黒猫と虎猫とわたし
わたしはバスに乗っていた。そのバスは外側から見るとたしか赤い色をしているのだが、その色がわからないほどの暗闇の中をバスはずっと走っている。トンネルの中ではない。外はきっと夜なのだろう。わたしはそう思って、流れてゆく外の真っ暗な景色をまじまじと見つめていた。
(わたしはこのバスがどこに向かっているのか、わからない……)
バスの運転手は虎猫であった。この虎猫は咥えている太いパイプから白い煙を噴き出しながら、うんうんと唸り声を上げ、ハンドルを強く握りしめている。
(まったく不思議なことだが、わたしはこの猫の名前も知らない)
しかしそれは当然のことだ。誰がバスの運転手の名前など覚えているものだろうか。それはわたしにはわからない範囲のことなのだ。
バスの運転手は、どんどん山奥に向かってバスを進めいているようだった。
「わかります」
と突然、となりに座っている一匹の黒猫が話しかけてきた。
「なにが分かるんだ、お前に……」
「あなたの気持ちですよ。どこに行くのか分からないと思っているのでしょう。実のところ、わたしにもまったく行き先が分からないんでさ」
「お前にも分からないのか。まったく変なバスに乗ってしまったものだ」
わたしはそう不機嫌に言うと、隣の呑気な黒猫にこれ以上、話しかけれないように窓の外をじろりと見た。
「でも、ミステリーツアーっていうのはそもそも行き先が分からないものじゃないですか」
と隣の黒猫が奇妙なことを言ったのに驚いて、わたしは振り返った。
「ミステリーツアーのバスなのか。このバスは……」
「そりゃあ、そうですよ。これはミステリーツアー猫旅のバスです。今まで何も知らないで乗っていたんですか?」
「知らないよ、そんなことは。正直いつからこんな妙ちきりんなバスに乗っているのかさえ、まったく覚えがないんだ」
「旦那はきっと夢でも見ているんでさ」
「そんなわけないだろう!」
わたしは理解できないことばかり朗々と語るその黒猫を威圧するように怒鳴った。黒猫がおったまげたような表情を浮かべて面白いくらいのけぞったので、わたしは自分が強くなったような気持ちになってすっかり嬉しくなった。
(あはは。わたしは強い……)
「でも、旦那はきっと面白いものを見ますよ、この旅行の中で」
と黒猫が先ほどの勢いをすぐに盛り返してそんなことを語り出したので、わたしはすっかり弱気になってしまった。
「なにを言っている」
「旦那はきっと面白いものを見ると思うんです。この旅行の中で」
「その台詞はさっきも聞いた。それでわたしがなにを見るというんだ……」
「さてね、それはわたしにもわかりません」
黒猫はそう言ってへらへら笑うと、わたしとの会話に飽きたらしく、どこにしまっていたのか、大きな弁当箱を取り出して、バスの中でその蓋を開き、呑気にその中身を食べようとしている。
「酔って吐くなよ……」
わたしは一応そう一言だけ忠告すると、どうせ他人のことだから構いやしない、と投げやりに思って、ひどく塞ぎ込んだ気持ちで窓の外をふと眺めたのだった。その時だった。
「うわぁっ!」
わたしは叫び声を上げて、立ち上がろうとし、窓ガラスを両手で思いきり叩いた。そして言葉にならない怒鳴り声を上げた。今にも泣き出しそうな気持ちだった。わたしには窓の外が見えたのだ。そこにあったのは……。
「ど、どうしました。旦那!」
黒猫は驚いて、弁当箱を椅子に転がすと無理に立ち上がろうとするわたしを丸い手で押さえつけた。わたしは黒猫に押さえられて、呼吸を乱しながら椅子にふらふらと座り直した。
「なにが見えたのですか?」
「わからない。ただ、恐ろしいものが見えた気がしたんだ」
「すぐに忘れることです。そんなことは……」
黒猫はそう早口でいいながら、人間というものは大変な生きものなんだなぁ、と気の毒に思ったらしく、弁当箱の蓋をもう一度開けて、中から鶏肉を焼いたものをひとつつまんで渡してくれた。それは大変、美味しいものに感じられた。
わたしたちを乗せたバスはとある旅館にたどり着いた。そこはとても静かな山奥で、清涼な川が流れているところに赤い橋がかかっていた。その山道の途中にある古びた旅館があるのだった。
わたしと黒猫とバスの運転手の虎猫は、バスから降りると、その旅館にチェックインした。旅館といっても誰もいる様子はない。気味が悪いほど静かな旅館である。カウンターにほっぽり出されている汚らしいノートに三匹の名前を(いつの間にかわたしまで完全に猫扱いされていた)記した。やることもないので、わたしたちは二階の八畳間に上がると、しばらく鯉と金魚が描かれた襖絵を眺めて語っていたが、黒猫が押し入れの中からトランプを見つけ出して、それからずっと呑気にトランプをして遊んでいた。
「トランプは楽しいですね」
と黒猫は、へらへら笑いながらカードを引いて、わたしに話しかけてきた。わたしも確かにひどく楽しい気持ちになっていた。この二匹の猫と話していると気持ちが癒されるのだった。わたしは黒猫が、わたしの手札からババを引いたのに笑い出しそうになるのを必死に押さえつつ、
「楽しいね。この時がずっと続けばいいのに……」
と言った。
