ハッピーバレンタイン
「これから起きることは全部バレンタイの所為」
彼女は俺の耳元でそう囁いた。
俺は彼女に呼ばれ、彼女の家に来ている。
俺は彼女に押し倒される形でベットに背を向けていた。
「バレンタイの所為?」
「そ。バレンタインの所為。私の所為でも、ましてや貴方の所為でもない。全てはバレンタインの所為なの」
俺はなんのことやら分からず、硬直してしまう。
そんな俺に対し彼女は「Do you understand?」と耳に息を吹きかけながら問いかけてきた。耳に全神経が集中する。これまで感じたことのない緊張感が身体を支配した。
なにがなんだか分からなかったが俺はコクリと小さく頷いた。
すると彼女は「物分かりが良くてよろしい」そう言って、自分のバックからガサゴソと何かを取り出した。それは綺麗にラッピングされた箱だった。
彼女はリボンを引っ張って外し、包装紙を雑に破り捨て箱を開けた。
中には茶色くて丸い塊が三つ入っていた。
一粒を取り出し、「あーーん」と、俺の口を開けるように促しそれを口の中へと放り込んだ。
俺は口の中に入った物を咀嚼する。その光景を見ている彼女はモグモグしてて可愛いと笑う。
どうやらさっきのはチョコだったようだ。トリュフチョコだ。口の中にチョコレート特有の甘味が広がり、口内の温度で少しずつ粘度が高くなっていく。それを一通り味わった俺はチョコを飲み込んだ。
「どう?美味しい?私の作った特製チョコ?」
「美味しいよ。それにしても今日の君はなんだか様子がへ……」と、俺が言い切る前に彼女は人差し指を俺の唇に置いて「しぃー」と俺の口を閉じさせた。
「言ったでしょ。これはバレンタインの所為なんだから。今日なにが起きても私は知らない」
あぁ、そうだった。最初に彼女はそんなことを言っていた。バレンタインの所為だからこれから起きることは僕達の所為ではないと。それにしても今日の彼女はやけに積極的だ。付き合ってそろそろ二年になるがこんなにも積極的だった事はない。
「そういえば」と、彼女は思い出した様に話し出した。「バレンタインでチョコレートをあげるのは日本くらいらしいわ。よく聞くけどお菓子会社の策略だなんて言われてるわね」
確かにそんな話を俺も聞いたことがある。
2月14日に祝われていたキリスト教の元聖名祝日。聖人ウァレンティヌスを悼み祈りを捧げる日で恋人達のロマンスとは本来無関係だった。それがなぜか15世紀頃から男女の恋愛の記念日へと変わり、
アジアの辺境の地、ここ日本では女性が意中の男性へとチョコレートを送る風習へと変貌していった。
「チョコレートを送る行為が、企業の戦略でも好意のある人へ食べ物を贈るっていうのは理に適っていると私は思うの」
「と、言うと?」
「料理は愛情なんて言うけれど、その料理を食べる事自体信頼がないと出来ない事じゃないからしら?」
俺は彼女がなにを言いたいのか分からず、そのまま続きを聞くことにした。
「あ、先に言っておくけど、お店でお金を払ってご飯を食べる事はこれに当てはまらないわよ。だってお金を払っているのだからそこにあるのは信頼ではなく契約があるの。正当な報酬を渡す代わりに安全な物を提供する義務があるでしょ。でも他人から貰うものは?お金を払わず他人が作った料理を好意で貰う場合。少なからずその人との信頼関係がないと口にするのは難しくないかしら?」
確かに、潔癖症でないにしても全く知らない人から貰う食べ物はちょっと疑ってしまうかもしれない。俺は、子供の頃友達のお母さんの作ったおにぎりが苦手だった。
「だから抵抗無く食べることが出来る場合はそこに少なからず信頼があるのよ。そして、それは愛に通ずるの」
「愛に?」
「そう。だって食べた物は自分の血となり肉となる。それは正に自分自身になると言うこと。一つになる……言い方を変えればセックスよ。セックス」
彼女はセックスを強く強調する。
「えっと……それは流石に言い過ぎなんじゃ?」
「そうかしら?食欲と性欲は密接に絡んでいると私は思うわ。食べる事は生きる事。生きる事は子孫を繋ぐ事。三代欲求に数えられる程なんだからこの二つには強い繋がりがあるのよ。食事の仕方とセックスの仕方には相関があるなんて言われてもいるのよ?それにほら、カマキリの雌は交尾した後、雄を食べちゃうなんて言うじゃない。」
食事の仕方とセックスに相関があるというのは俺は初耳だった。昔、車の運転が上手な人は夜も上手いなんて話を聞いた事あったが、それに近いものなのだろうか?
そんなことを考えながら俺は体の芯から熱くなっていくのを感じていた。彼女が強く誘ってくる素振りをするものだから俺の本能も反応して来たのだろうか。
「あら、やっと効いてきたわね」
彼女は俺の顔が火照っている様を見て言った。
「え?効いてきた?それは、どういう……」
俺が疑問を投げかけようとした時、急に俺の口は言うことを聞かなくなった。
「あら、呂律が回らないのね。凄いわねあの薬」
「く……くすり?」
「そ、さっきのチョコにちょっとした薬をチョコっと入れたのよ」
彼女はチョコだけにね。と、戯けていってみせた。俺にはそれを聞いて笑う余裕はない。
「なんで……そんなこと……」
なんとか振り絞って俺は声を出す。
「なんでって、貴方私に黙って他の女と会ってたでしょ」そう言って彼女は僕のカバンに手を突っ込んで何かを取り出した。「これ貴方に付けてたGPS。これで貴方がどこにいたのか直ぐに分かる様にしてたの」
彼女の手にはキーホルダーが握られていた。そうだ、あれは確か彼女にいつだったかプレゼントされた物だ。まさかそれがGPSだっだなんて。
「他の女と会った事後悔してる?」
彼女は笑いながら俺に問いかけるが、目の奥が笑っていない。
「俺が悪かった。俺のいっときの気の迷いが君を傷つけたんだ。ちょっとした遊びだっだんだ……許してくれ……もうしない。頼む、頼むから許して」
俺は命乞いをした。その様は、無様としか形容し難い格好だったが、今の俺に出来ることはこれが精一杯で、心からの謝罪だった。
「あら、そう。そんなに言うなら許してあげる」
意外にも、と言うべきか、彼女はあっさりと僕のことを許してくれる様だった。そして、彼女は続けて言う。
「でもね、もう遅いわ。最初に言ったでしょ?これから起きることは貴方の所為でも、私の所為でもないのよ」そう言って彼女は台所からナイフを取り出した。
あぁ、たしかに言っていた。俺の目から希望が消えていき、対象的に彼女の目は爛々と光輝いていく。そして彼女は俺に問う。
「これから起きることは何の所為?」
俺は震える声で言う。
「バ……バレンタインの所為……」
彼女はさっき、食べる事をセックスに喩えていたが、今の彼女はカマキリの雌のそれで僕はこのまま彼女の歪んだ愛に堕ちていくのだと悟った。
俺が最期に聞いた声はやけに甘く艶のある声で「ハッピーバレンタイン」の一言だった。




