第30話 外道法師
数十分の激しい攻防の末、本棟の内部は水を打ったような静寂が支配していた。夥しい数の猿が廊下に山積みになっている。俺は腕から流れる血を、ぼろぼろになった衣服の切れ端できつくしばり、壁にもたれて深く息を吸った。階下を見下ろす。後に付いてくる敵はいない。
俺は奥の部屋の扉を開き、息を整えて宣言した。「お前で最後だ」
外道法師は椅子に深く腰掛け、鷹揚な態度でこちらを見返した。
「思ったよりやるじゃないか」
「大した余裕だな。あんたも出来る口か?」
俺は拳を構えて尋ねた。法師は詰まらなそうに笑って首を横に振った。
「生憎と私も歳でね。撲り合いに付き合うつもりはないよ」
「なら降参か?」
「まあお待ち。取引をさせてあげよう」
「取引?」
俺は眉を顰めた。
「そうだ。彼女の情報を渡す代わりに、中央の土地の半分を譲り渡してもらう」
「言うに及ばないな」俺は周囲に倒れている猿たちを示した。「交渉が出来る立場だと思うか? 力づくで吐かせてもいいんだぜ」
「あんたはそんなことはしない」
彼女はくつくつと笑う。「救世主様が尋問なんて、印象悪いからな。それにあんた腕っぷしは強いが、脅しには向いてない。暴力で自分の身を削るタイプの人間だ」
「どうかな」
俺は強いて口角を上げてみせる。
「俺はもとより話し合いのつもりでここに来た。殺し合いを買って出たのはあんたの方だ。……そしてこちらが勝った」
「分かってないねェ」
彼女は鼻を鳴らす。
「お前の目的はなんだ? ドクターを取り戻すことだろう。あたしの部下を何人伸そうがあんたの敗けなんだよ。あたしが口を割らない限りね」
「……」
俺は彼女の挑むような眼を見据える。やおら拳を放つ。拳固は彼女の頬を掠め、椅子の背もたれに穴を開けた。法師は眉ひとつ動かさず、にこりと微笑んだ。「ほら、向いてない」
「……リリの居場所を教えろ。手荒な真似はしたくない」
「よく言うよ。これだけ暴れておいてさ」
彼女は肩をすくめる。「彼女にも見習ってほしいかったね。あまり抵抗が非力だと、興ざめしてしまう」
俺は歯をむき出しにして威嚇する。彼女は退屈そうに脚を組む。「さあ、乗るか反るかさっさと決めろ。それだけ彼女の苦痛も短くなる」
俺は唸り声を上げて彼女の顔面を殴りつけた。
「腰が入ってないねぇ!」
彼女は鼻から血を流しながらせせら笑った。廊下にのびている自身の部下たちを顎で示す。
「そいつらのことは躊躇せず撲ってたろ。脅しは初めてで気が退けるか? 向かってこない相手には本気を出せないか?」
「吐け! 彼女はどこだ!」
「指の二、三本なら返してもいいけどねぇ。どうせ治るんだから関係ないだろう?」
俺は雄叫びと共に法師の顔を打ち抜いた。椅子が跳ね上がり、薄ら笑いを浮かべた法師が壁にぶつかって気絶した。頭から血が流れている。
俺は肩で息をする。この建物をくまなく捜して……。いや、この棟に居るとは限らない。こいつを連れ帰って口を割らせる? ……ともかくも止血だ、法師が死ねばリリの居場所は分からない。
まず止血をしなければ……。
脇から水の塊が飛んできて、法師の顔に浴びせられる。法師が呻いて目をしばたたかせる。
「慣れないことをするからだ」
空の桶が床にはずんで軽い音を立てる。入口から黒い人影が現れる。ドストスペクトラだ。
「どうしてここに?」俺は驚いて尋ねる。
「あなたが邪宗門の根城に向かったと聞いて、追いかけてきた。長旅から帰ったと思えばこれだ」
スペクトラは法師の脚を片手で掴んだ。
「あなたには荷が重い。こういう手合いと渡り合うにはそれなりの年季がいる」
彼はそのまま立ち上がり、法師を宙づりに持ち上げた。血が滴り落ちる。法師は二三度目物憂げに瞬きして、まつ毛に止まった雫を払い落とした。
