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人獣見聞録 猿の転生・Ⅰ 猿猴が月に愛を成す  作者: 蓑谷 春泥
第2章 ビースト・マスト・ダイ
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第26話 緑衣の鬼(グリーン・ゴブリン)

 怖気が走り、全身の毛が逆巻く。こいつは危険だと、本能が告げていた。


 緑のローブは刃物を仕舞うと、こちらに向かって、首元から止めどなく命を流すボアソナードを跨ぎ越してくる。


 考えるより先に動き出していた。


 俺はローブの顎めがけて拳を繰り出した。立てた襟と目深なフードが影になり、顔は見えない。ただ、鮮やかな緑色の瞳がこちらを見据えている。


 俺の一撃は、軽々と掌で受け止められた。岩を殴っているみたいだ、びくともしない。——やつの左手が俺の右手を掴む。凄まじい握力だった。「——!?」


 間近で捉えたローブの姿に、あの夜の姿が重なった。「お前——」俺は固唾を呑む。「——樹海の——?」


 つま先を踏むと同時に、握った手を勢いよく引っ張られる。流れるような動き、瞬く間の所作だ。重心を失い宙を掻く俺の左腕をくぐり、拳が突き刺さる。


 重い!!!!


 ……穴が空いたと思った。背中にも衝撃。反対側の壁まで殴り飛ばされたのだ。だが背の痛みなどわけなかった。俺は体を九の字に折り曲げ、血をぶちまける。胃が痙攣を繰り返し、その度に折れたあばらが突き刺さった。


 腹を裂かれたと錯覚するほどの一撃! 俺は意識が飛ばないように必死で神経を尖らせた。気を抜けば持っていかれる。ここで落ちれば二度と日の目を拝むことはできないと確信していた。


 ローブは指一つ動かせない俺に目もくれず歩き続けた。緑……、奴らの仲間が、まだ残っていたのか? ボアソナードが視界に入る。胸が弱々しく波打っている。首が開いているが、まだ息はあるようだ。「っ、わ――」アテネが膝を震わせ、尻をついて後退る。「——『悪い魔法使い』……」


 ローブは一直線に鎧の所へ進む。「待てよ」ユーメルヴィルとニミリがその前に飛び出し、立ちふさがる。


「お前の仲間か?」

「見も知らぬ相手だよ」


 ユーメルヴィルの問いにニミリが答える。ローブの体がゆらりと揺れる。


「「————!!!!」」


 2人の肉体が宙を舞う。ユーメルヴィルの体は赤毛の部下たちを吹き飛ばし、ニミリはグラムシを潰している砂塊まにのめり込み、砂の山を崩した。


 砂の塔が倒れ、大量の砂が流れ落ちる。


 ユーメルヴィルは倒れた切りぴくりとも動かない。赤毛の猿たちは、飛んできたユーメルヴィルと衝突して昏倒している。「ここまでか……」ニミリは舌打ちしてがくりと頭を垂れる。「……見捨てたもうたか。神……」


 流砂と共に気を失ったニミリの体が転がり落ちる。その横を素通りして、ローブは鎧の方向に歩みを進める。


「……?」


ローブの歩みが止まる。奴の視線の先を追う。——砂中から突如として突き出た右手が、奴の足をしっかりと掴んでいた。


「愚かだなあ、ニミリ」


 砂の塊の中から、泳ぎ出るようにゆっくりとグラムシが顔を出した。ニミリの直撃が偶然にも堆積していた砂を倒壊させ、グラムシに這い出る余地を与えたのだ。


「神なんて居やしない。……居るわけが無え。でなきゃ俺の妻は……、っ、娘は……っ、あんな惨い死に方をする筈がないんだ……ッ!」



 グラムシの手の甲に青筋が立つ。怒りとともに握りしめた掌から、敵の足首が砕ける音がした。グラムシが暗鬱な笑い声を立てる。


「誰か知らねえが、ニミリの礼はさせてもら…………ッ!?」


 月光に銀色の刃が一閃する。足首を掴むグラムシの五指が、欠片となって四散する。


「ッ()、てめぇえぇえェええ!!!!」


 激高したグラムシがもう一方の手でローブに殴りかかる。敵の片手がそれを宙で受け止めた。


 グラムシの顔に驚愕が走る。グラムシは下半身を砂に埋めた状態だった。しかし相手も片足を潰されている。踏ん張りの効かぬ状態は互いに五分……、賊は膂力だけでグラムシと競り合っていた。


 俺は嗄れた呻き声を発しながら、ローブに向かって這う。奴がグラムシと膠着している、今が好機……。


——枯れ木を踏みしめるような、乾いた音が響いた。グラムシの拳が押し返され始めた。ローブは折れたはずの右足で、しっかりと砂を踏みしめていた。


「……ッこの力……!」


 グラムシが歯を軋ませ、はっと目を開く。


「お前、まさかっ、本物か……?」


 ローブは答えない。グラムシの手をその眼前にまで押し戻していく。


「この異常な能力、緑衣の鬼(グリーン・ゴブリン)だ! そうだろう? 鬼は魔法を使うという噂だ。そしてあんたは魔法使いの一人としか思えない!」


 ローブは無言でグラムシの拳を突き戻していく。彼の左目に、自身の爪が大写しになる。グラムシは口角を引きつらせる。


「おい止めろ! ……悪かった! 君の名を騙ったことは謝るよ! でもそれは君を頼みにしてるという証拠じゃないか……! グっ、緑衣の鬼はヒトの敵……、つまりは野風の味方のはずだろう?」


