くすんだ白
水気を孕んだ空気は、ひんやりとして、少し甘いように感じる。
湿気はあっても不思議とさらりとしているようだから心地いい。
漂う力の流れは掴みやすく、蜘蛛の糸のように細く繊細な繋がりが束になって、大きな川のように流れていた。
澱みなく流れ、しゅらしゅらとちいさな光の粒を撒き散らす。
人も踏み込めぬ程、森の奥深く。
適度に光が差し込み、それでも所々に闇を置いてある。
苔むした岩が大小転がって、小さな花が背の低い草から見え隠れする。
鳥の声と、小さな生き物の気配。
住むのならこんな場所がいいなと辺りを練り歩く。
水辺があり、かつ、平らに開けた場所を探した。
水音を頼りに進むと、急に開けた場所に出くわした。
足元から上がってくる風が、纏まっていない後れ毛を巻き上げる。
すぐ目の前、半歩ほど先からは急に地面が無くなっていた。
随分と下の方に大きな川の流れを見た。
上から見れば垂直に切立つ壁のようだ。
根を下ろす場所もないのか、岩肌の壁には草一本として生えていない。
遠くはない。
一歩前へ踏み出せばすぐにも水の中だけど。
ううんと唸って、別の候補地を探そうと、くるりと向きを変えた。
さっと何かが動いた方向に目を向けた。
風に吹かれた草花が揺れるばかりだったが、大きな木の足元の辺りに、白い布がのぞいている。
しばらくそこを見つめていると、ひょこりとこちらを確認するように頭を出した。
目が合うと慌てて木の後ろに隠れる。
白い衣装の、小さな女の子だった。
生きていない者だというのは、見ればすぐに分かった。
生きるものの色を纏っていない。
それ以前に。この森は、大人ですら生きていくには酷な環境だ。
迷い込んだのか、捨てられたのか。
じっと待っていると、女の子はまた木の陰から顔をのぞかせた。
ひらひらと振って、そのまま手招きをする。
こっちにおいでと語りかけると、女の子はぱっと笑顔に変わってかけ寄ってきた。
手を差し出すと、女の子は両手で握り、嬉しそうに、その場でくるくると踊るように回った。
背の高さは腰よりも下。
見たところ四つか五つの、小さな女の子だ。
『リールゥっていうの』
初めましてと挨拶すると、リールゥも嬉しそうに挨拶を返した。
『こっちよ』
手を引かれて、崖の方に連れて行かれる。
『こっちこっち』
崖下を指差した。
誘われてるな、と下をのぞく。
普通の人なら色々無理だけど、と可愛らしく笑う女の子を見た。
悪意はひとつも感じないので、言葉に従うことにする。
風を纏って、足元にも集める。
分厚い空気の上に乗って、一緒にゆっくりと下降していった。
地に足を付けると、よいしょよいしょと言うリールゥに手を引かれる。
切立つような壁際に歩を進めた。
そこには岩壁をくり抜いたような穴が大きく空いている。
奥は深くなさそうだが、中は影が濃くてよく見えない。
今度はちゃんと生きたものの気配がする。
低く響く唸り声が聞こえた。
『あっちに行け』
と獣の声がする。
『こっちに行こう』
とリールゥは誘う。
ふむと息を吐き出して、リールゥを見下ろした。
リールゥは悲しそうに笑って、穴の中に向かった。後ろ姿を空気に溶かして消える。
くり抜いた岩の中は、ほんのりと暖かい。
外側の殺風景な岩肌とは違って、中には背の低い草が生い茂り、地を厭わず全面をぐるりと覆っていた。
薬草のすっきりとしたいい匂いがしている。
傷薬によく使われる草だ。
獣の唸りはより一層、低く、大きく、長くなる。
近寄るなと何もかもを拒む。
そうしてあげても良いけれど、何もせずに出ていけば、きっとリールゥに悲しげな目を向けられる。
ふふと笑って息をもらす。
はい、よいしょ。
ごめんなさいよ、おじゃまさま。
『なんだおまえ! あっちいけ!』
丸まった体をもぞりと動かして、大きな頭を持ち上げた。
大きな、人の倍はあろうかというほどの濃い影だった。
『こっちにくるな! きたら殺すぞ!』
そんなことができないのは、丸まっている体を見ればすぐに分かった。
リールゥがこっちこっちと、手を引いた理由も。
丸まった体の内側、太くて大きな尻尾に包まれて、リールゥはそこにいた。
