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人獣見聞録 猿の転生・Ⅰ 猿猴が月に愛を成す  作者: 蓑谷 春泥
第3章 キャッチミー・イフ・ユーキャン
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第27話 偽鬼(デモ・ゴブリン)

「肝臓損壊、肋骨粉砕、前歯は全て折れ頭蓋骨に亀裂、右鼓膜破裂、他全身打撲、裂傷四十数か所……」

「……そんなに手酷くやってないぞ」


 光苔のぼんやりした煌きに茫と目を慣らしながら、俺は応じた。


「敵方じゃない、あなたの損傷状況だ」


 ドストスペクトラがカルテらしき紙の束を叩いて答える。


「……と言っても半日前のな。傷の具合はどうだ?」


 俺は半身を起こし、両手であちこちに触れてみる。傷は全て塞がって、生々しい跡が薄っすらとその名残をとどめているばかりだった。「嘘みたいに消えてる」

「そうだろうな。なにせドクターの施術だ。まさに魔法……、よもやあの傷を完治させるとは」

「リリは何処に?」


 スペクトラは病室の隅を指さす。毛布にくるまり丸まったリリが、膝を抱えて座ったまま眠っていた。


「激務だったからな。人数こそ多くないが、重傷者が多くてな。最たるはあなただが。まあ何にせよ、ドクターが引き返してきてくれて助かった」

「そうか、リリは本来なら帰宅するはずだったんだよな。戻って来たのか……」

「当人曰く、虫が知らせた、と」


 胡坐をかいたままスペクトラが答える。


「魔法の恩寵を持つ者同士、繋がるものがあるのか……。護衛と分かれた直後、あなたの身に危険が及んでいることを、感じ取ったらしい。胸騒ぎがすると……、そう言って砦を訪ねてきた。あなたたちが運ばれてきたのも、そのすぐ後だ」


 魔法を与えられた者どうしの精神的結びつき……、思い当たる節は無かったが、俺はリリや緑衣の鬼……、全土に僅かしない魔法使いがこうして集いつつあることを考えると、何か引き寄せ合うものがあるようにも思えた。


 俺はふと気が付いて尋ねる。


「と、いうことは、俺たちを運んできたのはリリじゃないのか?」


 あの場にいた者は皆気を失っていたはずだった。一体誰が、敵軍に見つかる前に俺たちを回収したのだろう。


「ああ、連れてきたのは彼だ。……紹介しよう、(デモ)にして(デミ)偽鬼(デモ・ゴブリン)ことモルグシュテット君だ」


 ドストスペクトラが入口の方を指し示す。俺は木戸の陰から、物怖じした様子の野風の青年が、こちらを窺っていたことに気付いた。ドストスペクトラが手招きする。モルグシュテットと呼ばれた青年が、おずおずと招じ入れられる。栗毛に薄く覆われた、青白い相貌。どこかで見た顔だ。そして何よりもその紹介の文言に引きつけられた。

「待てよ、偽鬼(デモ・ゴブリン)だって? それにモルグってたしか……」


 慌てる俺を、ドストスペクトラが制す。


「そう急かすな。質問は山積みだろうが、彼も昨晩の事件にひどく憔悴している。ゆっくり、一つずつ訊いてやれ」


 青年は所在無げに視線を落とし、頭を掻いた。「あ、ああ……」俺は頭の中で疑問をまとめる。


「まず……、君は西南連合の鎧の男でいいんだよな? 緑衣の鬼を名乗っていた……」

「はい……」


 青年は己の膝頭を握って答える。


「聞きたいことは色々あるが……、なぜ俺たちを助けた? 放っておけば、連合の増援たちが見つけていたはずだ。そうなればあの戦いの結果は、連合の勝利に書き換わっていたかもしれない。……君は西南連合の、幹部のはずだろう?」

「いえ……、俺はただ、祭り上げられていたにすぎません。ましらさんも実際闘ったから分かるでしょうが……、殴り合いなんててんで初めてでした」


 俺は彼と拳を交えた時の手応えの無さを思い出す。たしかに彼の動きは、ずぶの素人だった。


「結局、実際に指揮権を握っていたのは、グラムシさんとニミリさんの2人でした。俺は見た目と能力を買われて、偽の鬼として担ぎ出されただけ……。猿の身でヒト族の能力を扱えるというのが、予言の稀人を騙るのに相応しいと判断したみたいです。たしかに、西面の人たちはすぐに信じてくれました。加えて、植物の生長を操る器官は、緑衣の鬼の姿を演出するのにぴったりだった。鎧衣装のデザインと機能は、ニミリさんが発案してくれました」