 熟れた実の爆ぜるような不協和音と共に、グラムシの野太い叫びが轟いた。鬼は素早く手を引き抜き、もう片方の眼を抉る。


「ッあああぁぁぁあぁぁぁあぁあ!!!!!!!!!」


 グラムシの体が激しく痙攣する。「畜生……!畜生ちくしょうチクショオォォオ!!!」鬼が頭を掴み、砂から体を引きずり出し、地面に叩きつける。グラムシの眼窩にぽっかりと空いた、黒々とした穴と目が合う。


「てめぇぇえぇえ……! 手前ぇ手眼ェテメェ! 殺してやる!! 殺してやルァア!!!!!」グラムシは喉から血が出るほど絶叫してのたうち回り、遮二無二腕を振り回す。当然鬼には当たらない。鬼は露わになったグラムシの脚を掴み、引き上げると、あろうことかその巨体を振り回し、横に倒れていた緑鎧の偽鬼に叩きつけた。


 さすがの衝撃に兜が砕け、グラムシの頭蓋の鈍い残響の中に散る。


 束の間の静寂の中、兜に隠れていた偽者の顔が月の下に曝される。


「…………」


 緑衣の鬼に初めて微かな反応が見えた。震える腕を立て身を起こした俺も面食らった。鎧の男は確かに人間の特殊器官……、その能力を駆動しているように見えた。だが、鎧の男……、偽鬼の正体は一匹の野風であった。


 本物の鬼はしかし、何か満足した雰囲気で肯き、偽者にそれ以上手を加えず、こちらを振り返った。


「……! 来るなら来い……!」


 俺はぐらつく足で立ち上がり、両手を構えた。だが鬼はこちらに一瞥もくれず、俺の横を素通りして呻くボアの傍に近寄った。乾いた夜気に、アテネの歯を鳴らす微かな音が伝う。鬼はボアソナードの体に屈みこんで、傷口に何か仕込み始めた。鬼の体が陰になって、こちらからは窺えない。「おい何を……!」


 老体が飛び跳ねた。


 俺は目を見張る。ボアソナードの肉体は何かに憑かれたかのようにぶるぶると身震いしたかと思うと、突然ぼこぼこと膨らみ始めた。骨ばった痩躯がうねり、肉が盛り上がって、首の裂け目がみるみる塞がっていく。指は鋭く尖り、赤い筋の残る口元に犬歯が伸びていく。白い肌が毛のようなもので覆われていく……。何か禍々しいことが起っている、それは外目にも明らかだった。


 俺は限界の膝を震わせながら、根限りの力で鬼ににじり寄る。


「そいつから離れろ……」


 鬼は腕を組んでボアソナードの肉体の変化を眺めている。俺は雄叫びを上げながら挑みかかっていった。


 鬼はボアソナードの体を爪先で転がし、こちらに、やおら向き直った。奴の次の攻撃……、『両頬に続けて二発、上空から鋭く脳天に追撃……』、読める……! だがもつれた俺の足では反応しきれない。


 ……俺は強く地面に叩きつけられた。振り落ろされた(かかと)(おとし)体に脳が揺れ、自由が利かない。鬼は俺の首根っこを掴んで仰向けにひっくり返し、またがり、睨むことしかできない俺の顔面を激しく殴打した。俺は声を上げ、緑の双眸を強くねめつける。緑衣の鬼はそれを嘲笑うかのように、繰り返し、くり返し、くりかえし…………………………、気の遠くなるほど幾度も俺を打ち据えた。


 悦んでいる……。(ひび)割れた頭蓋の底で、俺は理解した。鬼の恍惚とした瞳は俺の存在を強く捉えていた。奴は、光ない愉楽の海中に俺を引きずり込もうとしていた……。


「うぁあぁぁあ!!!」


 鬼の後方で空気が震えた。鬼が俺の体から素早く転がり、その後を追うように刃が閃く。——アテネだ。ニミリのとり落としたナイフを両手で握りしめ、不規則な息遣いに切っ先を激しく揺らしている。


——だが背後からの一撃、鬼は意にも介していない風だ。


 鬼が立ち上がる。アテネの呼吸が激しく、短くなる。緑衣の鬼の手が、彼女の細い首筋にかかる……。


 突然、鬼の手が止まった。微かに動揺したように、ローブのフードを押さえる。俺は深紅に染まった視界で精一杯目を凝らす。鬼のフードに、切れ込みが入っている。アテネの一振りは鬼の肉にこそ触れなかったが、その衣服を切り裂いていたのだった。


「——おい、こっちだ!」


 追い立てるように、遠くから、無数の足音近づいてきた。援軍だ。——ただし、西南連合の。


「さっきのはグラムシさんの声だ! とんでもない絶叫だったが……」


 にわかに辺りが騒がしくなる。グラムシの悲鳴は眠る町を劈き、援軍の道標となっていたのだ。


 周囲を覆う声は大きくなっていく。緑衣の鬼は躊躇うような素振を見せたが、やがてフードを片手で押さえると、踵を返し、足音も無く、夜の闇に紛れた。


 アテネは緊張の糸が途切れたように、崩れた。その後方、さっきまでボアソナードがいた血溜まりには、一匹の蒼い野風が横たわっていた。


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