「楽しかないわ!」
と虎猫がそう怒鳴って、手札のトランプを机にぶちまけると立ち上がった。
「お前たちは状況がわかっているのか! このままでは取り返しのつかないことになるぞ!」
そう言うと虎猫は、呆気にとられて見つめているわたしたちにため息をついて、いかにも不機嫌な様子で廊下に飛び出し、さっさと歩いていってしまった。
「なんだ。あいつ。一体何を言おうとしていたんだ……」
わたしは不自然に思いながら黒猫に尋ねる。黒猫は不安そうな表情を浮かべて、その虎猫の去った後の廊下をじっと見つめている。
「わたしには何のことかわかりません。でも、それでもいいじゃないですか。真実を知ることがいつでも正しいことでしょうかね」
そうは思わない。それでも、わたしは虎猫の言おうとしたことが何なのか気になる。わたしはトランプの手札を戻して立ち上がると、部屋から飛び出した。
「だ、旦那。どこに行こうというのですか!」
「あの虎猫を探してゆく。いいか。あの虎猫はわたしたちの数少ない仲間だ。そしてあの虎猫がいなくなったら、わたしたちは、このわけのわからない山奥の旅館から一歩も出ることができなくなる」
「どこに行きやしませんよ。バスの運転手なのですから。そんなら一階の風呂でも見に行きましょうか……」
あの取り乱した様子で風呂に行ったわけないだろう、とわたしは思ったが、黒猫はまるで確信している様子で廊下に飛び出し、階段を降りてゆく。階段の途中で……。
「あっ、こいつはおったまげた……」
「なにかあったのか」
「おそろしいものが柱と天井の間から見えたんでさ。でも、あなたには絶対に教えられないことです」
(教えられないこと?)
わたしは不安が込み上げてきた。わたしはこの旅行中ずっとなにかを隠されている、と思った。
「ふざけるな!」
わたしは怒って黒猫の胸ぐらを掴んだ。階段から落っこちそうになる。もうどうなってよい、と思った。しかしわたしは黒猫の表情を見るとすっかり弱気になってしまった。黒猫がわたしをひどく気の毒そうに見つめていたのだ。
その時、わたしの脳裏にバスから見えた光景が思い出された。
「そうか。やっぱりそうだよな。やっぱり駄目なんだろ?」
わたしは黒猫にそう尋ねた。
「わかりませんよ。まだ希望は残っていますから」
黒猫は微笑んで、わたしにそう言った。
わたしと黒猫は一階まで階段を降りて、薄暗い廊下の先の風呂場に、虎猫がいないことを知るとだんだん不安になってきた。虎猫は一匹でどこかに行ってしまったのではないか。
(まさか……)
わたしは途端に焦って廊下を走ると、旅館の引き戸を開けた。外を見るとバスはなくなっていた。
わたしはたまらなくなって、八畳間に戻ると、しばらく黒猫とカップルのように抱き合って座っていたが、これでは一向に問題が解決しないと思ってわたしは咳込みながら立ち上がった。
「虎猫はもう戻ってこない。きっとだ。ならば、この山奥の旅館で果てるまでだ……」
わたしと黒猫はのんびりとトランプをして遊んだ。二匹は笑い合って、虎猫のことなど、もうどうでもよくなってしまった。止まったままの時計からカチッカチッという音だけが聞こえてくる。黒猫が静かすぎるのを気にして、
「ラジオでもつけますか?」
とわたしに尋ねてきたので、
「いや、いいよ。もう悪い知らせを聞きたくないんだ……」
と答えた。その言葉に黒猫は静かに頷いていた。
「君に何度も食ってかかってしまってすまなかった……」
わたしは急に悲しくなって黒猫に言った。
「いいんでさ。そんなことは……」
「いいや。これだけは言わせてくれ。君はわたしの心を癒そうとしてくれていたのだろう。それなのにわたしは君に……」
わたしは涙が込み上げてきた。
「いいんでさ……」
黒猫がそう答えたことに、わたしはたまらなくなってトランプの手札をぶちまける。わたしは嗚咽した。自分が情けなかった。黒猫は驚いて、わたしの側にまわり込むと背中をさすってくれたのだった。わたしは苦しかった。そして黒猫に心から申し訳なく思っていた。黒猫がまたなにか言葉をかけようとしているのが察せられた。その時だった……。
「あっ……」
黒猫がちらりと窓の外を見て小さく叫ぶと、わたしをその場に残して、窓に駆けていった。
「やった。旦那、夜明けですよ……!」
わたしはその言葉にはっとした。わたしが面をあげると、いつのまにか分厚い雲が割れて、そこから強い日が斜めに差し込んでいるのだった。まるで最初から昼間だったような光景だ。わたしはそれを一目見て、ふらふらと立ち上がった。
「助かったんだ……」
「それじゃ、あっしの役目はここで終わりですね……」
そう言うと黒猫はわたしに微笑んで、わたしを見つめている。わたしはなんと言ってよいかわからなかった。そして黒猫は小さな影となって、窓の外に消えていった。
「今までありがとう……」
わたしはそう感謝の言葉をかけたが、それでも足りないと思って、黒猫を追いかけるように窓の外に歩み寄った。窓の下を見下ろすと、強い日差しの中で、帰りのバスが止まっているのが見えた。
病院のベッドの上で、わたしが奇跡的に目を覚ましたのは、十一月のある日の正午のことだった。