「ドクターの居場所を教えろ。お前が干からびる前にな」
「おぉー……、話の分かる男が来たか」
法師は低く呟いた。それから俺に挑発的な目線をくれる。部屋の空気がずしりと重たい。
「思ったよりは感情的だったねえ。私情を挟んだかい? ドクターを選んだのは正解だったわけだ」
俺は牙を立てる。目の前に毛深い腕が伸びる。スペクトラが俺を制止する。
「つまらん見栄を張るな、法師。もうだいぶ血が抜けてるのが分かるだろ?」
法師の頭の下には、水で嵩の増した赤い海ができていた。
「殺せば女の居場所も分からないよ」
「だろうな。お前が部下に重要な秘密を教えるとは思えない。だからお前の意識が飛んだところで中断してやる。死にはしないが、生きたまま苦しみ続けることになる」
「あたしに拷問は通じないよ。苦痛如きで口を割る私でないことは、知っているだろう。」
法師は皮肉っぽく笑う。「だが、お前の部下はそう思っているかな」スペクトラは表情を崩さなかった。
「お前が生死の淵を彷徨う重傷を負えば、信者はお前をドクターのもとに連れていこうとするだろう。居所は知らなくとも、北面で監禁のできそうな場所……、邪宗門と繋がりのある外部の機関……、あんたの行動……、候補は限られてくるはずだ。彼らを1人ずつ尋問してまわるより、よっぽど手が早い。俺たちは彼らの跡を付け、そのままドクターを解放する。それで一件落着だ。お前は俺たちの手間をほんの少し増やすだけ。五体の自由と引き換えにな。まったく賢い選択だ」
法師はスペクトラを睨みつける。スペクトラは意にも介さず、退屈な様子で足元の血だまりを眺めた。
法師が溜息をつく。
「分かった、降参だ。降ろしてくれ」
「ドクターの居場所は?」
スペクトラが繰り返す。法師は舌打ちする。「色硝子の樹海……、古代都市の建物だ」
「あそこは警備隊の管轄区だろう。証拠はあるのか?」
法師は床の一隅を顎でしゃくった。「床板を外してみろ。手紙が隠してある」
「確かだ」
俺は床板の下を調べてスペクトラに肯きかけた。中からは数字の羅列された幾通かの手紙が出てきた。「暗号か?」
「外典の章番号と、章頭から数えた順の単語に対応している。ドクターの幽閉先に関するやりとりは一番上の手紙だ」
スペクトラは法師の脚を離した。頭から地面に倒れた法師は、舌打ちして身を起こした。
「止血しろ」スペクトラは上着を脱ぐと、彼女にぞんざいに投げ渡した。「協力者がいるようだな。手紙の相手は誰だ?」
「ヒト攫い……、古代都市と言えば察しは付くだろ……。緑衣の鬼だ」
緑衣の鬼。俺はその単語に拳を固めた。「奴のことを知っているのか?」
「直接会ったことは無い。だが書面を通して密かに通じていてね。数回のやりとりで本物だと分かった……。鬼しか知り得ない被害者の詳細な情報が書かれていたんだ」
「ドクターを誘拐したのも鬼の指示か?」
「そうだ。というか、手を下したのは緑衣の鬼本人さ。私達に任された仕事は彼女をおびき出し……、護衛を引きはがすことだけ。むしろ私たちの方こそが協力者だったというわけだ」
「だが、お前は彼女の身柄を交渉材料にしていた。いつでも危害を加えられるという口ぶりでもあったぞ」
「虚勢だよ、お若いの。北面でドクターが失踪したという事実さえあれば、福音派を焚きつけるには十分。実際鬼の見立て通り、あんたは食いついたしね。中央を落とすには、こちらのテリトリーで戦う外なかった。大群を迎え撃つには適した土地だからね。まさか2人で攻めに来るとは、予想外だったが……」
「まったく無茶をする」
ドストスペクトラが腕を組み小さく嘆息する。
「それで、あんたたちは魔境統一を成し遂げたわけだけど……、これからどうするつもりだ?」
「会談だ」ドストスペクトラは言う。「五地域の長を集める」




