第1話 女神
醒めながら見る夢だ。俺は思った。
現実と幻、時間が交錯して断片的な情報がパッチワークを織りなす。揺れる緑の宝石、鈴のような女の声、冷たい水の感触、濡れた唇、肺に送られる空気の音、月の輪郭……。
「真白雪くん」
女の声を聞き、姿を見た気がした。それは俺の目と耳が捉えたものか、はたまた記憶の変容か。誰でもあって誰でもないような、超越的な響きとかたちを持った、捉えどころの無い気配だった。……「女神」という言葉が、どうしてか俺の頭に浮かんだ。
「女神」は再び俺の名を呼び、告げた。
「君は英雄になるんだ、真白雪くん」
俺は厚ぼったい目をぼそぼそとしばたいた。体の芯から痛みが滲み出ている感じだ。……でもそれは生きている証拠でもあった。俺は胸を撫でおろす。どうにか一命は、とりとめたようだ。
掌に、柔らかいシーツの感触があった。俺は清潔な白いベッドの上に、横たえられていた。近くでぱちぱちと、火の爆ぜる音がする。頭を動かしてそちらの方を確認する。暖炉で穏やかに火が揺れている。
ここはどこだろう。俺は考えた。状況からして、誰かが介助してくれたのは間違いない。
小さな灯を落としているランプが置かれた、木枠の窓に目をやると、外はまだ深い夜が帳を閉ざしていた。先刻から幾ばくか経過していたとして、数時間といったところか。
「……あら、これは」
木の軋む音がした。
「ずいぶんとお早いお目覚めですねえ」
頭上に突然人の顔が現れ、不思議な色の瞳で覗き込む。心臓が弾んだ。
「ああ、すみません。驚かせましたね?」
声の主が視界から退く。俺は身を起こす。木戸の傍に、白衣を着た女性が佇んでいた。
戸口から、鼻腔の奥ににツンとくる独特の香りが漂ってくる。どこか懐かしい、覚えのある……、保健室のような匂い。多分……消毒液だ。
「……病院、か……? ここは」
「ええ」
彼女はごく簡単に肯った。山鳥の囀るような、綺麗な声音だった。薄い黒のワイシャツにシックなループタイ、紫がかったダークネイビーのスラックスというシンプルな出で立ちで、白衣に包まれた華奢な身体の上を、同じく氷のように真っ白な銀髪が肩の上に垂れていた。
額に掛かった白銀の髪の下で、玉虫色の瞳が、ランプの陰影を受けて、青や緑や紫にその輝きを変えている。不思議な眼をしている。繊細な顔立ちにはまだどこか去りきらぬ幼さの影が覗いていたが、佇まいには大人の落ち着いた品の良さがあった。22、3、多分俺とそう変わらない年齢だ。もしかしたら一つくらい上かもしれないが、ともかく同年代なことは確かだった。
「助けてくれてお礼を言うよ。ドクター……、あー」
尻切れトンボになった俺の言葉の後を、彼女が引き継ぐ。
「リリパットです。アリエスタ族のリリパット。リリで良いですよ」
「改めて感謝するよ、リリ」
俺は礼を述べて頭を下げる。リリパット……、ファンタジックな響きだ。外国人だろうか? 『ガリバー旅行記』を思い出す。それにしてもアリエスタ族というのは……、民族の名前か何かだろうか。星座の牡羊座を連想させるが、実際銀髪を纏った彼女のふわふわとした雰囲気は羊のようだった。
「……ここはどこだ? 木々が水晶かなにかみたいに透き通ってたぞ。そんな森は噂にも聞いたことがない……」
「ここ、というのはいささか語弊がありますね。『色硝子の樹海』はだいぶ先ですよ」
彼女は俺の発言を訂正した。
「ここは樹海の麓にある城下町です。そのはずれの小さな診療所」
リリは静かに言って、興味深そうに俺を観察した。好奇の色が浮かんでいた。俺は流れ者のように映っているのかもしれなかった。
「窓の外を見るに、川の側ではないようだけど……、ここまで運んできてくれたの?」
「ええ、そうなりますね」
「よく連れてこられたな」
かなりの距離があったはずだ。大の大人一人抱えて、麓まで運び出すのは、それなりに骨が折れるだろう。とても彼女一人で運びおおせるとは思えないが……。俺はまじまじと彼女の線の細い身体を見つめ返した。彼女は俺の視線に気が付いたように説明した。
「台車に載せて運び込んだんです。この診療所は町の中心部から少し離れていますから、足の悪い人や起き上がれない人を連れてくるために用意してあるんですよ。それにあなたを見つけたのも下流でしたし、大した距離じゃありませんでした。気分はどうです?」
「ああ、まだ少し気分がぼんやり……。頭を打ったのかな。崖から滝つぼに飛び込んだんだ。高い所から落ちると、水ってあんなに硬く感じるんだな」
「ふむ、成る程?」
俺の頭にやおら手のかかる気配がした。「な……」俺は驚いて肩を震わせた。彼女はかまわず優しく頭を撫でさすった。
「なん、の真似だよ、急に?」
俺は動揺を隠して、少しぶっきらぼうに尋ねる。
「ふふ、怖がらないでください。ただの触診ですよ。これで大体、悪い所が分かります。打ち身の様子からして、気絶の原因は着水の衝撃でしょうが……、念のためです」
「……そうだな、たしかに溺れるより先に、衝撃で気絶ちた気がする」
少し気を落ち着けて、俺は答えた。
