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人獣見聞録-猿の転生 Ⅰ・猿猴が月に愛を成す  作者: 蓑谷 春泥
第2章 ビースト・マスト・ダイ
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第19話 勤行

 翌日から数ヶ月に及ぶ勤行生活が始まった。


「起きろ、『(かけ)(こみ)』に向かう」


 鳥も鳴き始めない時間に叩き起こされ、長距離継走の修業が始まる。建物の屋根や樹々を不規則な動きで飛び回りながらスラムの町を縦横に走り続ける。外の空気はどんよりとしていたが、朝まだきの太陽は麗らかだった。


「動きに無駄が多いぞ」


 木片に足をとられた俺に、スペクトラは身軽に宙返りして指導する。


「筋肉の使い方を覚えると良い。俺達は通常二足歩行だが、走る時はこうして両手をついて四足歩行に切り替える」


 彼は音も無く床に足をつくと、腕の動きを見せた。


「飛び移る時は踏切が肝心だ。壁に跳躍した時は膝をクッションにして静かに着地する。その際、目標にとっかかりがあるか瞬時に見極めるのも大切だ。猿族の握力は強いから、僅かな隙間でも指が二本もかかればぶら下がることが出来る」


 俺は屋上から壁に向かって飛んだ。壁の窪みに……、と思うが、指が外れる。そのまま下に落下する。


「足の指でも掴まるんだ。受け身は覚えておくといい」


 スペクトラは空中で俺を受け止めながら言った。


 駆込はスラムの巡回の役割も果たしているらしく、ドストスペクトラは凄まじい速度で移動しながらも注意深く街の様子を観察していた。俺は二時間も走らされてそんな余裕などなかった。


「午後は『這神楽(はいかぐら)』の研鑽だ」


 朝・昼兼の精進料理を胃に入れると、午後の舞踊の練習が始まる。神に捧げる踊りの型、と言いつつ、実質的には格闘訓練だ。スラムに伝わる勤行は、長い年月をかけて生存に必要な技術を生活の中で継承するための文化であり、どれもサバイバル能力の育成に特化しているのだった。近接戦闘の極意を一から叩きこまれる。ドストスペクトラは格闘技術だけでカミラタの能力と互角に渡り合えるほどの達人で、何人もの精鋭を鍛え上げてきた鬼教官でもあった。リリが診に来ることが分かっているので、怪我など度外視でかなりハードな実践をつまされる。青あざどころでない重傷を負っては治し、折っては直しの繰り返し。しかし野風の潜在的な身体能力は素晴らしく、いつしか身体がそれに反応でできるようになってきた。


「夕方は滝行だ」


 乗馬術と登攀術(クライミング)の修練を兼ねて滝口まで移動し、滝に打たれながら瞑想する。肉体の頑強さと全身の筋持久力を伸ばしつつ、内観に素早く入り込むための修業であり、ボアソナードもこれで真偽判定技術を伸ばしたらしい。俺の聴覚予知技術の習熟にも一役買ってくれた。これによって俺は数秒から数週間先間に自分の身に降りかかる未来の音を自由に聴くことができるようになり、雨の日や獣の動きを予言することでスラムの農業・狩猟に貢献することができた。また数秒後に迫る身の危険の音は、意識せずとも感知できるようになった。


「夜は経典を習得していただきましょう」


 夕飯の炊事をアテネと一緒に手伝うと、ボアソナードのあばら家で写経に励んだ。福音派に伝わる経典で、体系的な教義や訓示に富んだ予言が含まれていたが、兵法や交渉術、駆け引きといった生き抜くための知恵が詰まっていた。ボアソナードの解題は年季が入っていて聞きやすく大いに助けとなった。時々リリが講義に来て応急処置の方法や人体・猿体の構造、食べられる動植物の見分け方、その生態、薬草の煎じ方などを教えてくれた。リリが来る夜はいつも見晴らしの良い高台に上って、ヒカリゴケの優しい光の下で夜更けまで話し込むのが常だった。


「睡眠学習というのもあるのよ」


 眠る時はアテネが特別な催眠術を掛けてくれ、一日に学んだ情報が眠っている間に整理されるのだった。警備隊の強化訓練にも利用されるメソッドで、飛躍的に学習効率が増進した。だが要するにそれは寝ても覚めても修験の毎日であった。ドストスペクトラは俺を短期間で導き手に足る器として成熟させるために法外な苦行を俺に課したのだった。


 だがその甲斐あって俺は、季節が変わるころには見違えるほどの(つわもの)に成り代わっていた。


「……だいぶ、腕を上げたな」


 スペクトラは俺の顎に掌底を狙いながら言った。俺は左腕でそれを払いのける。這神楽は人間の武術のような部分もあるが、基本的には野性的なスタイルだ。爪や牙も使うし、形式的な部分は無くて、ひたすら実践に特化している。現生の霊長類に鉤爪や牙はなく、それは野風たちも同様なのだが、獣のように長く丈夫な爪と、人間よりも発達した犬歯がその役割を果たしていた。


