コミュ力上がっても成長しない
どうでもいい話ではあるが、私はここ何年かでいわゆる「コミュ力」が上がったと思う。
コミュ力が上がっていると言っても、陽気になったわけでも社交的になったわけでもないが、他人との関わりを適度に、そつなくこなすくらいの世間知は得たという感じだ。私としてはそんなものを成長させる気はなかったし、そんなのどうでもいいや、という人間なのだが、できた方が面倒くさくないので、自然と身につける事となった。
元々、私は根暗で無口な人間だったが、他人というのがどの程度の思考をしているのかを、時間をかけて知ったので、わりと気安く話せるようになった。なんというか(この程度か)という感じだ。私は以前は、おそらくは家庭環境のせいだろうが、世界を畏怖して生きていた。
世界に対する畏怖から、世界を知りたいという欲求が生まれる。その過程で、世間の人がどんなレベルで動いているのかが理解されてくる。(こんなもんなんだ)と思い、それからは適当に話すのが可能になった。世界を知って、世界を見くびるようになったわけだ。
そんなわけで、私のコミュ力は上がったわけだが、別にこれは私の本質的な成長とは大した関係はないと私は考えている。
コミュ力というのは、要するに、他者に対する仮面のやりくりがうまくなったというような感覚で、面の皮が厚くなったという以上の実感はない。要するに、真の私を包む外装の部分が分厚くなっただけで、その中にすっぽりと収まっている私自身は、根底的に中学くらいから大して進歩していない。
「コミュ力があがる」というのが人として大事な成長みたいな事はよく言われている。それは今の社会が根底的に軽薄であり、仮面的なものだからだろうが、私の実感ではコミュ力は、成長とはさほど関連はない。
今の社会は、黙っていい仕事をする職人よりも、他者に対する表面的なパフォーマンスをする人間を評価する、そういう世界だから「コミュ力」が重視されるのだろう。私はこの社会そのものが病んでいると診断しているし、うんざりもしている。
コミュ力が人間的成長とは別のものだというのは、次のような例によく現れているのではないか。それは、普段は陽気で社交的な人間が、ある時、あっさりと自殺してしまう、そのような例だ。芸能人の自殺が最近は頻繁に起こったが、芸能人とは当に仮面を被るスペシャリストに他ならない。だが、彼らの仮面は彼らの本質を救いはしなかった。この事実だけでも、コミュ力とか、他者に対する応対、他者からの評価によっては決して救いきれない人間の内実が存在する証左になっているだろう。
私自身も、面の皮が厚くなり、他人と気安く会話できるようになったところで、私の中の暗い精神が癒やされたわけでも、解決したわけでもない。単に、世間的な面倒が減衰しただけだ。
人と談笑して、いかにも楽しそうな様子を内外に見せつけた後で、一人で自宅に向かっている間、ふと(死にたい)と思う。それは全くありうる事のように思われる。
私はコミュ力と人間的成長とは別個のものだと考える。もっとも、人間的成長というのは本当に存在するのか、かなり怪しいとも思っている。成長や進歩といった言葉そのものに嘘が含まれているというのが真実なのだろう。ただ、コミュ力が人間の本質に触れられるものではないというのは、確かにある事だと思う。
お笑い芸人とモデルという、「見た目」「コミュ力」が至上の権利を振るっている今の社会において、密かに蔓延する躁鬱病があっても、おかしくはないだろう。人々は表面的なはしゃぎっぷりの裏で密かに鬱になっている。そうしてその鬱は、表皮的な明るさによって撃滅するものではない。おそらく、人間的暗さは、その暗さそのものが一つの価値であるという所まで行かなくてはならないのだろう。その為には、自分の実存と、歴史的価値観をつなげる必要がある。繋げる為には多分、教養を手に入れるという実質的な手続きが必要だ。