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人獣見聞録-猿の転生 Ⅰ・猿猴が月に愛を成す  作者: 蓑谷 春泥
第2章 ビースト・マスト・ダイ
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第17話 僧侶とメシアと白衣の天使

 そこは貧民窟にしても手ひどい荒れ様の廃屋で、庭だったと思しき場所には雑草が伸び放題、家屋にも樹の蔦が自由に手を広げていて、壁の板がはがれかけている。さっきの藁敷の件もあるから一概には言えないが、とても人が住んでいるようには見えない。少なくともこそれなりの数の信者が集えるような場所には見えなかった。


 ボアソナードが腐れかかった木戸を開ける。中は案の定がらんとして誰もいない。申し訳程度に年季の入った机と椅子、衣装戸棚が置かれているだけだった。


 俺がアテネを背負って中に入ると、ボアソナードはつかつかと戸棚の端に歩み寄り、横に向かって押し出した。戸棚は存外簡単にスライドし、地下に続く道が現れる。隠し扉というわけだ。


 地下天井には淡い橙色の光を放つ苔が照明として粉飾されていた。中は薄暗い洞穴で、剥き出しの岩肌に覆われている。蟻の巣のように通路が幾重にも枝分かれして別々の部屋に繋がっているようだった。ボアソナードの案内で抜け出た広間は食堂のようで、かなり広々としていた。木製の長卓に手製の木椅子がずらりと並び、十数人の野風たちが粛々と色の薄いスープを啜っていた。


「僧督殿はおられるか」


ボアソナードが声を張る。野風たちの視線が髄とこちらに向く。


「ボアソナードか?」


 隅の暗がりから、誰かが声をかけた。深い湖底を思わせる、奥行きのある声だ。古びた安楽椅子に腰かけ、頬杖をついている。くすんだ漆黒の毛並みに、引き締まった小柄な体躯。片眼鏡(モノクル)越しに、(うろ)のような暗褐色目がこちらを覗く。こいつが群れの長だ。俺は直感した。


「ただいま戻りましてございます。ドストスペクトラ殿」


 気力を振り絞り、ボアが背筋を伸ばす。片眼鏡のボスが鷹揚に片手を挙げる。


「大儀だったな。お前なら無事帰ってくると信じていた。……それで、釣果はどれほどだ」

「仰せの通り、樹海の魔法使いの情報を握る少女との接触に、成功いたしました。こちらに連れております」

「ほう、脱獄までさせたか」


 レンズの奥で、ボス猿の眼が鈍く光る。


「期待以上だ。これで警備隊に優位をとれる」

「それだけではございません、僧督殿」


 ボアが俺を手で指し示す。僧督は虚ろな目つきで俺達を眺めた。目が合っているのに合っていないような、その瞳に何の像も浮かんでいないような目だ。いつぞやの安置室で見た死体を思わせる。


「見た顔だな」


 彼はゆったりと答えた。


「二月ほど前か……。たしかあれは市の路地裏だ。ボアソナードが警戒して声をかけた旅客だな」


 そう言われてみると、このボス猿は市場でボアと一緒にいたあの紳士だった。


「さすが、覚えておられましたか。獄窓で偶然再会しましてな、脱獄の助力をいたしました」

「お前が危険を冒して連れ出すほどの、逸材か」

「ええ、ただの旅人ではございません。彼は、異界から来訪した稀人にございます」

「稀人……!」


 聞き耳を立てていた野風たちがざわつく。僧督もかすかに興奮した様子で身を乗り出した。


「お前が言うのなら、嘘ではないのだな」

「ええ。その証左に、未来知の魔法を以てあのカミラタを下しました。実力も折り紙つきです」


 食堂のざわめきが大きくなる。注目を集めているようで居心地が悪い。何でも良いが俺はアテネとボアをさっさと休ませてやりたかった。


「では、彼が予言の……?」

「ええ、可能性は高いかと」


 僧督は椅子を引いて立ち上がり、こちらにしっかりとした足取りで歩み寄ると、俺の手をがっしりと握った。


「お会いできて光栄だ、救い(メシア)殿。私は僧督ドストスペクトラ。皆はスペクトラと呼んでいる。福音派の指導者にして中央教区の政治の担い手だ」

「こちらこそよろしく頼む、僧督様。俺は元・人間の真白(ましら)(そそぎ)。色々話したいこともあるが……、俺たちは満身創痍だ。すまないが彼らを先に休ませてやってくれないか?」