灰色に乾燥して、骨と皮だけになって。
陽に透けてきらきらとした赤毛は、くすみ、艶をなくして青みがかって見えた。
ひらりと風にまった白いスカートは、黒と茶褐色の汚れとで、まだら模様を作っていた。
唸っている黒い影の塊に、リールゥは死んだよと教えてやる。
『しってる……人は弱いからな。すぐ死ぬんだ』
ずっとこのままここに居るのかと聞く。
『リールゥがここにいるからいるんだ』
静かに息を吐き出す。
リールゥはこの上から落ちたのかと、半分にへしゃげたリールゥの頭を撫でた。
小さな体の半分は、ぎゅっと潰したように縮まっている。
『こっちはあぶないって、おしえてやったのに……おいかけたけど俺がおそいから』
リールゥはここから出て欲しいみたいだけどと、教えてやる。
『そんなのウソだ。リールゥはもうしゃべらないんだぞ』
ずっとここにいるんだと、もぞりと体を丸めて、顎を地に乗せた。
それはそうと。
ううん。
このもこもこの毛皮に触りたい。
リールゥのように包まれてみたい。
思い立つが早いか、無理くり場所をこじ開けて、リールゥの横に潜り込んで、同じように座る格好で背中をもたれ掛けた。
『おまえも死ぬのか』
死なないよと笑って返した。
『…………そうか』
影の獣はもこもこの毛と同じ、真っ黒な目をそっと閉じる。
遠くで鳴き声が聞こえた。
悲しくて辛くて、しんどくて、今にも途絶えそうだった。
ああ、鳴き声じゃなくて、あれは『泣き声』だ。人の子が出す声だ。
最近はよく子どもが捨てられる。
大概はもっと森の端の方だ。
捨てにきた大人は帰れて、捨てられた子どもは帰れない距離。
こんな奥に居るのは珍しい。
獣か妖ものに深くに連れ込まれたのか。
そうだとすると人の世に返してやらないと。
様子を見に行くと、声の主は小さな女の子で、地に伏せて大きな声を上げていた。
『どうしたんだちびすけ』
人の言葉で話しかけると、その子はひくひく声を引きつらせながら、泣き声を小さくしていった。
「……お父さんが……くるまで……まってるの」
『そういわれたのか? ここでまつのか?』
「……ここはどこ?」
『おい、ちびすけ。ここはまものの森だぞ、こわいところだ……だから出ていけ』
「……でもあなたはしんせつ」
女の子はむくりと起き上がって、そのまま座る。顔をあちこちに向けた。
「どこにいるの?」
『……ここだ……はやく出ていかないと、おまえを食っちまうぞ!』
「おおきなわんちゃん」
『ちがう! わんちゃんじゃない! ばけものだぞ! こわいんだぞ!』
「リールゥっていうの」
『は? なんだよ、リールゥって』
「こんにちは、リールゥです」
『あ? なまえなのか? おまえ、リールゥっていうのか』
汚れた小さな手で目の周りを擦って、涙を拭った。
そのままじゃ泥が目に入って、痛くてまた泣きだしたら堪らないと、顔中を舐めてやる。
嬉しそうに笑うから、ちゃんと涙の味がしなくなるまで舐めてやった。
『おい、たて、リールゥ……森のはしっこまでつれていってやる』
鼻先でぐりぐり押すと、リールゥはがしりと両腕で顔に抱きついた。
「うごくなっていったもん」
『……そういわれたのか』
「うごかずにまってろって、いったの」
『……そうか……』
一晩はリールゥと一緒に、その場で過ごした。
周りを小さな妖ものがちょろちょろして笑う。こいつら人をからかって、騙して楽しむから、きっとリールゥを惑わせて森の奥に連れてきたんだと、食い散らかしてやった。
朝になるとリールゥはあまりしゃべらなくなった。
知ってるんだ。
何も食べずにいたら、一日 水を飲まないだけで人は弱る。
こんな小さな子どもは特に早く。
水を運んで飲ませてやった。
虫も動物も、狩ってきてやったのに食べないと言ったので、甘そうな木の実を採ってきてリールゥの前に並べてやった。
リールゥはそれを食べて、少し元気になった。
『リールゥ……おまえのおとうさんは、もうこないぞ』
「……くるっていった」
『……ここは、森のおくすぎる。人はここまでこれない』
「……まってろって」
『またなくていい……おれが、森のそとまでつれていってやるから……な?』
