あの日の味
その日、俺は定食屋の食券機の前に立ち尽くしていた。
なぜかって? そんなの簡単だ。
目の前には、大好物のとんかつ定食がある。
しかし、それを俺は押せずにいたのだ。
そもそも、俺は金を入れていない。
……金を入れていないのだから押したところで食券は出てこない。
そう、俺が食券機の前で立ち尽くしているのはお金がないのだ。
いや、正確にはとんかつを食うだけの金はある。
しかしだ、ここで定食代およそ千円を使ってしまうとバイト代が出るまでの1週間、もやし生活を送らざる終えなくなってしまう。
俺は苦学生。
親からの仕送りは多少頂いているが、光熱費やら携帯代、それに授業料に当てるとバイトをしないと生活が成り立たない。
そんな訳で、普段から外食なんて滅多にしない。
けれども……、である。目の前には俺の大好物のとんかつ定食。あのサクサクな衣を纏ったぶ厚くジューシーな豚肉。噛めば衣がザクザクと音が鳴る。豚肉の脂もまた甘く、千切りキャベツが食べ放題。ライスに、お新香味噌汁だって飲み放題。
想像すればするほど腹が減る。そりゃそうだ、昨日の晩だってろくに食べていない。
金があれば……金があればこんな思いしなくていいのに。
最早、俺は空腹の獅子。
そうだ、これはご褒美なのだ。比較的まじめに講義にも出てきたし、バイトだって自分の役割に責任持って取り組んできた。
今日一日くらい好きな物を食べたっていいじゃないか。
俺は意を決して千円札を投入口に入れた。
食券機のランプが赤く点灯する。もう、俺を止めるものはない。決めたのだ、今日はとんかつを食べる!
ポチ。
あんなにも悩みに悩んだ末に押した食券は、あっけなく『ピーピー』と言う機械音と共に現れた。
俺はその食券を持ち店内へと入った。
……あれから20年経っただろうか。
あの日食べたとんかつ定食、今でも思い出せる程に美味かった。その後、バイト代が出るまでの1週間は、もやしで食い繋ぎ本当に辛かったがいい思い出だ。
大学も無事卒業し、それなりの給料を貰っている。
今となっちゃ、なんであんなことで悩んでいたのか笑ってしまうくらいに。
目の前では、俺の子供がとんかつを美味しそうに頬張っている。幸せな事に俺には勿体ない程美人な奥さんを貰い子供も出来た。
「あれお父さん、とんかつ残ってるよ?」
子供は俺の皿を見るなり、食べないなら私に寄越せと言わんばかりの視線をくれる。
「お父さんの分も食べていいよ。」
俺はそう言って、あの大好物のとんかつを子供にあげた。
「ありがとう!」
子供は喜びながらとんかつに箸を伸ばす。
それを見て、俺の子だなと笑った。
え? どうして俺が好物のとんかつを譲ったかって?
簡単な話さ。
トンカツを好きなだけ食える頃には、あんまり脂っこいもんは身体が受けつけないんだ。