 スペクトラは俺たちを改めて眺めた。


「たしかに、三人ともぼろぼろだな。貧民窟には似合いの有様だが……。奥で休んでいただこう。ちょうど医者も見えている」




 別室は雑然としているが思ったよりは清潔だった。いくつか傾いたベッドが並んでいて、申し訳程度に洗濯されたシーツが掛けられている。樹木が生い茂って目隠しされてはいるが、この部屋は地上に面している上階のようで、窓が二箇所あって換気もされている。多分ここは救護室のようなものを兼ねているのだろう。何しろスラム街だから、ごたごたも多いはずだ。


「何か温かいものでも入れさせよう」


 スペクトラは信者に指図をして、一緒に部屋を出ていった。後には俺とアテネとボアソナードの二人が残る。


 俺は辺りを見渡す。


「思いのほか温かい歓迎だな。見た所信徒の数も多そうだし、事情を話せば匿ってくれるかもしれない」

「僧督殿がどのような判断を下すかですな。救い(メシア)たるましら殿を保護するのは教會としても望ましいところ……。しかし、食客を持てるほどの余裕が貧民街にないことも、事実。よく交渉なさることです」


 ボアは忠告しながら粗末な藁布団に横たわった。まだ疲労が深いのか、すぐに寝息を立て始めた。


 給仕の女性がやってきて、湯気を立てる透明な液体を渡してくれた。アテネを見るとまだよく眠っている。俺は窓枠に湯呑を置いた。


「わざわざすまないな。これは何て飲物なんだ?」

「新鮮な湧き水を汲んできて、よく煮込んだものです」

「つまりは、白湯か……」


 おや? 俺は無味無臭の湯をがぶ飲みして気づく。今の声、どこか聞き覚えのある……。


「2ヶ月ぶりですねー、ましら君」


 見慣れた銀霞の白髪(はくはつ)が揺れる。松明の下で仄暗い夜空のような瞳を細めて、彼女はひらひらと手を振った。


「! リリ……か……?」

「お元気そうで何よりです」


 ドクターは白い頭巾を前掛けのポケットに仕舞いながら言った。白衣を着ていないと印象が変わる。光の加減で瞳の色が変わっていたのもあるだろう。一瞬、リリだと気づかなかった。


「お元気というほど、元気ではないがな」

「うちの霊安室にいた時より、血色いいですよー?」

「それが医者の科白か……?」


 俺が顔をしかめると、リリは微笑んで俺の背中をさすった。「冗談ですよー。今、治療してあげます」


 俺はふとそれを懐かしい感触だと思った。物心つく前にに亡くした母や、孤児院の先生の手の温もりを思い出した。それは長い間忘れていた感触だった。


 リリの触れた所はたちどころに傷が癒え、痛みを鎮めていった。なるほど、こいつは魔法である。腕を見ると、毛が焦げて抜けてはいるが、火傷も治っていた。ものの数分間で、カミラタに受けた全身の傷は快癒した。


「少し休憩しますねー」


 リリは微かに疲労したように息をつくと、古びた椅子を引きずってきてそこにちょこんと腰掛けた。自分の湯呑を両手で包む。2ヶ月でも随分久しい気がする。


「体力までは回復させられないので、そのまま横になって休んでいてください」


 リリは医者らしく俺に指図した。


「——ましら君なら、近いうちに出てくるだろうって思ってましたよ」

「分かってたのか? 俺が脱獄すること」

「ましら君の『現世』への執念は並でないですからねー。何をしてでも元の世界に帰ろうという堅い決意を感じます」

「まあ、な」


 俺は言葉を濁らせる。


「訊いていいですか?」

「?」

「どうしてそこまで現世に(こだわ)るんです?」

「……」


 俺は無言で額に手を当てた。リリは続ける。


「たしかに異境の地ですごすのは困難でしょうし、元の世界の方が快適かもしれません。でもそれだけじゃないというか……、何か目的があるように、見受けられます。……向こうに誰か、大事な人がいる、とか」

