熊の日
通いなれた山道を歩いていると、草むらから何かが転がり出てきた。
「…」
全身毛むくじゃらのソイツは、しきりにあたりを見回すと俺の姿を認めるや、ビクリと身体を震わせたのち、こわごわと口を開いた。
「あのう、恐れ入りますが、道に迷ってしまいまして…」
恐れ入るのはこちらのほうだ。いや、それ以前にどうして喋っているんだ?熊が!
「あ、もしかして、驚かれていますか?そうですよね、普通、熊がしゃべるなんてありえないですよね、すみません…」
どうにも低姿勢な熊だ。しかし、何はともあれ向こうに敵対心はないようだし、意思疎通はできるようだ。
それにしたって相手は熊だ。慎重に言葉を選ぶ必要はあるだろう。
『道に迷ってしまったということですが、ここら一帯はあなたの縄張りではないのですか?』
「少し込み入った事情がありまして、今それをお話しすると長くなってしまうのですが、そうなんです。ついこの間からこの山に来まして、土地勘がまだ…」
『はあ、それは災難でした。ということであれば、きっと私のほうがここには詳しいでしょうし、そうであれば私にわかる範囲であれば教えましょう。そして、あなたはどちらに向かわれようとしたのですか?』
「ああ、助かります。私が行きたかった場所なのですが、山の中腹あたりでしょうか、打ち捨てられた山小屋があったと思うのですが」
『打ち捨てられた山小屋ですか…自分の目で見た覚えはありませんが、確か以前、知り合いから聞いた覚えがあります』
「本当ですか。おおよそでも構いません、場所などご存じでしょうか」
『そうですね、ハッキリとは聞いていないので定かではありませんが、ここからもう少し道なりに上っていった先、最初の地蔵のいるところから路の反対側の藪を超えた先にあった、とか』
「ああ、それだけ教えていただければ十分です。どうも御親切にありがとうございます」
『助けになれたようで何よりです』
「あいにくと今、手持ちがないのでお礼を渡すことができないのですが、いずれお会いできた暁には必ずお返ししたいと思います」
『この程度、大したことではありません。お気になさらず』
「なんて慎み深い方なのでしょうか。またお会いできることを祈っております。それでは」
『ええ、お気をつけて』
熊は教えられた通りの方向へのっそりと歩みを進め、やがて藪の中に身が隠れていった。
「…なんだったんだ、今のは」
とてもではないが、このまま山登りできる状態ではない。慌てて元来た道を引き返していった。
しかし、どうしたものか。
あれはどこからどう見ても熊だった。
そしてここは山とはいえ、住宅地からも近い場所だ。行政に連絡を入れて『駆除』を頼むのが道理だろう。
しかし、あの熊に限れば ―非常識なことではあるが― 人語を解し、むしろ常人にも劣らぬ知性すら感じさせる佇まいであった。
…そもそも、そのような熊などいるはずが無いのでは?
おそらく、熊への変身願望を持った人間の、よく手の込んだ仮装姿だったのではないだろうか?
ああ、そう考えるのがよっぽど道理にかなっているではないか。
通いなれているとはいえ山道だ。少し歩き疲れて判断を誤ってしまったのだろう。
そう自分で自分を無理やりにでも納得させ、今日見たことは忘れることにした。
夜、どこかで銃声のような炸裂音が響くのを耳にし、まさかと一瞬ドキリとしたが、
その翌日、誰に聞いてもそのような音は聞いていないと皆、一様にとぼけた表情であった。