きく咳き込む。
口から少量の水が吐き出され、苦しげに眉根を寄せて何度も咳き込んだ。
「大変!」
私は慌てて彼のそばに寄り、出てきた水が喉に詰まらないように体勢を変える。
青年の肩や背中を支えて横向きにすると、さらに水が吐き出された。
「がはっ……!」
もう一度水を吐かせた後で、流千が彼の呼吸を確認して言った。
「気を失っているだけみたい」
「よかった……!」
とにかく生きていたという事実に、私はホッと胸を撫で下ろす。
石畳みの上にもう一度寝かせ直すも、彼が目を覚ます気配はなかった。
濡れた髪は頬に張り付いていて、ところどころに藻や枯れ葉のくずが付着している。着ている物は上等なのに、どうしてこんなにびしゃびしゃで汚れているのか不思議だった。
「ねぇ、この人って……?」
じっとその顔を見ていると、ある疑問が生まれた。
「本当に皇帝陛下なの?」
確か、皇帝陛下は二十三歳。この人の見た目は、その情報と一致している。
けれど何かがおかしい。
流千も同じことを思ったようで、じっと見つめて言った。
「このお死体様ってさ」
「生きてるからね? 死体じゃないから」
「宮廷の役人と同じ服じゃない?」
私は驚きで目を瞠る。
そうだ、この服には見覚えがある。
花模様の刺繍が入った黒い装束は、後宮入りしたときに門のところを歩いていた役人が着ていたものと同じだった。
しかも、この青年の腰には刀もある。皇帝陛下なら護衛がいるから刀はいらない。
「まさか」
自分の顔から一気に血の気が引くのを感じた。
「この人、皇帝陛下じゃない!?」
「ごめん、人違いだ!」
「ええええ!!」
「どうしよう、采華! 関係ない人を召喚しちゃった!」
私たちは顔を見合わせて狼狽える。
死体じゃなかったのはよかったけれど、これはこれで予想外だった。
「こんなはずじゃなかった……皇帝陛下を喚ぶつもりが……とにかくこの男を隠さなきゃ」
「隠すってそんな」
「ど、どこかに埋めるとか」
「何を言っているの!?」
弟がとんでもないことを言い出した。これは相当に動揺している。
「そんなことできるわけないでしょう!? この人は生きているのよ!」
いくら誰にも見られていないからって、知らない人を勝手に召喚した上にさらに罪を重ねるわけにはいかない。
この青年は酷く弱っているように見えるけれど、今すぐ介抱すれば十分に助かる状態だ。むしろ何もせず放置すれば本当にお死体様になってしまう。
頬や首筋に触れるとひやりとしている。
「早く温めなきゃ!」
「いや、でも目を覚ましたら面倒な事に」
「薬屋が人を殺すなんて絶対にだめ! 流千、この人を寝所へ運んで! 私はお湯と布を用意するから!」
「わ、わかった」
私は勢いよく立ち上がると、急いで厨房へ向かう。
「勝手に召喚しておいて、皇帝陛下じゃなかったから『さようなら』なんてできるわけないじゃない……!」
私は妃である前に薬屋の娘なのだ。弱っている人をそのままにはできない。
でも、どうして皇帝陛下ではなく彼だったのだろう? そんな疑問が一瞬だけ頭をよぎるも、今は彼の介抱に全力を尽くそうと心に決めるのだった。