「大事な人、ね……」俺は掌で目を覆って答える。「もう、皆死んでるよ」


 俺はリリの顔を見ずにそのまま続けた。


「だがね、還ることには意味があるんだ。こっちに飛ばされる直前の記憶は混乱して、不明瞭なままだけど、ある言葉だけが何故かはっきりと頭に焼き付いてる。多分、生まれ変わりの原因もそこに繋がってるのかもしれないが……」

「……その、言葉というのは?」

「誰かが言っていたんだ。『もしもこの場所に還ってこられたなら——』」俺は手を退けて目を開く。「『——君は英雄になれる』」


 奇妙な静寂が部屋包んだ。


「すまない、子供じみた文句だよな。忘れてくれ」

「いえ。大望に稚気は必要です。英雄……、ですか」リリは思案気に顎に手を添える。

「……その約束が事実だということは、はっきりと覚えているんだ。そしてそれだけが、俺の支えだってことも」

「そこまでして欲しいですか。……勲章が」

「……そうだな」俺は目を伏せて答えた。「欲しい、というのは違う。これは使命のようなものだ。誓ったんだ。皆の代わりに、俺が——」


 ごほごほと乾いた音を立てて、アテネが咳き込んだ。俺とリリは顔を見合わせる。


「……悪いんだけど、そろそろこいつらも診てやってくれるか?」

「そうですね」


 リリが腰を浮かせる。


「白湯を飲んでいてください。少しだけ、香草の果肉を潰して混ぜています。気休め程度ですが、疲労回復に効きますよ」


 リリがアテネの胸に耳を当てながら言う。俺はまだ湯気を立てる湯呑を傾ける。良薬は口に苦し、という言葉が全世界共通ということがよく分かる味だ。茶葉をそのまま貪ってるみたいな気分になる。


「アテネは大丈夫そうか?」

「ん……、脈拍は正常です。この傷を付けたのは……、ライブラ族の方ですか」

「ああ、カミラタだ」

「カミラタさん? それは計算になかったですね……」


 リリが眉を顰める。アテネがうなされるように譫言を口走った。


 アテネの額を撫でながら、リリが言う。「……全身の裂傷は塞ぎましたが、熱がひどいですね。この子はしばらくは安静です」

「そうか……」


 俺は目を伏せる。蒸気が鼻をくすぐった。リリはアテネの首に手をのせて言った。


「大丈夫ですよー。この手の症状なら生薬で治せませますから。大事には至りません」リリはアテネの顔を覗く。「アテネさん、と言いましたね。監獄から連れて来たんですか?」

「ああ。樹海の『悪い魔法使い』の情報を握ってる。それにどうも不当逮捕らしかったし、どうにか連れて来たんだ」

「無茶をしますねー」


 リリがくすくすと笑う。


「呆れたか?」

「最初から呆れています」


 リリは悪戯っぽく微笑む。「でも、それがましら君の美点です」


 ところで、と、彼女は思いだしたように尋ねる。


「カミラタさんから逃れたと言ってましたが……、どうやって切り抜けたんです?」

「うん、話すと長くなるけど、俺も魔法が使えるようになって……」

「魔法?」

「そう。予知の類で……、未来の音を聴くことが出来るんだ。ボアソナードやアテネが言うには、これは魔法ならしいんだ。そう云えば、リリの治癒能力も一つの魔法だと……。一体なんなんだ、この魔法というやつは? ヒト族の使う妙な力とは、どう違うというんだ?」


「……あぁ」リリは合点の行った顔をした。


「ましら君、それは皆が勝手に呼んでるだけです」


 俺は首を傾げる。彼女は苦笑いしてきっぱりと言い放った。


「本当は魔法なんて無いんですよー」


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