「武器の知識だけは一人前だからな」


 ドストスペクトラが肯く。


「じゃあ、連合の連中には仕方なく付いていただけ、ってことか?」

「ええ……。たしかに、路頭に迷っていた俺を拾ってくれたニミリさんたちには、感謝しています。でも、これ以上救世主の大役を演じるのは荷が重かった。俺にはそんな資格なんて無い。本物の鬼が現れた時、俺はただ気絶したふりを続けるしかなかった……」モルグシュテットが拳を震わせる。「妻の……っ、仇を目の前にして……!」

「仇?」


 スペクトラが眉を顰める。俺は既に心当たりがあった。


「ええ。窓から部屋に押し入った緑衣の鬼は……俺に魔法をかけ……、意識が戻った頃には、妻は死んでいました。あいつ以外にあり得ない」


 俺は気になっていたことを指摘する。「ということはやはり君は、あのモルグ亭の……?」

「え、ええ」


 モルグシュテットが目をしばたたかせる。モルグ亭……、リリの診療所に運ばれてきた検死死体が、その旅亭の細君だった。


「やはりそうか……。名前を聞いた時から、もしやと思っていたんだ」

「ちょっと待て、モルグ亭だと?」 ドストスペクトラが話を止める。


「その事件は私も知っている。モルグ亭は野風にもまともな饗応をする、数少ない宿屋だったからな。事件の噂を耳にした時も、わざわざボアソナードと真偽を確かめにいったくらいだ。だが……」スペクトラが言葉を切る。「モルグ亭の主人は、ヒト族だったはずだ」

「魔法……か」俺は視線を落とし、腕を組む。「ええ」モルグが肯く。


「ヒト族を野風に変える力……、それが緑衣の鬼の魔法です」

「馬鹿な……」


 ドストスペクトラが目を見張る。


「本当です。俺は実際にその手にかかり、この肉体に成り代わった」

「俺もやつの魔法をこの目で見た。ボアソナードは俺たちの目の前で、野風に変えられたんだ」

「……! まさかあの灰色の野風は……」

「ああ。ボアソナードの成れの果てだ」


 スペクトラは数瞬の絶句の後、嘆息した。「複雑な心境だな」


 頭を抱える。


「ヒト族が野風に変えられること……、それは人間からしてみたらおぞましいことだろうが……、我々にしてみれば何も恥ずべきことではない。むしろ緑衣の鬼の行動は我々のためになるとすら感じる。しかし、肉体が生物種ごと変わるなど、生活を一変させる問題だ。ボアソナードにその重荷を背負わせることは……、心苦しい」

「鬼は、ただ愉しんでいるだけだよ」


 俺は渋い表情で言う。


「昨晩も……、樹海で遭遇した夜もそうだった。緑衣の鬼……、樹海の『悪い魔法使い』……、奴はただ圧倒的な力を振りかざし、他者を蹂躙する快楽に溺れているだけなんだ。そうとしか思えない」

「同意だね」


 木戸口から声が聞こえる。振り返ると、縄で両腕を拘束された男が、壁にもたれかかって立っていた。


 俺はばっと身を起こし、油断なく身構える。


「どうしてお前がここに?……ニニギニミリ」

「そう構えるなよォ、救世主クン。こちとら虜囚の身だぜ」


 ニミリは肩をすくめる。


「ニミリさんは俺が連れてきました……。なんのかのと言っても、彼は野風になって行き場を失っていた俺を拾ってくれた恩人です。中央にはドクターが出入りしていると聞いていたから……、怪我を治してもらいたかった」


 モルグが執り成すように説明する。


「そういうわけだ。良い部下を持てて嬉しいよ、偽鬼クン」


 ニミリがモルグに皮肉っぽくウィンクし、それから真面目な表情に戻る。


「モルグクンの話によれば、グラムシの兄貴は半死半生だ……。緑衣の(グリーン・ゴブリン)にはたっぷり『礼』をしないといけない……。(ゴブリン)狩りの時は、声をかけてくれよ? 協力してあげるから」

「随分と、態度の大きい俘囚だな」


 ドストスペクトラは溜息をつく。


「それに、まだその時ではない……。北面の邪宗門の動向が怪しい。本気を出した門徒たちと抗争しながら、鬼を討伐するだけの戦力を割くことは、難しい」

「邪宗門ってのは、そんなに強い連中なのか?」


 俺は尋ねる。


「まあ、手段を問わないって点ではうちと似てるよねえ」


 ニミリが苦笑いを浮かべる。「北面はより性質(たち)が悪い」ドストスペクトラが表情を曇らせる。


「相手はあの外道法師だ……。ここから先、今以上に荒れるぞ」


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