あるいは財宝でいっぱいの海
どうなんだろこれ。
今日も夜がくるのか。
私は月明かりでぼんやりと明るい天井を見上げながら当然の事象をさも意外かのように思った。
なんだか釈然とせず、胸中は謎の焦燥感で充たされ落ち着かず、隣で眠る恋人が寝息をたてているのを確認して、こっそりベッドから抜け出して屋外へと出る。
最近、寝床につくと身体中でもぞもぞと蟲が蠢くような感覚に襲われて、こうしてアパートを抜け出して住宅街を彷徨ってしまう。
へとへとに疲労して、ふくらはぎに痛みを感じはじめるとようやくアパートに戻り、束の間の睡眠がとれる。
整然と連なる街灯に誘導されて、私は宛てもなく住宅街を縫ってジグザグに進んでいく。
夜空は冬らしく冴え返り、吐く息は白い。鼻を啜ると冷たく乾いた冬の匂いがした。
ざわざわと胸中が潮騒のように響く。うるさくてたまらない。
一体、いつからこの焦燥感が起こったのか考えてみるに、一緒に暮らす恋人との結婚を決めたときからかもしれない。
プロポーズはまだしていないが、仕事から帰宅した折、台所で彼女が食事の支度をしている姿を見て「ああ、私はこの人と結婚するのだろうな」と思った。
その瞬間、私の中にあった大切ななにかが玉突きのごとく押し出され、代わりに彼女との生活が空いた部分を埋めた。
夜な夜な大切にしていたなにかが恨めしそうに周囲をうろつき、選択は正しかったのかと囁く。
これがマリッジブルーだろうか。プロポーズが成功してもいないのに呑気なものだ。
ざわざわざわざわ。
胸の騒めきと似たせせらぎが聞こえる。
目前の小さな橋まで辿り着くと、私は進路を変更して、河川沿いに歩いてみる。
夜の河川は住宅街を分け入りながら這いずる大蛇みたいに暗がりを悠然と流れいく。
この川はどこからはじまって、どこでおわるのかしら。
幼いころの世界は疑問と不思議でできていた。
見るものは大きく、ひとつひとつがきらきらと瞬いていた。
臆病なくせに好奇心が強い行動派であった私は疑問を解決せんと挑んだ結果、迷子になったり、ケガをしたりした。よく母親にこっぴどく叱られたものである。
大人になった今の世界は諦念と納得でできている。
会社へ抱く憤りは諦めて、そういうものだと頷き、みんなと足並みを揃えて社会を渡る。
私は普通に幸せだ。
結婚したいと思える恋人に出会えたし、会社の業績も順調でしばらく倒産することはないだろう。
贅沢すぎるぐらいだ。現代の世の中で普通の幸せを掴めた人のほうがよっぽど少ない。
みんな早すぎる流れに溺れぬよう必死にもがく。
そのまま、沈んでいってしまった人たちには救いの手をさし伸べられることはない。
最大級の幸福がほしいと誰でも願う。
大金を得て悠々自適に暮らしたいし、いつまでも柔らかく大きなおっぱいを触っていたい。
チャンスがあれば、相手を蹴落とすのに躊躇がない。
誕生したときから、私たちは席取り合戦を強いられる。
私は普通に幸せになってしまった。もう最大級の幸福は願えない。
両掌をお椀にした中に程よく満たされた幸せを守るために生きるのだ。
それが少し不満で不安で私の気分を波打たせる。
同年代ぐらいのスーツを着た男性とすれ違う。
立ち止まって振り返ると彼はコンビニ袋を携えてとぼとぼと明らかに覇気がない足取りで河川沿いを逆流していった。
私は自分にありえた未来を彼と重ねる。
社会との折りあいがつけられず、葛藤に疲弊して、また慰めてくれる恋人もいない。
ひとりで戦って、ひとりで死ぬ。
勇猛果敢に感じつつも、それはひどく淋しい。
そうか。簡単なことだった。
幸せとは自分だけじゃ得られない。
ひとりでは虚しくてやりきれない。
恋人や友人が不幸では真の幸せを謳歌できない。
恋人や友人が幸せになるためには恋人の友人、友人の恋人が幸せでなくてはならない。
やっとわかった。
私は背中の両肩周辺に力をこめると、凝り固まった筋肉を伸ばすように翼を広げた。
二、三度翼をはためかせて夜空へ天高く飛翔する。
彼女はまだ眠っているだろう。
朝目覚めて、隣で寝ているはずの私がいなくて困惑するかもしれない。
行方不明になった私を想って涙を流すかもしれない。
でも、その悲しみは踏切で電車の通過を待つ間みたいなものだ。
すぐにまた君を愛してくれる人が現れる。空いた席には誰かが座る。
地上を見下ろすとさっきまで傍を流れていた川は別の川と合流して広大な海まで繋がっていた。
海の彼方にははたしてなにがあるのかしら。
ざわざわざわざわ。
読んで頂きありがとうごいました。