「この短期間でよくここまで仕上げた。途中で落伍するかと思っていたが……、貴方の精神力……いや、執念と言うべきか、それには驚かされた。狂信者並みの粘り強さだ」


 身をかがめ、スペクトラは足を払う。俺は飛び退いてやり過ごす。


「甘いぞ!」


 彼は即座に空中の俺を掴み、引き寄せた勢いで頭突きをかます。俺は小さく呻いたが、すぐに爪を突き上げる。スペクトラがのけ反る。追撃を……と思ったところで死角から顎を蹴り上げられた。


 よろめいたところに左拳。両手で顔を守るが衝撃が来ない。フェイントだ。とっさに身を引いて腹部への衝撃をいなす、が、そのまま片手を掴まれ、蹴り上げられた。俺は短く叫ぶ。腕を見ると、曲がってはいけない方向にひしゃげていた。


「これで三本。終了だ」


 スペクトラは両手を叩いて俺の毛を払い落とした。今日はリリが来てるから本気だ。多少怪我をしても治してもらえる。


「フェイントに対しての攻撃予測は悪くない。まだまだ荒いが、『音』無しでも充分闘えるだろう」

「これでも、カミラタを……、のしたんだけどね、俺は」


 俺は荒く息を付きながら言った。


「あなたがカミラタを打ち負かしたのは、彼が高を括っていたからだ。熟練の(つわもの)ならばライブラ人の電流さえ予測回避できる。それは向こうも織り込み済み……。やつが初めから警戒していれば、あなたは初手で封殺されていただろう」


 そんな情けない答え合わせは要らなかったな……。俺は額に汗を浮かべて落胆する。


「ゆっくり息を吸え。神経の鎮め方はドクターから教わってるだろう」


 俺は肯いて、深呼吸する。痛いのに変わりはないけど……。ドストスペクトラは俺の肩に手を置く。


「まあ、気を落とす必要はない。貴方は他に類を見ぬ速度で成長している。常人が十数年かけて行う勤行の数々を、異常な密度を以て数ヶ月に凝縮させているのだからな。カプリチオ族の睡眠学習と貴方の狂信者並みの胆力があって初めてなせる業だ。そろそろ本格的な実践に投入しても良い頃合いだ」

「協力してくれた皆に感謝しないとな……」


 俺は折れた腕で汗を拭った。


「手ひどくやられましたねー」


 救護室に顔を出すと、リリはにこにこして俺の手をとった。患部をさすられると、たちどころに痛みが退いていく。彼女は週に数回本部を訪れて、皆の診察をしてくれていた。「このところ足繁く通っていますな。ドクターも」昨晩の写経中に、ボアソナードと交わした会話が浮かんでくる。「私はあまり厄介になりませんがね。それでも最近はよく見かける。誰か会いたい人でもいるのか……」


 俺はリリの横顔をちらりと見る。夏雲のように繊細な白いまつげが瞬く。


「付いてきましたね、筋肉。もともと猿族だから、それなりにありましたけど」

「見た目にも分かるか。リリの華奢な体なら、軽々持ち上げられるだろうな」


 俺はリリを抱き上げてみせ……ようとした。冷や汗がつぅっと額をなぞる。意外に重……?


 リリが無言で折れた骨をつつく。俺は思わず呻く。少しだけ……いや、かなり可愛げのない痛さだ。


「……顔に出てますよ、全部」

「いや、これは今片腕が折れているせいだな。鍛錬の最中で筋肉も疲労しているしなんなら修行中から既に肩より上にあがらないくらい限界だなって思ってたくらいなんだ。そもそもこれくらいの方が健康的というか、リリは細身だから前々から少し心配だったんだ」

「饒舌な弁明は逆効果だぞ」


 スペクトラが顔を覗かせて忠告する。リリに縋りつく俺に呆れたような目を向け、手招きした。


「腹ごなしの準備運動も十分だろう。休憩を終えたら本番に移ろう」

「ああ」


 俺は腰に手をあて、せいぜい威厳のありそうな声で答える。リリの早業で、いつの間にか左腕が治されている。スペクトラは片眼鏡を上げなおした。「ところで、緑衣の(グリーン・ゴブリン)の件だが、西面で気になる噂が……」


「僧督ッ! 大変だ!」


 慌てた様子の猿僧が駆け込んできた。


「なんだ? 騒々しい」

「それが……」


 猿僧は顔面を蒼白にして続けた。「東面の連中が殴り込みに……!」


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