「だめなの」
『だめって、なんでだ』
「みんながイヤだって」
『イヤだって? なにがだ』
「リールゥはきみわるいから、みんなリールゥがきらいなの……だからここにまってるの」
『おまえ、それは……』
この森に捨てられたのだと、リールゥは分かっていた。
妖ものに惑わされて、ばけものみたいな俺と話ができる。
気味悪がられるのは、その他の人間とリールゥは違うからだ。
リールゥはそれも知っていた。
知っていて、それでも親を信じて待っていた。
『じゃあ、リールゥ。おれがおまえの、おとうさんになってやるよ。……だから、ここじゃなくて、おまえのすきなところにいこう』
「わんちゃんがお父さん?」
『そうだ。おれがおとうさんだ』
しばらくはあちこちうろうろして、リールゥの住みやすい場所を探して移動を繰り返した。
闇が澱まない、光の差すような場所。
妖ものが好まない、清浄な空気と風が通る場所。
見つけたところは、下の方に川が流れて、空気の良く動く場所だった。
時々風向きが変わる。きれいな空気で妖ものはこっちには来られない。
何度も何度も気を付けろと言ったんだ。
リールゥはこんな高いところから落ちたら、簡単に死ぬからなって。
だから妖ものに出会っても、驚いたり、走ったりしないようにって。
怖くなったら、俺を呼べって。
どんなに遠くても、すぐに助けてやるからなって。
足は誰よりも早いと思ってたんだ。
四本もあるし。
風よりも早いって、思ってた。
でも違った。
リールゥは俺よりも早く、下に落ちていった。
人は弱い。
ちょっと高いところから落ちただけで、ぺちゃんこに潰れるんだ。
簡単に死ぬんだ。
真っ白な光が凄く眩しくて、目を閉じる。
暗闇に包まれて、目を閉じたのではなくて、意識が途切れたのだと分かった。
リールゥの養い親の夢と、リールゥの最期の景色が混ざり合っていた。
ずっとずっと、リールゥがこのまま朽ち果てても。
自分が朽ち果てるまで、己の子どもと決めたこの子を抱えて、リールゥとふたりの世界の夢を見るのか。
それは。
とてもきれいだけど。
きっとそんなのは、楽しくない。
胸の内側を穿って抉り、魂はすり減っていくばかり。
闇の色をしたふさふさをぐりぐりと撫でる。
ねぇ、お前。
リールゥをちゃんと葬ってあげよう。
『ほうむ……ってなんだ』
ちゃんと、世界に還してあげるんだよ。
そうしないとリールゥはどこにも行けないまま、ぼろぼろに疲れて、崩れて消えてしまう。
だから世界に還してあげるんだ。そうしたらまたいつか、何かになって、お前の目の前に現れる。
『ほんとか?』
待ってな。
絶対だから。
『……どうすれば、ほうむ、ってのができるんだ』
リールゥをここに残して、お前はここを出る。
そんで、リールゥに俺はもう大丈夫だと言ってやれ。
俺は大丈夫だから、リールゥも大丈夫だと、教えてやれ。
『ぜったい、リールゥはかえってくるのか?』
絶対だよ。
『こんどはすてられたりしないか?』
さあ、どうかな。
その時は、お前がまたお父さんになってやればいいじゃないか。
『……そうか……そうだな』
さあ。
ここを出ようか。
リールゥは誰にも触れないように、ここにこのまま埋めてやるよ。
『…………わかった』
呪を言葉に乗せて紡ぎ出す。
これでもかと花を呼んで、リールゥに手向けた。
まだらに汚れたリールゥの服は、色とりどりの花の中に埋もれて見えなくなった。
黒い大犬と穴の外に出た。
いつのまにか太陽の位置が変わっている。
一晩を越えて、朝が来たらしい。
外では朝靄の中にリールゥが佇んでいた。
くるくると赤い巻き毛の、真っ白な服の、ぷっくりと丸みのある小さな女の子が、にっこりと笑っている。
ほら、お前。
大丈夫だから大丈夫だと、言ってやれ。
息を吸い込んで、胸を逸らして大きく膨らませる。国の外にまで届きそうな遠吠えを響かせた。
びりびりと朝の空気が震えている。
心を引き毟られるような大きな泣き声。
その声を聞きながら、リールゥが誰にも触れないように、横穴を塞いだ。
岩と土とで蓋をする。
振り返ったときには、靄の中にいたリールゥはもう消えていた。