「でしょう、そのはずです。それにしてもまた妙なところを流れていたものですねー。滝まで遡るとなるとけっこうな上流のはずですが……、どうしてまたあんな禁則の奥地に?」
リリが手を離す。俺は額に手を当てて考え込む。「……それが、よく覚えていないんだ。記憶が断片的でね。気が付いたらあの森にいて……、怪しいローブの化け物に襲われていたんだ。そいつから逃げるうちに、崖から落ちてしまった」
「『ローブの化け物』。ふむ。獣の類でしょうか?」
「いや、人間だ。多分ね。顔は分からなかった。フードを目深にかぶってたんだ。身体は……、子供みたいに小柄だった。君よりも2回りは小さいかな。だが恐ろしい怪力で、……信じてもらえないだろうが、木や岩を素手で粉々にするんだ。アイスピックで氷を砕くみたいにね」
「そうですか。それはなかなかの腕力ですねー」
リリは拍子抜けするほどあっさりと肯定した。あまりにもあたりまえのように答えるので、俺の頭の中には馬鹿げた三文字が躍った。口に出すのも躊躇われるような子供じみた妄想だが、彼女の珍しい瞳の色を見ているうちに、ついぽろりと言葉が零れ落ちた。「……『異世界』」
「?」
彼女は耳慣れない俺の言葉に首を傾げる。顔が熱くなった。俺は口を滑らせたことを後悔しながら、年甲斐もなく想像したファンタジックな空想を続けた。
「その、おかしなことを言うようだが……、俺は今知らない世界に迷い込んできたんじゃないかと思ったんだ。植生も違ったし、君の瞳は不思議な色をしている。よく見るとこの木材の継ぎ方や布の組み方なんかも知らないものだ。何よりあんな化け物がいて、君はそれを当然のように思っている」
「……ふむ」
リリは曖昧な表情で答えた。どうも半信半疑みたいだ。まあ、当然の反応だろう。
リリは医者の目つきに戻って問うた。「あなた、名前は分かりますか?」
「名前?」誰の? 俺は少し混乱して聞き返した。
「あなたのお名前です。年齢と住まいと家族構成も。思い出せますか?」
ひどく初歩的な質問に、俺は急に老け込んだ気がした。
「真白雪。歳は22歳。2222の……」俺は言葉を切る。「ひょっとして、正気じゃないと思ってる?」
「いえ、頭を打ったという話でしたので」リリは事務的に答える。「続けて?」
「……。住まいは、東京の下町だ。生まれも育ちもね。……家族はいない」
「トウキョウ……」リリは初めて食材を口にしたように繰り返した。「たしかに耳慣れない地名ですね。森に来る直前の記憶は?」
「あー、たしか……、そうだな、あれは……どこかのラボ、だったと思う。山間にある研究施設の、舗装されていない道……、——なぜあんな所に居たのだろう?—— そこでやってきたトラックに轢かれて……」
俺は頭を押さえて呻いた。そこから先は靄がかかったように思い出せなかった。
「ふーむ。いくつか聞きなれない単語は出てきましたが……、話しぶりは理路整然としていますね。まだ幾ばくか混乱してはいるようですが」
リリは好奇心に満ちた眼差しをこちらに注いだ。
「脳の混乱は直収まると思います。ましら君、と言いましたね。私は信じますよ。あなたの言うことは恐らく本当でしょう。思い当たる節もありますから」
「! 本当か……? 別の世界からやって来たなんて……、自分でも荒唐無稽な話に聞こえるぜ」
診療所という環境が疑心暗鬼にさせる。信用するという話も、患者を安心させるためのリップサービスではないか。俺は弱気に尋ね返した。
「たしかに突拍子もない話ですが……、あなたが初めに現れたというあの森……『色硝子の樹海』には、古くからの言い伝えがあるのです。人を攫う『悪い魔法使い』が棲んでいるとか、失われた民族が使用していた、異界との『窓』が開く場所とか、人知れぬ古代兵器が眠っているとか……。半分お伽話みたいなものですが、あそこはこの国の皇族が定める禁則地の一つ。世人の踏み込めぬ領域ですからね。何か『ある』と考えるのは、自然の成り行きというものです」
「えーと、つまりこういうことか?」俺は宙に視線を向ける。「俺が森で出会ったローブの奴は、この国の皇族の私有地に潜伏する『悪い魔法使い』。そいつは謎の民族の生き残りで、古代兵器を使って次元を歪ませて異界のゲートを開き、俺を向こうの世界から『召喚』した、と……」
「まあ、全部の噂が本当なら、そうなりますね」
「俺は選ばれた『特別』な存在?」
「そこまでは言っていませんよ」
リリが首を傾けて微笑んだ。だろうな。現状俺がしたことと言えば、ローブの魔の手から命からがら逃げのびただけだ。とても英雄的とはいえない。俺はローブの輩の異様な怪力を思い浮かべた。さすがに全ての伝承が事実とは思えなかったが、奴の異様な力に関しては、この非現実な世界の中でもさらに現実離れしたものに思えた。
「他の話はともかく、奴がその『悪い魔法使い』ってやつで、何かを知っているという可能性はあるな。あるいは元の世界に還る方法も……」
……元の世界、か。俺は言葉の後半を自分に言い聞かせるように独り言ちって、窓の外に目をやった。
不意に、蝋燭の明りが強く揺らめく。俺は目を見張って言葉を途切らせた。
窓の外から、あの不気味な白い猿がこちらを見つめていた。




